フンドシとチョンマゲ

 いってみて気づいたことだけど、お江戸の人はきれい好きだ。都会の排水溝からたちのぼるようなムッとむせ返るような下水の匂いはないし、道にはごみも落ちていない。 


 ちなみに、お江戸の人は風呂も好きだ。散髪も好きだ。


 この世界にきてから、こんな会話を毎日きいた。


「おはよう、どこにいくんだい」


「風呂屋だよ」


「ああ、吉太きちた、どこにいくんだい」


髪結かみゆいよ。ちょっといい油でなでつけてもらうのさ」


 吉太きちたっていうのは、お凛たちと一緒に居酒屋に集まるメンバーの一人で、お凛よりすこし若い。明るい人で、お凛がいない時はたいていこの人がおれに構ってくれた。


「なあ、慧。まずはその恰好をどうにかしねえか」


 うん、まあ、それは。周りの人は、みんな着物姿で、おれだけがパーカーとジーンズ。これじゃあ、どうやったって目立つ。


 「着物を買ってやるよ」と吉太きちたに連れていかれた店には、「古着屋」と書かれた看板がかかっていた。


「ついたぜ。ここで俺が、とびっきりいきな柄の着物を選んでやるからよ」


「って、古着?」


 ここに連れてくるあいだの吉太がめちゃくちゃなドヤ顔をしていたので、どんなにすごい贅沢をさせてもらえるのかと期待していたら、なんだよ、古着かよ――と、つい顔に出ちゃった。


 さっそく店に入ろうとしていた吉太が、振り返った。


「古着だよ。当たり前だろ?」


 当然、といわんばかりの顔だ。


 ――なんか、ごめん。服を古着屋で買うのって、吉太たちにとっては常識みたいだ。


 古着屋の軒先には、色とりどりの着物や、タオルくらいのサイズの手ぬぐいがきれいに並んでいて、通りをふわりと吹き抜ける風に、木綿の布地がちらちらと揺れている。


 吉太の足は、まっすぐに店の左側に向かった。紺色の着物ばかりが並んでいて、どうやら男ものの着物のコーナーらしい。渋い色の布地には、「#」みたいな模様が入ったものや、泥棒の風呂敷柄(唐草模様というらしい)とか、いろんな種類があって、吉太はたたまれた着物をいくつか手に取って、選んでいる。


「あのさ、着物を買ってくれるのはありがたいんだけど、ふんどしは勘弁だから」


 一応いっておかないと――と、声をかけると、吉太きちたがまた振り返った。


「なんで」


「なんでって――やだよ」


「なんでだよ。すっぽんぽんの丸出しでいる気か?」


「ちげえよ。パンツはいてるし! だいいち、おれ、ふんどしの履き方知らないもん」


「教えてやるよ。なんなら、俺が手伝ってやろうか……」


「結構だよ!」


 吉太は笑いながら、並んでいた着物を片っ端から手にとって、これがいい、それもいい、と、着物をほとんど全部ひっくり返した。結局、買い上げたのは、紺色の生地に鎖のような模様が入った着物だ。


「どうだ、いきだろ」


 吉太は自慢げだ。


 正直なところ、「どれも似たような和柄」にしか見えなくて、どれでもいいよ――と思っていた。返答に困るので、その質問には答えないことにした。


「ねえ。『粋』って、かっこいいっていう意味?」


「ああ、かっこいいだろう。歌舞伎役者の流行りの柄だぜ」


「――」


 返事がしにくいなあ。笑いのツボが違うなぁとは思ってたけど、美的センスも違うみたいだ。


「ん? 慧にはちょっと早かったか? ま、着てみればいいさ。男前になるよ。俺みたいに」


 ――明るい人だなあ。あと、お調子者だ。


 お凛の家に戻りながら、千住の街を二人で歩いた。


 現代の北千住の商店街とそこまで変わらない道幅の左右には、魚屋や古着屋、居酒屋、乾物屋など、いろんな店が軒をつらねていた。


 吉太の目が、その中の一軒に吸い寄せられる。目が向いた先には、「髪結かみゆどころ」と書かれた看板がかかっていた。


「待てよ。着物は手にはいったが、髪のほうも男前にしねえと――」


 次に吉太の目が向いたのは、おれの顔の上。頭。髪を見られていると気づくと、おれはハッとして後ずさりをした。


 髪結い処っていうのは、つまり床屋だ。しかも、その床屋で選べる髪型はただ一つ。坊主頭でも、スポーツ刈りでもなく、「こういうのにしてください」と頼んだところで、仕上がる髪型は問答無用で一択だ。それは――。


「ちょんまげだけは絶対イヤだ!!!!」


 なかなか帰れないから、着物を着るのもいいなぁと思ってみただけで、おれはまだ帰れるって信じてるんだ。ちょんまげなんかにされてみろ。帰れるようになっても帰りたくなくなるって。


 だって、ちょんまげ頭で転校先に登校するわけにいかないだろ?


 間違いなく、おれのあだ名が「サムライ」になる。――ううん、それならまだいい。最悪、「頭上ハゲ」だ。





 風呂にいくのも、大変だった。


 お江戸の家には風呂がないので、みんな、街にある風呂屋に毎日出かける。


 でも、お江戸の風呂屋は、おれが知ってる銭湯とはだいぶん違っていた。


 お江戸の風呂か――さすがに豪華温泉って感じのわけがないし、スーパー銭湯のようでもないだろうし、小さな湯舟と洗い場がついた古い銭湯みたいな感じかな――と自分なりにイメージはしていたんだけど、現実は、もっと違っていた。


 ここにきてから二日経って、さすがに身体が汗ばんできた。吉太につれていってもらった風呂屋に着いて、やっと髪を洗える……と「湯」と書かれた暖簾をくぐったら、そこは、女湯だった。


「すみません!」


 慌てて飛び出してくると、通りで待っていた吉太が「なにやってんだ、おめえ」と怪訝顔をする。


「なにやってんだ、じゃないよ。女湯じゃないかよ! イタズラはやめろよ! 痴漢になりたくないよ!」


 怒鳴ると、吉太は首をかしげて、ぽりぽりと耳の裏を掻いた。


「慧の年なら大丈夫だよ。俺くらいでかくなると、さすがに遠慮するけど」


「はあ? 男湯を案内してよ! 女湯に入れっていうのかよ!」


「そこが男湯だよ。同じだよ」


「女湯だったよ!」


「だから、男湯も女湯も同じなんだって」


 どうやら、こういうことだ。お江戸の風呂屋は、混浴なのだ。男湯と女湯が同じで、基本的には男も女もいつ入ってもいいんだけど、女の人が多い時に男が入りにいくと居心地が悪いから、暗黙の了解で入る時間がきまっていて、なんとなく時間差で入るらしい。


「男がよく入るのは、仕事にいく前の朝っぱらと、仕事が終わってからの夜の時間なんだよ。いまは昼間だから、女と子どもの時間だ」


「先にいってよ……! だったら入らないよ!」


「大丈夫だって。おまえみたいなガキがいようが、女どもは気にしないから」


「おれが気にするんだよ!」


 とうとう、吉太が根負けした。


「なら、夜にでもくらの兄貴といってきなよ」


くらの兄貴?」

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