食べられた後
千住の街の人は、
千住の街を襲った竜が去ったことは、空を見上げていればわかった。稲妻をまとって天から威圧的に街を見下ろしていた黒雲が、だんだん晴れていったからだ。
「ちょっと様子をみてくる」と出かけたおじさんが戻ってくる。「もう大丈夫だ」と、おじさんは避難した人たちに笑いかけたけれど、肩を落としていた。
「竜は、お凛の姉御と赤門衆が追い払ってくれたよ。でも、街が――」
急き立てられるように街道を駆け戻って、荒川を目指した。
お凛と赤門衆が戦っていたあたり――荒川にかかった巨大な木造橋、千住大橋があった場所へと戻ってみて、おれは、息をのんだ。
千住大橋には、歯型がたくさんついていた。ちょうど、橋の真ん中で食いちぎられていて、千住本宿側の端は、ちょうど荒川の真上で途切れていた。
橋の向こう側、南宿へとつながる唯一の道が、切れてしまっていた。
「橋が――」
「今回は手ひどくやられたね。――向こうに渡れなくなったね。舟も、もう出ない。船着き場も食われちまった」
食べられたばかりの街は、無残にも真っ白になっていた。
前に病院が食べられた時と同じだ。データをダウンロードしたものの、なにかのエラーが出てうまく表示されなかった時みたいに、川岸の一角だけが、ぽっかりと真っ白に染まっていた。
「南宿にいい店があったのに」
赤門寺を出て一緒に荒川にやってきた街の人たちは、川の対岸を眺めて肩を落とした。
黒い雲が晴れて、荒川は早朝に見た時とおなじように深い青色を取り戻している。その向こう側の対岸には、千住の本宿と同じように賑やかな宿場町――
でも、いくら見えていても、もうたどり着けない場所になってしまった。橋があったら歩いても渡れたし、舟に乗って向かうこともできたけれど、千住大橋は真ん中で食べられて、歯型だらけ。川岸にあったはずの船着き場も、舟ごと食べられて、そこだけ真っ白になっていた。
川の下流を眺めて、おれははっとした。
「両国は――あっ」
川下にある賑やかな街、両国のあたりも、真っ白に煙っていた。さっき、竜がつれてきた黒雲に覆われたあたりで、距離があるからしっかり見えないものの、あきらかに景色が違う。霧に包まれたように、ぼんやりと霞んでいた。
おれは、なにが起きたのかを理解した。両国の街も、食べられてしまったのだ。千住大橋や川岸の船着き場のように――いや、あの街に、お凛や赤門衆のような竜と戦える人がいなかったなら、ここよりもっと竜の好き勝手に食われまくって、街ごと消えていてもおかしくない。
「そんな……おヨネさんと直さんは――吉太さんは――」
両国の街があった方角を眺めて涙ぐんでいると、うしろのほうから、賑やかな気配が近づいてくる。
「お凛の姉御、やったな! 竜が去ったぞ」
「お凜さん、ばんざい! 赤門衆、ばんざい!」
きっと戦いを終えたお凛と赤門衆を見つけて、街の人が騒いでいるのだ。
でも、おれは複雑だ。全然「ばんざい」な気分じゃないからだ。
両国の街はたぶん消え去っている。船着き場も消えているから、たしかめにもいけない。――お凜は知っているだろうか。両国の街が食べられたなら、そこにいた人たちも竜に食べられてしまったかもしれない。街ごと、消えたかもしれない。
「吉太、直、吉太、直!」と、泣きわめいていたお凛の姿を思い出して、もらい泣きをしてしまう。でも、街の人たちと一緒にいるのか、うしろからきこえたお凛の声は、明るかった。
「めでたいもんか! いろいろ食われちまったよ。あの竜の奴め――今度会ったら、ただじゃおかないからね!」
気風のいい物言いはいつも通りだけど、おれはぽかんとして、お凜の声がきこえるところを振り返った。
思った通り、お凜は背後にいた。千住大橋の入り口あたりで街の人に囲まれて、冷や水やらなにやらを手渡されて、竜退治の疲れを癒していた。
おれに気づいたようで、人混みのなかで顔をあげたお凜は、おれのところへとやってきた。
「慧、無事だったかい。心配してたんだよ」
お凜は、おれの無事を喜んでいた。でも、おれは、おれの無事なんかを祝う気になれなかった。
つい目が、荒川の下流を追う。そこにあったはずの両国という街のあたりは、霧になったかのように真っ白に煙っていた。
「お凜さん……吉太さんは無事かな。『直』さんと、おヨネさんは――」
「直」と「おヨネ」は、たぶんおれの両親と関わりがある人たちだ。顔がそっくりだったし、名前も似ていた。
また、お凜が泣き叫ぶのではないか――。
心配になって、おずおずと話しかけたけれど、お凛は泣かなかった。きょとんと真顔をして、首をかしげた。
「おヨネ? だれだい、それ。直……吉太? きいたことある気がするけど……知らないと思うねぇ」
(うそだ)
叫び声が出かかった。口からすっと出ていかなかったのは、驚愕したからだ。
その瞬間だった。おれは、気づいた。この世界がなにかっていうことに。それから、お凛がだれかっていうことに。
気づいたのは、似ていたからだ。前に、強烈に驚いた時と――。
気づくなり、息がとまりかけた。息が吐きづらくなって、うつむいた。前髪が目にかかって目の前が見えにくくなるくらい、うつむいた。
「ねえ、お凜さん。お凜さんは、病院のことを知らないよね。北千住氷川クリニックっていう名前なんだ――そうだ。おじいちゃんのお店の近くにあったあの病院だよ。病院の前に自動販売機があって、おれ、ときどきそこでペットボトルのジュースを買ってもらったんだ」
おれが思い出していた店は、お凛たちが作戦会議をするのに使っているお江戸の居酒屋のことじゃなかった。幼いころから何度かお邪魔した、おじいちゃんとおばあちゃんが切り盛りする定食屋だ。
その店は、赤門寺に近い細い道に面していて、お店から少し離れたところには、小さな病院があった。北千住氷川クリニックっていう名前で、そばにあった自動販売機が、おばあちゃんのお店から一番近い自動販売機だったから、おれが遊びにいくと、よくそこでジュースを買ってくれた。
涙がとまらなかった。
でも、おれは顔をあげた。
泣き顔が見られてしまっても、お凛の顔を見上げて、これからこの人がどんな顔をするのかと、見ていたかった。
「お凜さんは、あの病院のことを知らないよね。だって、あの病院は竜に食べられちゃったもん。――両国も、もう知らないよね。竜に食べられちゃったもんね」
うっと、のどが震えた。いいたくないよ、認めたくないよ――と、唇はいやがったけれど、いった。
「吉太さんも、『直』さんも知らないよね。――ううん、『直』さんじゃない。
ぽろぽろ、ぽろぽろと、涙がこぼれて仕方ない。
たぶんおれは、恐ろしい瞬間に立ち会ってしまったんだ。
おばあちゃんが、息子と、その奥さんを忘れ去ってしまった瞬間だ。それは、おれの父さんと母さんでもある。
「うえだ、よね……? きいたことがある気がするけど――」
お凜はのどに小さなとげが引っかかったように、真顔をゆがめた。でも、「ああ、あの子ね」とはいわなかった。さっきは泣き叫ぶほど心配していたのに。
おれは、病室でのできごとを思い出していた。
北千住の街に引っ越した翌日に、入院していたおばあちゃんのお見舞いにいった。でも、認知症にかかったおばあちゃんは、おれのことを覚えていなかった。
おばあちゃんそっくりな顔をした「知らないおばあさん」に見えるその人は、首をかしげて、妙なものを見るように、おれの顔を覗き込んだ。
「あなた、誰?」
はっきりいって、ショックだった。
でも、いまならわかる。おれはその時、おばあちゃんの世界ではとっくに竜に食べられていたからだ。
そして、さっきの戦いで、おばあちゃんは、父さんと母さんのことも忘れてしまったのだ。きっと。
あの竜は、おばあちゃんの記憶を食べている病気なのだ。
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