フジヤマ・ダイブⅢ
病室には、先客がいた。
「
その人は、夜音子たちとわざわざ入れ違いになるように、病室の外へ出た。
すれ違いざまに吉太郎は、「姉さん、今日は調子が悪いみたいだ。おれのこともわからないみたいで――」と、寂しそうに声をかけてくる。
吉太郎は、りん子と同じく足立区でずっと暮らしていたので、兄弟のなかでも義母に一番近い存在だ。ずいぶん前からしょっちゅう忘れられる夜音子や、孫の
義母は、病室に置かれたベッドに腰かけていた。りん子という名前のその女性は、不安げにこちらを見ていた。
夜音子や直人からすれば、その人は家族だけれど、その繋がりを忘れてしまったりん子にとっては「やたらと近づいてくる赤の他人」だ。それは、恐ろしいだろう。誰のことかも思い出せないのに、なれなれしく近づいてこられたら。
だから、面会は短く済ませるべきだ。
届けるものを届けて、さっさと出よう――夜音子は笑顔になった。
「こんにちは、りん子さん」
『お義母さん』と呼ぶのは、やめることにした。知らない人だと思われているなら、いっそのことはじめて会う人のように接すればどうかな、と。
ベッドの上のりん子は、いぶかしげに目を逸らしながら、もごもごと「……こんにちは」といった。「この奇妙な人は誰だ」と怖がっているのが伝わってくる。
だから、なるべく笑顔は絶やさずに。
夜音子はゆったり近づいて、家で見つけた原稿用紙の束を差し出した。
「どうぞ。あなたの大切なものじゃないかと思って」
簡易テーブルの上に載せられた紙束を見て、りん子は、目を白黒させた。ふっと顔をあげて、夜音子の顔をじっと見つめた。
「これ――探していたの。どんな話だったかはみんな頭の中にあるんだけど、もう一度読みたくて、懐かしい……懐かしい……そうそう、蔵さん」
記憶が戻ったかのような話しぶりで、思わずうしろを振り返ると、病室の入り口に立ったままだった直人と目が合う。直人も、ほっと肩の力を抜いていた。
「懐かしい……そうそう、この字は私が書いたの。蔵さんがあんまりにも調べものがいい加減だから、腹がたって」
りん子の記憶が戻っている。
いまは、チャンスかもしれない。夜音子は思わずたずねた。
「ねえ、お義母さん。北千住の周辺に霊媒師の知り合いっています?」
迷子になっていたその人は、たしかに戻ってきていた。
りん子はさらっと答えた。「お義母さん」と呼んだ夜音子にも脅えなかった。
「霊媒師? 妙なことをきくんだねえ。
「氷山神社の隣?」
「名前は――
ご近所づきあいをするように話してから、りん子はふとうつむいて、肩を落とした。
「ねえ、夜音ちゃん。私、どれくらいおかしいかしら。――直人はいやだろうね。母親がこんなんになっちまって。こんな母親は見たくはないわよね」
いまにも涙しそうな声だった。
つられて涙をこぼしそうになりながら、夜音子はこたえた。精一杯の笑顔をつくった。
「いいえ。お義母さんはときどき天使になるだけですよ。今日はお義父さんとの思い出が詰まった物ももってきたし、これが手元にあれば、病気の進行はとめられますよ。同じ本棚にお義父さんの本が他にもたくさんあったから、また持ってきます」
「そう――ありがとう」
りん子はいくらか気が抜けたふうに笑って、それから、独り言をいうようにいった。
「慧くんは大丈夫よ。いま、直人とふたりで遊んでるから」
夜音子は、目つきを変えた。まさか、行方不明の息子の名が出るとは――。
「お義母さん、慧がどこにいるか知ってるんですか。直人とふたりでって――」
前のめりになった、つぎの瞬間。りん子の表情が変わる。急に力が抜けたふうになって、脅える子どものように、うしろに逃げようとした。
「あの……どなた?」
タイムアウト。ボーナスタイムが終わってしまった――そんな気分だ。
詰め寄ったところで、目の前にいる女性は、さっきとは別人になってしまったようなものだ。
行方不明の息子の名が出て、夜音子は焦っていた。でも、焦りを押し殺して、懸命に笑顔をつくった。
「わたしは、これを届けにきたんです。あなたの大事なものだろうなって。またきます」
「これを、あなたが? どうしてこれを……ありがとう……?」
りん子は首をかしげている。それ以上に、脅えている。
夜音子は、そばを離れることにした。
「お邪魔しました。お大事に」
病室を出て、廊下をあるきながら、直人は「よかった」とつぶやいた。
「母さんがもとに戻ってたのを見られて、ほっとした。でも――」
声にふるえが重なる。泣いているような声だった。
「調子が良かったり、悪かったり、悪いほうの期間がすこしずつ長くなったり――もう、母さんがおれを覚えているのはこれで最後、これで最後かもって、悲しくなる」
直人の目じりに、ほんのわずかな涙が覗いていた。サッとこぶしで涙をぬぐって、前を向いたけれど。
「いまは、慧だ。慧を探さなくちゃ」
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