地面を蹴って、駆けてゆけ
そっか、ここを去るんだ。とうとう、帰るんだ。
急に寂しくなって、じっくり街の人を見回してみると、いままで気づかなかったけど、見覚えのある顔や似ている人が何人もいた。
おばあちゃんの記憶の中の人なんだから、千住の街のご近所さんや、親戚や、おじいちゃんと経営していた「キッチンうえだ」の常連さんもいるのかもしれない。
ここは単なるお江戸の世界じゃなくて、時代が違う地面がぐっちゃぐちゃにくっついたふしぎな世界でもあるから、もしかしたら、同じ人が若い頃と年を取った後の姿で、何人にも分かれて存在しているっていうこともあるかも――。おばあちゃんの思い出の世界だもんね。おばあちゃんの自由だ。
だったら、おれよりもちょっと年上になったお父さんや、生まれたばかりのお父さんも、どこかに紛れているかもしれない。――そうだったら、いいな。残っているといいな、記憶。
おれは、みんなでつくった結界の真下に立った。
結界で守られた街の外側は、黒い竜がいつ襲いかかってきてもおかしくない無法地帯。道にも家も、竜に食われて白い歯型がついているところがたくさんあった。
そこへ続く道に、おれは立っていた。
おれに手を掴まれたおれそっくりな少年が、身をよじって文句をいった。
「どうしておれまでつれていくんだよ」
「おまえは、ここにいなくていいからだよ。この世界が竜に食べられて小さくなっていくのは病気のせいで、おばあちゃんのせいじゃないんだ。おばあちゃんが自分を責めなくていいからだ。だから、一緒にいくんだ。この世界を出るよ」
「この道をいけば、おれは消えるのかよ」
「わかんないよ。おれだって、こんな道を進んだことがないもん」
ブツブツと文句をいうそいつの手首を握りしめて、おれは精一杯説明した。
「おれは家に帰るよ。おまえだって、いきたいところにいけばいいんだ。ただ、ここにいてもおばあちゃんが苦しむだけだよ。ってことは、おまえだって苦しいはずだ。人を恨むしかないところにいたって面白くないだろ? おれといこうよ」
とうとう、お別れだ。
おれは振り返った。
街の人たちが、総出で見送りに集まっていた。
顔や腕に墨を付けた人たちもたくさんいた。みんな、和紙に文字を書いていたところだったのだ。
ここで何日も過ごして、どの人にもお世話になっていたから、とっくにみんな知り合いだ。別れるのは寂しかったけれど、そこまで寂しくはならなかった。おばあちゃんの知り合いなら、もしかしたら、また現実世界のどこかで会うかもしれない。
「ありがとう、またね」
お凛はトレードマークの赤い羽織を風になびかせて、おれに一番近い場所に立っていた。隣には、真っ黒な着物を着こなした蔵もいる。――おじいちゃんだ。
「お凜さん――ううん、おばあちゃん。おじいちゃんと……ずっと仲良くね」
このお江戸の世界は、おばあちゃんが守り切った思い出だ。
そこに、大好きなおじいちゃんと二人で、いまでも毎日仲良く暮らしているなら、おれは嬉しい。お父さんもお母さんも、きっと嬉しいよ。ここで「酷い母親め」って思い出を忘れていく自分のことを罵り続けるなんて、そんなことをさせては、絶対に駄目だ。
おれは少年の手首を握りしめて、駆け出した。
「じゃあね、みんな。またね」
この道の走り方は、覚えていた。人が、慣れていく生き物だからだ。すこしずつ、だんだん、でも確実に、おれは走り方を覚えていた。
走るのは苦手だ。でも、走った。
地面を蹴って、お江戸の街から続く、めちゃくちゃの道を走り続けた。
前は、お凛のところへ戻ろうとお江戸の道を探した。その時にも、きっと行き先は選べたはずなんだ。おれがたどっている道は、昭和の地面も、お江戸の地面も、令和の地面も混じっていて、パッチワークみたいなつぎはぎ状態だ。
なら、令和の世界へ向かう道をたどればいいんだ。一歩目、二歩目は、本当にこれで合っているのかなって、手ごたえのなさに不安になるけれど、三歩目、四歩目を踏み出していくうちに、道の様子は変わっていく。行先を選んでいくごとに、ゴールに近づいていくんだ。
スニーカーの底で地面を蹴った足の裏から、世界を感じた。走るたびに頬で切っていく風にも、走る自分のスピードを感じた。
振り返りもせずに、おれは走った。
お凛と別れるのが悲しくて、自分の力だけでゴールを目指さなきゃいけない怖さもあって、走りながら泣きたくなった。泣き声をあげるかわりに、叫んだ。
「うわあああああ!」
ダン、ダン、ダン、ダン――静寂の中にたったひとつ響く自分の駆け音を聞きながら、昭和の道や平成の道を飛び越えた。走っているだけで、時間を駆けていく気がした。
うしろに、たくさんのものがつらなっていると思った。
おれのお父さんとお母さん、お父さんを生んで育てたおばあちゃん、おばあちゃんが大好きなおじいちゃん、二人の暮らしと、周りの人たち、吉太さん、それに、街の神様。
その、大勢いるみんなの端っこにつらなった、おれ。
知らない街にたどり着いたけれど、おれは一人じゃなかった。帰りたいところはどこなのかっていうことも、気づいた。
だから、そこを目指せばいいんだ。悲鳴をあげたくなるような奇妙な道かもしれないけれど、帰り方はかならずあるんだから。
地面を蹴って、駆けてゆけ――。
地面を蹴って、駆けてゆけ――。
胸で言葉を唱えて、無我夢中で駆け続けた。
帰ろうと思えば帰れるし、いこうと思えば、いきたい場所にいける。道は、思えば思うほど正しい道筋がたぐり寄せられて、やがてきっと、確実な道になる。
タン、タン、タン――。いつのまにか、駆け音が軽くなっていた。
世界と世界をつなぐ接着剤みたいなグニャッとした部分を踏む回数が減っていって、道の踏み心地が一定になった。アスファルトの道になっていた。
おれはまだ走っていた。
気がつくと、周りに見えるものが、見覚えのある世界になっていた。
はっと気にした時、手首をにぎり続けていた少年はいなくなっていた。かわりに、不格好な風車をにぎりしめていた。小さい頃にお父さんがアルミ缶から作った風車だ。
だから、思った。これは、おばあちゃんからの『覚えてるよ』の合図だ。
覚えてるから、『忘れてしまってごめんね』って思うんだ。
目の前には、神社があった。夕暮れ時の氷山神社だ。
夕日を浴びてギラギラと輝く岩山があった。富士塚っていうんだよって、小さいころにおばあちゃんから聞いた気がする。
くたくたになった足とギリギリと痛む横腹をさすって、おれはケラケラ笑った。
「ほら、帰れた」
黄昏時。茜色の光と夜の影を帯びはじめた神社の森の向こうには、高層ビルが見えている。引っ越してきたばかりの時に眺めたゴミゴミした住宅街の屋根も、遠くまでつらなっていた。
息が整いきらないうちから、ボディバッグのファスナーをあけた。中にあるスマホを掴むためだ。
確かめる前から絶対に大丈夫だと思っていたけれど、思った通り、画面右上には、通信可能を示すアンテナのマークが表示されていた。電話が使える世界に戻っていた。
すぐに、電話をかけた。
「もしもし、お母さん。いま、神社に戻ってきた」
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