街が、ぐっちゃぐちゃ
黒い竜に襲われてから、一晩が経った。
これからどうなるんだろう――。不安もあったし、吉太さんや「直」とおヨネが両国の街ごと食べられてしまったのも、ショックだった。
おれは、夜中に何度か泣いてしまった。
ここは、おばあちゃんの頭の中なんだ。
お凜さんは、つまり、おばあちゃん。昨日の襲撃で、「直」とおヨネは黒い竜に食べられてしまった――お江戸の世界から消えてしまった。それはつまり、おばあちゃんのの頭の中から――記憶から消えてしまった――忘れ去られてしまったってことだ。
「一度でもあの竜に食われてしまえば、二度ともどらない」
と、お凜は、何度も竜に怒っていたっけ。
つまり、一度でも竜に食べられたら、二度とこの世界に復活しないということだ。
おばあちゃんは、二度と「直」とおヨネのことを思い出せない。「直」とおヨネ――つまり、おれの父さんと母さんだ。おばあちゃんからすれば、息子とそのお嫁さんのことを、もう二度と思い出せないのだ。おれは昨日、その瞬間に立ち会ってしまった。
たしかにショックだったけれど、泣くほど悲しかったのは、べつのことだ。
夜中に目を覚ますたびに、いびきを聞いた。隣のふとんの枕元からきこえてくるお凛のいびきだった。
実は、一番悲しかったのは、スヤスヤと眠るお凛をみることだった。
お凜は、泣くことも、悲しむこともなかった。大事な人を忘れてしまったことを悲しむどころか、「大事な人を忘れてしまったこと」すら、おばあちゃんは思い出せないのだ。
黒い竜の襲撃のことを知った時、お凛は『吉太、直、吉太、直!』と、泣き叫んでいた。
でも、ひとたび竜に食べられてしまえば、泣き叫んでいたことも忘れてしまう。
つらいことを、何度も繰り返し思い出すのはさらにつらいことだ。でも、「大事なものがあった」ことすら思い出せないなんて――おれは、悲しかった。
ほとんど眠れなくて、目をショボショボにさせて起きた翌朝。
朝食を済ませると、おれは、お凛の家を飛び出した。もう一度、千住大橋を見たかった。
千住大橋は、南宿っていう対岸の隣町とをつなぐ大きな木製の橋で、昨日見たときは、竜に食べられて真ん中で折れてしまっていた。
でも、一晩経って、魔法がかかったみたいに復活していないかな――とか、じつは襲撃されたのも夢で、壊れてもいないんじゃないか――とか、奇跡にすがるように、大通りの方角を目指して歩いた。
でも、あれ――?
と、街の異常に気づくまでに、そう時間はかからなかった。
昨日、お凛の家に戻るまで、その街は、お江戸の風情が漂うのんびりとしたところだった。
千住大橋につながる大通りがあって、その通りには、呉服屋や、床屋や、米屋や、いろんな店が並んでいて、千住大橋を通って江戸の街へ向かおうと歩く物売りたちも、背中に荷物を背負ったり、かごをのせた大八車を押したりして――。
いや、いまも、賑わっていて、人もたくさんいる。
大八車を押す人も、魚売りも、ちょんまげに結った江戸時代風な男の人も、着物をきた女の人も。
でも、そのほかもいた。
千住の街が、おかしなことになっていた。江戸時代風の街を悠々と歩く、サラリーマンがいた。
上下同じ色のスーツを着た人が、スタスタと歩いている。手には黒い革鞄をもっているけれど、そのかばんも、スーツも、靴も、髪型も、なんとなく、ださい。すくなくとも、お父さんのスーツ姿とくらべると、ちょっとカッコ悪く感じた。なんというか、古くさいのだ。
いやいや、そんなことはどうでもいいんだ。現代人だよ!
「すみません……!」
いまのおじさんを追いかけなくちゃ。
あなたはどこから来たんですか?
この街はなんなんですか?
――あれ、おかしいな。おれは、この世界はおばあちゃんの頭の中だと思っていたけれど、あのおじさんが迷い込んでこられるくらい、ここは現実の世界とつながっているってことなのかな。
ってことは、ここは、おばあちゃんの頭の中じゃない?
? ?? ???
ハテナが脳みその中で大乱舞。
さっぱりわけがわからないけれど、せっかく見つけた手がかりを見失うわけにはいかない。
スーツ姿のおじさんは、大通りから裏通りへ抜ける小道に入ってしまった。大通りの横道には、人がすれちがうのもやっとっていう細い道がある。壁と壁にかこまれた隙間のような道だから、入り込んでしまうと光がさえぎられて一気に薄暗くもなる。おじさんの姿も薄暗がりの奥にまぎれた。
――見失うわけにはいかない。いそげ!
おれは、駆けだした。でも、途中ですっころびそうになる。
踏みつけていた地面が、急にやわらかくなったのだ。スポンジの上をあるいているようで、膝が驚いてカクンとさがる。
転んで……なるか!
夢中で姿勢をととのえて、どうにか踏ん張った。
(おじさんは?)
まっさきに見つめたのは、行く手。壁と壁に挟まれたような細い隙間を通る道に、男の人の姿を探した。
でもまた、言葉を失う。
薄暗がりの道の先に、おじさんの姿はなかった。かわりに見えたのは、現代の街だ。黄色や、赤や、白の電球に飾られた看板が、ぎらぎらと光っていた。
タッタッタッタッ――。弱弱しくなった足音が、狭い路地に響いている。いったいどこを踏んでいるのかわからないから、自分の足音を聞くのは、すこし怖かった。
思い切り走ったわけでもないのに、へんに息が切れていた。
横道を突っ切った先にあったのは、やっぱり現代風の街だった。電球だと思ったものも見間違いではなくて、「ラーメン」とか、「金物」とか、電飾をつけた看板が、通りの端にぽつぽつあった。
口がゆがんだ。たぶん、いまのおれは、顔中がゆがんでいるはずだ。
「ここ、どこ――」
さっきまで、お江戸の街にいた。
現代に帰りたいと願っていたけれど、帰りたいのはもとの街であって、得体の知れないどこかの街じゃないのだ。
ここ、どこ?
でも、しばらくして、はっと我に返る。
「そうだ、電話すればいいんだよ」
ボディバッグは今日ももっている。いつチャンスがきてもいいように、ペンも紙も入っている。もちろん、スマートフォンもある。
電池の無駄遣いをしないようにと、この世界に迷い込んでから、ずっと電源は切りっぱなし。ごくりと唾をのみながら、電源を入れる。「起動中」の画面をじっと見つめて、しばらくたつと、見慣れたホーム画面が表示される。
でも――。アンテナは、圏外のままだった。
電話をかけるなりメッセージを送るなりをするには、通信エリアに入らないとだめなのに。
「――どこかに電波が強いところ、ないのかよぉ」
スマートフォンをかかげながら道をあるくけれど、アンテナのマークが表示される気配もなく、「圏外」という文字が表示されたままだった。
「街ごと圏外? そんな街あるの?」
おれがたどり着いた街は、妙に古臭かった。街を飾る電球や看板は、新品を使っているようにも見えるんだけど、妙にかっこわるいというか、レトロというか。わざわざ古臭いデザインにしようと頑張ったすえにできた、昭和時代とかの、レトロ感が漂うイベント会場に迷い込んだような――。
新しいんだけど、古い。そういう街なのだ。
「観光地かな。――観光地なら、Wi-Fiくらい使えるようにしておけばいいのに」
ブツブツいいながら、足早に歩く。道には飲食店がいくつか並んでいた。店も、民家も、なんとなく古い。まあ、北千住といえばちょっと古臭いところもある街だ。だから、この通りもわざわざつくったのかなあ――と、ラーメン屋からぶわっと飛び出してくる湯気の匂いや、床屋のトレードマークの赤と白と青色の模様がぐるぐると回る立ち看板のそばを、通り過ぎる。
でも、ある時、ぎくっとした。
景色に見覚えがある気がして、迷いのもとを探すように、行く手を見つめた。
そこには、おれが思ったとおりのものがあった。白地に黒の文字が目立つ看板が店先に出ていて、こう書いてあった。
――キッチンうえだ
おばあちゃんとおじいちゃんが営んでいた、定食屋だった。
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