文字のお守り

「いったん退避だ、姉御」


 そういったのは、砲弾を運んでいた赤門衆の男だ。


「逃げるって、どこへだい」


「そりゃ、いつもの赤門寺か――」


 おれも、涙をふいてお凛のそばに寄った。


「そうだよ、一度逃げよう、お凜さん」


「慧まで――逃げるったって、どこへ」


「神社だよ、お凛さん」


「神社?」


「氷山神社だよ。あそこなら、竜は食べにこない。敷地の中に入れないはずだよ」


「そりゃぁ、神様の力は強いだろうさ。でも、安全なところに逃げこんでるうちに街を食べられるわけには――」


「ただ逃げこむんじゃないよ。反撃するんだ」


「反撃?」


「お守りをつくろう! これ以上食べられないようにする方法を思いついたんだ」





 街に残っていた人を総動員して、神社に集まってもらった。


「紙と、書くものをありったけ準備して!」


 さっき、レシートに手紙を書きながら考えたことだった。


 ここは、おばあちゃんの記憶の世界だ。おばあちゃんは忘れていく病気にかかった。忘れられるのは悲しいけど、忘れるほうも悲しいんだ。だから、戦っている。


 もしもおれが、お母さんから忘れられたら?


 生まれた時から毎日会っている家族なのに、ある日突然「誰?」とか、「どなた?」と言われてしまったら?


 お母さんだけじゃないよ。お父さんも。友達も、先生も――ううん、おれは、転校生だ。これから新しい学校に転校したら、前の街で仲良くなった友達も先生も、おれのことなんか忘れていっちゃう。


 忘れて欲しくない時はどうすればいいんだ?――残せばいいんだ。書いて書いて、書きまくればいいんだ。


「お凛さん、記録しよう」


「記録?」


「あの竜が食べてるのは、お凛さんの思い出なんだ。食べられても記録さえ残っていれば、その後で思い出して復活させられるよ。手がかりが残せる」


「あたいの思い出? この街が?」


「いいから! おまじないだと思って。あの竜を追い払う魔除けの紙になるはずだよ」


 和紙問屋の主人が、店の棚からありったけの紙をもってきてくれた。ほかの店の主たちも、墨と筆を抱えて集まった。


「これでいいのかい?」


「もってけドロボー! 竜に食われたらおしまいなんだ。けちけちしねえよ」


 集まった真っ白い紙の周りに、みんなを集める。そして、おれはいった。


「みんな、自分の名前を書いて。自分の年と、家族の名前と、趣味とか、好きなものとか、宝物とか、なんでも、思いつく限りのものを書いて!」


「名前と――自分のことをなんでも書けって?」


 集まった人たちは、半信半疑というふうだった。


 でも、教室で見回りをする先生みたいに、和紙のうえで筆を動かしていく手元を覗きながら、おれは、作戦の成功を感じた。


 ここにいる人はみんな、おばあちゃんの知り合いのはずだ。だってここは、おばあちゃんの記憶の中の世界なんだもん。おばあちゃんの記憶がこの世界を生んだんだ。


 千住大橋の向こう側の街は食べられてしまったけれど、おばあちゃんが守ってきた千住の街は、大きな街だ。千人が住んでいるから千住、いや、もっと大勢が住んでいるから「万住」だ、とおれに冗談をいったおじさんがいたけど、氷山神社に集まってきた人も、千人くらいはいた。(あの冗談のどこが笑うところだったのかはいまだに謎だけど)


 氷山神社の境内は、千人でおこなう書道大会のような状態になった。真っ白だった紙も、あっというまに文字で埋まっていく。


「お凜さんも書いてね」


 お凛にも筆を握らせると、お凜は首を傾げた。


「いったい何を書けばいいんだい」


「お凛さんが書くことが一番重要なんだよ。いま思い出せることを片っ端から書いて」


「――腹が減ったからうどんが食いたい、とかでもいいのかい?」


「うどん?」


 こんな時に――と思ったけど、たしかにお腹が空いた。


「いいよ、それでも――そうだ! 好きなうどん屋とか、蕎麦屋とか、ラーメン屋の店の名前を書いてよ。おじいちゃん……じゃなくて、蔵さんと出かけた店とかさ。どこかに記録が残っていたら、竜に食べられた後でも思い出しやすくなるはずだよ」


 そうだよ。大砲だって、忍者だって、もともとはこの街になかった。お凛――おばあちゃんが記憶のどこかで大砲や忍者のことを覚えていたから、突然現れたんだ。


「ふうん? ――これで本当にうまくいくのかい?」


「わからないけど――うまくいく気がするんだ」


 正直にいうと、名案を思い付いた!とわくわくしているだけで、うまくいく保証なんかないよ。


 でも、手紙の大事さというか、言葉の大事さが、この世界を守るために一役買うような気がしていたんだ。


 お凜は「負けたよ」と苦笑した。


「わかったよ。慧を信じようじゃないか。会ったばかりの頃とはえらく変わって、すっかり男前になっちまって。あんたはきっと、そのうちとんでもないいい男になるよ。自信をもちな」


 張りつめたようにずっと固まっていたお凜の頬が優しくほどけて、お凜が笑った。


 おれはつい、おばあちゃんの笑顔を思い出していた。


『彗くん、きれいな空ね。――そうだ、覚えておきな。小さいうちから、なるべくたくさん空を見上げて、「きれいだなぁ」って思っておきなね。――何度も何度も「きれいだなぁ」って思っておけば、大きくなった後も、いまの彗くんの「きれいだなぁ」っていう気持ちをいつでも思い出せるから』


 おばあちゃんと一緒に見上げた北千住の街の夕焼けも、思い出していた。


『つらいことがあっても、空が慰めてくれるのよ』と、おばあちゃんはいった。

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