悲しみから生まれた悲しみ

「噂をすれば――ねえ、おばあちゃん。あいつのことを覚えてるよね?」


 あいつは、おばあちゃんのことをこんなふうにいっていた。


『最悪の酷い母親だっていうところは違わないだろ! 子どもを忘れて、竜に食われるのを見捨てるんだぞ!』


 そんなことはない。おばあちゃんはまず生きるために必要な街を守っていただけで、あいつのことだって守りたかったはずだ。一番じゃなかっただけ――ううん、一番大事なものがたくさんありすぎたんだ。だから、あれもこれも、全部を守るって、あんなに戦っていたんだ。


 少年は、上空でふわりと浮いてとまった。まるで、街を食らおうと狙いをさだめる竜のようにお凜を狙って、じっと見下ろしていた。


「ねえ、おばあちゃん。あれ、お父さんだよね?」


 お凜も少年を見上げた。でも、そいつのことが見えているのは、お凛とおれだけのようだった。周りにいた街の人たちは、誰一人として空を見上げようとはしなかった。


「あれは、あたいだよ。あたいの――いえ、私の、後悔だね」


 お凜は、困ったように笑った。


「私は、直人も守れなかったんだ。大きくなってからの直人を、まず忘れちまった。生まれたばかりの頃の直人と、三つくらいの頃の直人、八つくらいの頃の直人――と、覚えているあの子の部分もまだ残ってるんだけど、つぎはぎで、とにかく、直人と過ごした時間の一部は、失くしてしまった。あの子を産んで、育ててきた母親のくせに、守れなかったんだ。それが、悲しくて、悔しくてね――」


 お凛の指先が目元に触れた。ほろほろと涙がこぼれていた。


「だから、私を、自分で責めていたかったんだ。あの子の姿をしたものが私を責め続けていれば、せめて『なにか大事なことを忘れた』ってことを覚えていられるんじゃないかって――」


「でも……」


 おれは、氷山神社で会った神様のことを思いだしていた。


『時ハ、誰ニモ戻セナイカラナァ~』


『時?』


『キミノオバアチャンノ病気ハ、時間ヲ戻サナイ限リ治ラナイ、時間ノ病気ダモノ。アノ竜ハモウ生マレチャッタシ、竜ハモウ、キミノオバアチャンノ時間ヲ食ベチャッタ』


 そうだよ。おばあちゃんが記憶を失くしていくのは、病気のせいだ。


 それに、大事な思い出を忘れていくのは、忘れていく本人が一番悲しいはずだよ。


 もしもおれが、お母さんのことを突然忘れたら?


 おれは、忘れたっていうことも思い出せずに、お母さんのことを「誰?」とか「へんなおばさん」って思ってしまうかもしれない。その時、お母さんはどんな顔をするだろう――その後に我にかえって、お母さんにそんな態度をとったって気づいた後、どんなに悲しいだろう。


「おばあちゃんは悪くないよ。なら、あいつこそ、竜に食べられるべきだ」


 悲しみで記憶を留めるのは、悲し過ぎる。誰にとってもいいことが起きないよ。


 それくらいなら、おれなら忘れ去っていて欲しい。せめて、忘れた後の世界で幸せに暮らしてほしい。


 おれは、頭上をあおいだ。お凛の様子をうかがうように上空で旋回したそいつを、大声で呼んだ。


「降りてこい! 降りてこいったら、降りてこい!」


 ――決めた。あいつをつれて、おれもここを出る。


 もともとおれはここの住人じゃなくて、現実の世界から飛びこんできたんだ。帰らなくちゃいけないし、すこしずつだけど、帰る方法もいくつか思いついていた。


 おれがこの世界にきたのは、竜に食べられたからだった。なら、もう一回竜に食べられたら、戻れるんじゃないのかな?


 あの竜に食べられるっていうことは、おばあちゃんが記憶を失うっていうこと。つまり、お凛の世界から切り離されるってことだ。


 でも、あの竜に食べられた時のベッタベタのネッチョネチョは、できればもう二度と体験したくない。なにしろ、竜のウンコになる一歩手前の状態を味わうのだ。


 だから、竜のウンコになるのは最終手段だ。もうひとつ思いついた、べつの方法をまず試してみよう――うん、そうしよう。


 お凜は、紙束を大事そうに抱いていた。紙には、おれが書いた字が並んでいた。


 上田直人(りん子と蔵之介の息子、慧の父)

 上田夜音子(りん子と蔵之介の息子の嫁、慧の母)

 上田慧(おれ、りん子と蔵之介の孫)


 ほかにも覚えていることを書きまくったので、和紙には白いところがほとんど残っていない。お凜はそれを胸にぎゅっと抱いて、笑った。


「慧、ありがとう。おまえさんのおかげだよ。残ったものは、すべて守ることができた。これからここで、みんなで書き溜めたものをゆっくり眺めて暮らすよ。そうしたら、あの竜から街を守る力はきっと強くなると思う。それに、なんだか思い出の種ができたみたいで、嬉しいんだ。そのうち種をまいて、きっといつか芽が出て、また豊かに実るんじゃないかって思うと、『どうにかなるや』って、ほっとしたよ」


 姿はお凛のままだったけれど、すこしずつ背中がまるくなっていく。年をとった人の体つきに変わっていくようで、喋り方もだんだん変わってきた。すこしずつ、おれが知っているおばあちゃんに近づいていった。


「書くって、いいものね。慧くんのおかげで、思い出してきたわ」


 それから、お凜は寂しそうに笑った。


「慧くんに、謝らなくちゃ」


「謝る? なにを――」


「ここへ呼んでしまったことを。私が、慧くんを呼んじゃったのよね」


 お凛――おばあちゃんは、一言一言を大事にいった。


「ほら、千住の病院にお見舞いにきてくれたでしょう。私のために引っ越すことになって、転校もして、たいへんだって、話してくれたでしょう。でも、私はその時、中学生になった慧くんのことをしっかり覚えていられなかったから、声をかけられなかったの。それが悲しくて、いつのまにか、呼んでしまったみたい」


「あの時――?」


 おれも、強烈に覚えていた。新しい生活や転校先になじめるかが不安で、おれは病室のおばあちゃんの前で、泣きながら愚痴をいったんだ。


『おれさ、引っ越ししたからさ。友達も思い出もみんな捨てなきゃいけなくてさ、いまのおれ、なんにもないんだ。「新しい友達をつくれ」って父さんも母さんも簡単にいうけど、そんなの、すぐにうまくいくわけないよ。――おれ、なんのために生きてるんだろう。こんなにつまらなくて、なにが楽しいことなのかも、思い出せないのに――』


 その時のおばあちゃんは、おれのことを覚えていなくて、お見舞いにいくと「あなた、誰?」とおれを怖がった。それも、ショックだった。


 お凜は泣きながらすこし笑って、謝り続けた。


「慧くんが泣いたから、慰めたかったの。でも、病院にいた現実の私は、もう慧くんに話すことができなかったから、知らずのうちに呼んでしまったんだ。ごめんね」


 お凛――おばあちゃんが、すうっと大きく息を吸う。


 むかしから、おれが覚えているおばあちゃんはいつも豪快で、お父さんに叱られてふてくされたおれを見つけると、「あらぁ、どうしたの! がんばれ、がんばれ」と明るくいって、慰めてくれた。その時みたいにいまも、泣きながらだったけれど、ハキハキと明るい口調でいった。


「あなたっていう男の子が生まれてくるまで、私や蔵さんや、お父さんやお母さんや、この街で暮らす千人、万人っていうくらいの数多くの人が、たくさん生きていたの。その端っこにあなたは繋がって、いまも生きているの。あなたが生きていてくれるおかげで、死んでいった人は嬉しいの。これから死んでいく私のようなおばあちゃんも、嬉しいの。思い出を忘れていく私のような人も、あなたの幸せを信じて、忘れていくの。だから、お願いだから、つまらないなんて言わないで。あなたに命を繋いできた大勢の人が、あなたにはたくさんついているんだよって、伝えたかったの」


「ごめんね」と、おばあちゃんは泣きながら笑った。


 おれも泣いた。


「謝らなくていいよ。おれ、わかったから。おばあちゃんの周りにあったものや、気持ちもわかったから。おれには帰れる場所があるし、帰る方法もなんとなくわかったから」


 おれは、立ちあがった。


 早くここを出よう。無事に帰ろう。おれが無事に帰らなかったら、おばあちゃんはまた悲しんで、おばあちゃんを責めるだけの存在を生み出してしまう。


 もう一度空を仰いだ。あいつを呼び寄せるためだ。


「おりてこい! こい!」


 白いパーカーとジーンズ姿の、おれにそっくりな少年。


 そいつは不満げな顔をしていたけれど、渋々というふうに上空からおれのそばにおりてくる。スニーカーのつま先がおれの頭の高さよりも低くなって、手が届くようになる前からそいつの手首をつかんで、地面に足を下ろさせた。


「おまえは、おれと一緒にこい」


 こいつがおばあちゃんの悲しみなら、消えちゃっていいんだ。


 お父さんもわかってるよ。わかってなかったら、おれが伝えるよ。


 だから、おれがこいつをつれて、ここを出る。

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