呪符の結界

 そいつと別れてから、おれは走った。


 竜ががっついているせいで、地面はぐらぐら揺れ続けている。もともと、つぎはぎだらけの道だ。昭和の時代の道と、お江戸の道と、そのほかの時代の道をつなぎ合わせる接着剤のような部分がグニャグニャと揺れて、ロープで吊られたアスレチックの丸太橋のように、地面はグラグラ、ふにゃふにゃだ。


 でも、走り方は覚えていた。


 人間って、やろうと思えば慣れるのが驚くほど早いよね。


 つまり、いきたいところへ向かって走ればいいんだ。「どうでもいいや」って思っている時より、たどり着けるチャンスは必ず増える。だって、望みをかなえるためにはどうすればいいかって、自然と考えるもん。無意識のうちに正しい方法を思いついて、どんどん慣れていくんだ。ちりも積もれば山となるってわけだ。


 まずは一歩ずつ。いきたい場所をたぐりよせるように、近づいていけ。そうすれば、必ずたどり着ける。いきたい場所へ近づいていける。


 時代が違う世界と世界のはざまをジャンプするように駆けて、おれは、はちゃめちゃな道を、行きたい世界のピースを選ぶようにたどっていく。


 アスファルトでもなく、石畳でもなく、見慣れた砂地のお江戸の道を――。そうすると、だんだん千住の街が近づいていく。人の輪の外側で、ごちそうにありつくように地面ごと街を食べていく竜を横目で見ながら、おれは千住の街へ戻った。


 街を囲んでいた人たちも、おれに気づいた。紙をもったままの手で「おいで、おいで」と手招きをした。


「坊主、早くおいで! 竜に食われちまうよ!」


 わかってるよ、おれだってあんなのに食われたくない。


「早く、輪の内側に入んな」と、くぐり抜けやすいように高くあげてもらった腕の下をすり抜けて、千住の街の内側へ。中は、大賑わいだ。


 お凛と赤門衆が縄を準備していた。街を囲めるくらいの長い縄で、その縄が、街を囲む人の手に渡っていく。自分のところに縄がやってくると、縄を手に取った街の住人は、自分がもっていた和紙をくくりつけた。


 なにをしているんだろう――とじっと見ているうちに、あっ、と気づいた。


 その縄で、街を囲もうとしているのだ。縄には、竜が嫌いなピーマンみたいな呪符をぎっしりと貼り付けられていく。つまり――。


「お凜さん、結界をつくってるの?」


 お凜は汗だくになって、縄を引っ張り続けている。縄を引いては街の人に渡して、次の人、さらに向こうの人へと縄の先が渡るように、力仕事をしていた。


「ああ、四六時中みんなで囲んでるわけにはいかないだろう? みんなで手をつなぎっぱなしだったら、飯も食えないし、厠にもいけない」


 たしかに。立ちっぱなしはつらい。だから、代わりを縄にしてもらうっていう作戦だ。


 とうとう、街を囲んだ縄の先がお凛のもとへと戻ってきた。みんなの手を伝って、街を囲み終わったのだ。


「掲げるぞ、せえ、の!」


 街を囲んだ縄が、屋根の上に引き上げられていく。


 おれがいないうちに和紙の枚数も増えていて、ちょうどおれの真上に、こんなふうに書かれた紙があがった。


【黒い竜に告ぐ、ここから先は立ち入り禁止】


 掛け声にあわせて、みんなの手で屋根の上にのぼっていく結界の縄は、運動会で掲げられる国旗みたいだった。上へ上へとあがっていくにつれて、なんとなく心までが盛りあがっていく。


 周りの街は、竜に食べられはじめていた。おれがたどってきた道にも、すでに竜の歯型がついている。でも、思い出を書き連ねた和紙の内側には、竜は入ってこようとしなかった。いまも、和紙を貼り付けた縄が街を守っている。


 とうとう街を囲んだ縄があがりきると、わっと歓声が響いた。


「やったぞ、竜から街を守った! 結界が完成したぞ」


「お凜さん、ばんざい! 赤門衆、ばんざい!」


 拍手も「ばんざい!」っていう歓声も、ずっとやまなかった。


 街中の人から「姉御!」「やったな、お凜さん!」と褒めたたえられて、お凜も笑顔になった。


 でも、お凛の顔はすこし寂しそうだった。


「ああ、よかった。でも、疲れたね」


 ゆっくりと地面に腰をおろすと、背中をまるめた。急に年をとったような座り方だった。


「そうだよね、たくさん戦ったんだもん。お疲れ様、お凛さん」


 そばに寄ると、お凜は顔をあげて「ああ、慧」と笑った。


「戦って、勝ち取った。でも、街はだいぶん小さくなっちまった」


 お凛の顔が、ぐるりと街を見渡した。竜の歯型に切り取られた街の端から端までを眺めると、お凜はため息をついた。


「あぁ――これだけしか残らなかったんだね」


「大丈夫。全部残ってるよ。紙に書いたから」


 結界として街を守る和紙には、ありったけの思い出を書いた。すでに竜に食べられてしまったお父さんのことも、お母さんのことも、おれが知っているすべてを書いたし、街の人たちやお凛も書いていた。


「ああ、そうだ。慧のおかげだよ。助けられちまったね」


 お凜の笑顔は、戦っていた時のぎらついた目が嘘みたいに優しくなっていた。背中をやわやわとまるめて、ため息をついた。その仕草も、年をとったおばあさんのようだった。


「おまえさんの頓智のおかげで、あたいたちは竜から守る場所をつくることができた。これでちょっと一息つける――そう思ったら、なんだか、疲れちまったよ」


「ずっと戦いっぱなしだったもん。昨日もほとんど寝てないし。すこし休もうよ」


 それから。おれは、おずおずと手を差しだした。


 実は手に、お凜へ渡したいものを持ってきていた。竜に食べられる前に、お凛の手元に残さなくちゃと、しばらくずっと握り続けていたものだった。


 アルミ缶を広げて作った不格好な風車だった。建て替える前のおばあちゃんの家――小さいころのお父さんがうずくまっていた玄関先にあったものを、逃げる時に掴んでもってきたんだ。


 あの家は結界の外側にあるから、いまに竜に食べられてしまうかもしれない。でも、風車だけなら持ってこられる。結界の内側に保管することができるんじゃないかなあって。


「おばあちゃん、これ、覚えてる?」


 お凜はきょとんと目をまるくした。「お凛さん」ではなく「おばあちゃん」と呼びかけたからだ。でも、それほど変な顔をしなかった。


 それから、おれの手の中を覗きこんで、笑った。


「八歳の時に、直人が一人で作った風車だよ。ジュースの缶とか、肥料の袋とか、割りばしとか、いろんなものから材料を切り出してきて、あの子が一人で作ったんだ。蔵之介さんと一緒に感心したもんさ。あの子には設計の才能がある。神童だって」


「親ばかだろ?」と、お凜はふわりと笑った。


 おれも、笑顔になった。ほっとしたんだ。


「覚えてるんだね、お父さんのこと」


 あいつは、お凛――いや、おばあちゃんのことを「りん子」と呼んで、酷い親だの、裏切り者だのと文句をいっていた。いくら自分のお父さんでも、おばあちゃんのことをあんなに酷くいうなんて、そっちのほうが酷い。だって、おばあちゃんがどれだけ思い出を忘れないように頑張っているかは、見ていればわかるはずなのに。


 やっぱり、あいつが悪い。おばあちゃんはお父さんのことを忘れていないから、あんなふうに言われる筋合いなんかないんだ。


 その時、ふっとあたりが暗く翳った。光をさえぎって影を落とすのはわずかな間で、影はすぐに通り過ぎていく。真上を横切ったものが、黒い竜ほど身体が大きくなかったからだ。


 上空を飛んでいたのは、白いパーカーとジーンズ姿の少年。おれにそっくりな顔をした、子どものころのお父さんだった。

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