思い出の風車
街の喧騒から遠ざかるように、おれは走った。向かった先は、氷山神社へ向かう道の途中。いろんな時代が混ざった通りだ。
江戸時代の砂の道、令和の道、それに、たぶん昭和時代のアスファルトの道、そのどれでもない、いつの時代の道なのかを考えるのも怖くなる古い道――それが、接着剤みたいなグニャグニャの塊に繋がれながら、つぎはぎになっている不格好な通りで、そこには、小さな家が建っていた。玄関先に手づくりの風車が飾ってある、子どもが住んでいそうな気配のある一軒家だった。
すこし、風が出ていた。
アルミ缶を分解してつくられた羽根がきいきいとこすれながら、くるくる回っていた。風車のそばには、おれと同じくらいの年の少年がしゃがみこんでいた。
はあ、はあ――と息を整えながら、家の前で足を止める。
やっぱり、思ったとおりだ。
おれは、この家を知っていた。お父さんの小さい頃の写真に写っていたんだ。おばあちゃんの家が改築される前の家で、お父さんは子どものころにそこで暮らした。
息はまだすこし苦しかったけれど、時間はない。おれはそいつにいった。
「ここは危ないよ。早く逃げよう」
そいつが、ゆっくりと顔を上げる。見れば見るほど、鏡をのぞくみたいな気分だ。そいつは、おれにそっくりな顔をしていた。
むかし、おれとお父さんの顔を見比べて、おばあちゃんが笑ったことがあった。
『あらぁ、慧くん? 直人が小さい頃の面影があるわね。お父さんに似てきたねぇ』
おれの顔は、お父さんが小さいころの顔によく似ているんだって。
つまり――そいつはきっと、お父さんだ。おばあちゃんの記憶の中で暮らす、子どもの頃のお父さんなんだ。
「いこうよ。新しい作戦がはじまったんだ。できるだけたくさんのものを守るために、みんなで守る場所を囲んでるんだ。ここはそこから外れてるから、危ないよ。早く逃げよう。竜がきたら――」
少年は、ふいっと横を向いた。
「こんなところ、あの竜に食われればいいんだ。おれのことなんて、どうでもいいんだから」
「――なにをすねてるんだよ」
「すねるよ。だって、りん子はおれを思い出せないじゃないか。おれを守ろうともしないじゃないか。母親のくせに。この家のことだって思い出そうともしないで、ほったらかしだ」
りん子っていうのは、おばあちゃんの本名だ。その人を「母親」って呼ぶってことは、やっぱり、おれの勘は正しかったんだな、きっと。
「おまえって、お父さん? 上田、直人?」
そいつはふいっと顔を逸らして、こたえない。おれは、ため息をついた。
「いじけてる場合じゃないんだよ。いこうよ。――そりゃあ、ここを守れないのは残念だけど、守れないのはこの家だけじゃないんだ。ほかの家もそうだよ。それでもみんなで協力して、一番守らなくちゃいけないものを守る手伝いをして――」
いいながら、口が曲がりそうになった。いいことを言い過ぎている気がする。
『ほかのものを守るために、おまえの一番大事なものを捨てることを我慢しろ』――だなんて、そんなの、おれだっていわれたくないよ。
「そうじゃなくて――うまくいえないけど、おれだって、全部守りたいよ。守りたかったよ。千住大橋も、川も、川の向こう側にあった街も、両国の街も、若い頃のお父さんも、お母さんも、吉太さんも――おれだって守りたかったんだ。お凛さんなら、もっと守りたかったはずだよ。だから、お凜さんは戦ってたんだ。お凜さんがどれだけみんなのことを守りたがっているか、おまえだってわかるだろう?」
声がどんどん大きくなる。腕も、伸びていた。そいつの手首をがしっと掴んで、無理やりでも連れていく――!と、引っ張りあげた。
「いくよ。わがまま言ってないでよ、お父さんのくせに」
「うるさいな」と、そいつは、ありったけの力で振り払った。
「はなせ! おれの役目はこの家を守ることなんだ。それと、りん子を恨むこと」
りん子は、おばあちゃんの本名だ。でも、なんだろう、この違和感。
記憶をたどっても、お父さんがおばあちゃんのことを「りん子」って呼んでいたことなんか一度もなかった。電話をした時も、会った時も、「母さん」って呼んでいたはずだけど――。
「あのさあ、お母さんのことを名前で呼ぶの? めずらしいね……」
その時だ。きゃああ!――と、悲鳴が響いた。
千住の街のほうから。街にいた人の顔がみんな同じ方角――空を向いている。そこには、黒雲をまとった竜がいる。竜が、また現れたんだ。
「あっ!」
叫んで、駆け出そうとした。
でも、竜は、あの紙が苦手みたいだ。食べたいけど食べられないというふうに、上空を行き来した後で、紙をもって街を囲む人の輪の外側にある家に、がぶりと食らいついた。
竜は、ようやく餌にありついた猛獣のようにがつがつと街を食べた。かじられたところから街に歯型がついて、真っ白になっていく。あるべき情報が消えてエラーを起こしたように、竜に食べられたところから、また街が消えていった。――おばあちゃんの記憶から、その部分がまた消えていくのだ。
おれたちがいるこの家も、和紙の輪の外だ。あの竜は、この通りも今に食べにくる。
子どもの頃のお父さんらしい少年は、お凛のことをひどく罵った。
「ほら、見ろ。あの竜に食べられたら、この家のこともあいつは忘れるんだ。この家で起きたことも、自分の子どもがここにいることすら――守りに来るべきなのに、それすら忘れている――気づけよ、ばか親」
「そんなこというなよ。お凛さんだって、忘れたくて忘れているわけじゃないんだ。脳の病気なんだって……」
「知るかよ、最悪の酷い母親だっていうところは違わないだろ! 子どもを忘れて、竜に食われていくのを見捨てるんだぞ!」
少年はいらいらと言い、おれから遠ざかるように立ち上がった。
「おまえのほうこそ、早く街に戻れ。ここにいたら一緒に食べられちまうぞ」
「――そうだけど」
でも、おれが竜に食べられたら、どうなるんだろう?
おれって、おばあちゃんの記憶の中の人物っていうわけじゃないんだよね。現実の世界からここに来ちゃってるから、もしも食べられたとしても、ほかのみんなとは違うことが起きるんじゃないかな――食べられたくはないけど。
遠くで地響きが鳴る。竜が地面をがつがつと食べていくせいで、地震が起きたように街が揺れはじめていた。
「早くいけよ。道が消えて逃げられなくなるぞ。おれなら空を飛べるけど」
いったそばから、少年の足が庭の土をはなれてふわりと浮かびはじめる。
一軒家の前庭でぷかりと浮きあがった少年の姿を、おれはまじまじと見つめた。
「どうしておまえだけが空を飛べるの? それに――」
そいつは、白いパーカーとジーンズ姿――おれと同じ格好をしていた。空を飛べることもふしぎだったけど、格好もお江戸の人たちとは違っていて、現代風だ。というか、おれが着ているのと、まったく同じ服なんだ。――なんで?
「どうだっていいだろ」
少年はつっけんどんに言って、どんどん浮きあがった。目が、憎いものを見るように黒い竜を向いていた。
「あの竜は、もうすぐこの家も食べにくるよ。そうしたら、りん子はもうこの家のことも覚えていられない。裏切者――」
「おばあちゃんだって、忘れたくて忘れているわけじゃないんだ。おばあちゃんはあんなに一生懸命やってるじゃないかよ。思い出を守ろうと、必死に戦ってるじゃないかよ!」
おれは怒った。でも、そいつの目は冷たかった。
「知るかよ。なら、結果はどうだ? あいつは最悪の母親だ」
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