フジヤマ・ダイブⅠ


  ◆    ◆  



「本当ですか、慧の――? わかりました、すぐに警察署にうかがいます」


 電話をしていた夫の表情が、わずかに安心したように見えた。それで、夜音子よねこは、夫が携帯電話を耳から離すよりも先に、袖にとりついた。


「慧が見つかったの?」


「彗のものらしい手紙が見つかったらしいんだ」


「手紙……慧の――!」


「まだ、手がかりだ。イタズラかもしれないから、確認しにきてほしいって」


「それでも……急がなくちゃ」


 すぐさま靴を履いて、早足で警察署へ。


 着ていた服のままで、そのまま家を出た。前をいく歩行者を追い抜きながら、どうやって歩いてきたのかを忘れるほど急いだので、夜音子は、気づいたらもう警察署にいた。


 警察署に駆けこんで、世話になっている警官のもとへ。


 「これなんですが」と警官がそろそろと差し出したのは、皺が寄ったレシートだった。値引きされた弁当や、ペットボトルのお茶や、ガムテープなどの商品名と値段が並んでいて、字と字のあいだの小さな隙間に、引っ越し先の住所が書いてあった。息子の名前もあった。――ただし、かなり念入りだ。


  上田彗(本当に本人です)


 警官は首をかしげていた。


「病院のポストから見つかったそうなんですよ。ただ、イタズラにも見えます。実は、裏にも――」


 警官は、くるりとレシートを裏返しにする。


 印字のない白い面にも、手書きの文字が居心地悪そうに詰まっていた。



  SOS

  探さないでください。

  助けて。

  心配しないで。 

  ちょっと帰れないけど無事です。親切な人に助けてもらっています。

  帰り方を探しているところです。いままでありがとう。

  不思議なことになってます。

  警察じゃなくて霊媒師をここに呼んでください。

  いじめられてはいません。(本当です)


  上田彗(本当に本人です)



 警官は深刻そうな表情をつくって、夫、直人の顔を覗きこんだ。


「なんというか、文面が混乱しているというか、子ども、もしくは子どもと同レベルの大人が関わっている可能性があるというか――まずは、ご子息のものかどうかのご確認を。この字に見覚えはありますか?」


「慧の字――だと思うけど……」


 夫の歯切れが悪くなるので、夜音子は顔をあげた。警官をまっすぐに見つめた。


「息子の字です。あの子の言葉です。あの子、作文が苦手なんです。ほら、あの子が喋っているような言葉づかいです」


 文字を目で追うだけで、息子の声が聞こえる気がした。ホッとして夜音子が笑顔になると、かえって警官は心配げに表情をくもらせた。


「たしかに大事な手がかりではありますが、ほんの些細なことでも気になることがあれば、教えていただきたいのです。たとえば、ご子息を誘拐なり監禁なりをした人物に、無理やり書かされた可能性も――」


「だったら、もっと言葉がゆがむと思います。これはあの子の言葉です。――よかった、慧は無事なんです」


「――そう、ですね」


 警官は渋い顔をした。


 


 レシートに書かれた手紙のコピーを受け取って、夜音子は何度も何度も読んだ。


「とりあえず移動しよう」


 手の中の手紙を見つめたまま、警察署から出ようともしなかったので、直人はタクシーを呼んでいた。 


「ここにいてもどうにもならないよ。その手紙が入ってたっていう病院に行ってみようか」


 タクシーに乗り込み、座席に座ってから、直人は話を続けた。


「北千住氷川クリニックっていう病院らしいんだよ。うちの店があった場所のすぐ近くだ」


「うちの店?」


「『キッチンうえだ』。父さんと母さんがやってた定食屋だよ」


「ああ――」


 夜音子は、うなずいた。夫の実家は、北千住駅近くの路地裏に小さな店をもっていた。フライ定食や、かつ丼や、むかしから変わらないメニューを出す、昔ながらの定食屋だ。


『昔はね、このあたりに大企業の事務所があって、もっと栄えてたのよ。その頃からずっとね、働いてる人たちの胃袋を支えてたのがこのお店。つまり、「キッチンうえだ」は北千住の胃袋を握ってたってわけ』


 と、豪快に笑った、夫の母親の笑顔を思い出す。


 認知症が進んでからは、その笑顔は見られなくなった。気風のいい物言いも、きけなくなったけれど。


「そうだ」


 夜音子はハッと顔をあげた。義母は、むかしからこの街に住み続けている。常連客も地元の人ばかりで、知り合いも多いはずだ。


「ねえ、いい霊媒師を知らないかしら」


 レシートに書かれた手紙にはこうあった。


『警察じゃなくて霊媒師をここに呼んでください』


 息子のものに間違いない癖字へちらちらと視線を落としながらたずねると、直人は眉をひそめた。


「おれにそんな知り合いはいないよ」


「あなたじゃなくて、お義母さんよ」


「――いまのあの人に話が通じると思うか?」


 直人の目がますます細まった。逃げるようにタクシーの窓から外を眺めて、「はあ」とため息をつく。


 「とにかく、一度お義母さんの家へいきましょう」と、行先を途中でかえるように運転手に頼んだ。病院に向かうなら、夫の実家でしなければいけない用事があったのだ。


 むかし、直人が子どもの頃に暮らしていた家は、北千住の街の一角にある。繁華街からすこし奥へ入ったところにあって、周りには店がたくさんあった。直人の両親が営んでいた定食屋「キッチンうえだ」も、そのひとつだった。 


 タクシーを降りて、合鍵で玄関から入ると、その家はしんと静まり返っていた。なにしろ、義父が亡くなり、義母も入院して、いまは誰も住んでいないのだ。


 ここへ来たのは、荷物を取りにくるためだ。入院中の義母のための荷物。


 看護師から頼まれていたものを探しているあいだ、直人は「こんなこと、しなくたっていい」と、ブツブツいった。


「母さんのことより、いまは慧だ。あと一日待って見つからなかったら、顔写真も出して呼びかけよう。東京にいない可能性もある」


「東京にいないって、どこに――」


「連れ去られてるなら、日本中どこにいるかわからないだろう」


 「そういうニュースもよくみるだろう?」と、直人はため息ばかりをついた。


「こんなことになるなら、こんな街に越してこなきゃよかった。どうせ母さんは、おれのことも、彗のことも覚えてないのに」


「そんなふうに考えるのはやめましょう」


 なぐさめつつ荷物を集めて、最後に夜音子の目が向いたのは、本棚だった。


 二階の窓ぎわにある本棚で、天井近い場所まで本がぎっしり詰まっている。文庫本が多かったけれど、いかめしい背表紙の大きな本もあった。「古地図」や「江戸の千住」やら、古い時代の東京の本が多い。文庫本は、歴史小説が多かった。


「お義父さん、歴史小説が好きだったのね」


「そういえば、よく読んでたな」


 直人も、ぼんやりと本棚を眺める。日当たりがよい場所に置かれていたせいで、日に焼けて背表紙の色が薄れている本も多かった。


「あら、これ――」


 本棚の、ちょうど目の高さくらいの棚に、原稿用紙の束が置いてあった。百枚は軽く超える量で、ノート数冊分の厚みがある。


 手に取ると、その原稿用紙も日に焼けていたせいで、紙が乾いてパサついていた。


 茶色のインクで均等に印刷された升目に、鉛筆で字が書かれている。百枚くらいのすべてが、ぎっしりと文字で埋まっていた。


「これ――」


 カギカッコを使って書かれた台詞のような文章も、あちこちに見える。一番上に重なった紙には、真ん中の列に、こう書かれていた。



  『フジヤマ・ダイブ』

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