第7話 caught in a shower
「ああ、これが俺の人生か」
雨に濡れながら天を仰いだ。雨が目に刺さる。もうどんづまりだ。どこにだって、行けたものじゃない。
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隼と居酒屋に行った翌日、ひとりで
三年になってはじめてだった。山岳部も久しく行っていない。気が乗らなかった最大の理由はやはり
関係がはじまったのは大学二年がはじまる前あたりだったと思う。颯紀からこの関係を持ちかけ、それを断ることができなかった。そしていやだと憎みながらも、ずるずると引きずってきた。
そんな状況にあったからこそ登山に行くべきだっただろうが、できなかった。日常という名の硬い鎖は引きちぎれなかった。日常は氷のように冷たくて、動きがなかった。
それに山に登るなら人の目に触れる。それがいやだ。いつだって、人前を歩くときはうしろ指をさされているような気になる。それに堕落したじぶんが世間の目に触れれば、かならず
それに山はずっとむかしから大好きだった。穢れなく、色彩豊かだ。季節によって移ろい、刻一刻と景色を変えていく。だからこそこんな自堕落なじぶんが足を踏みいれることが、じぶん自身許せないのだ。
きょうになってようやく重い腰をあげたのは、もはやのっぴきならなくなってしまったからだ。そうじゃなかったら、きっといまも乱雑な部屋のなかで惰眠を貪っていた。
その理由といえばひとつ。昨日隼に話したストリックランドじゃないが、すべてから逃れるため。颯紀、
しばらく揺られ、乗りかえてようやく着いた。駅に降りると多くの人でにぎわっていた。バスから降りる老人たちや、外国人もちらほらと見える。しかし新宿とは違って長野を思いだす、心地のよい穏やかな人混みだ。やはりこういった自然の多い場所がなじむ。だが、人目にさらされるのはやはり苦痛だった。
駅の正面にある登山道のガイドを見て、六号路を登ることに決めた。ここは何度か登ったことがある。舗装された道のない自然多い道だから、この道が一番好きだ。
雲がまばらに見えながらも、太陽は高々と照らしていた。気持ちのよい暖かさが漂っていた。かすかに土の香りがした。土曜日ということもあって、人は暖かい季節よりはすくなかった。しかし閑散としているわけではなく、そこらじゅうに人がいた。軽装の人、私服の人もちらほらと見受けられた。
登山口まではすこし離れていた。清流を横目に、都会より柔らかい空気のなかを歩いていた。頭上を薄い雲が、じぶんの足とおなじくらい足早に流れていた。駅に比べれば人はまばらになり、落ちついて澄み切った空気に包まれた。六号路にはいるとほとんど人はいなかったが、すれ違ったり追い抜いたりするときに人がいた。
仲睦まじく手を握り、ゆっくり確実な足取りで歩く老年夫婦はもはや理想的だった。意気揚々とじぶんを追い抜いて歩くカップルは、女性より男性の方が音をあげていた。きっと昨日は遅かったのだろう。
人々はもちろん、植物も、山そのものが安らかな生命に息づいていた。
「こんにちは」
そう、老夫婦が挨拶してきた。そのまぶしさがむしろ、じぶんをじぶんの殻に引きこんだ。皆が羨ましく思えた。そう思うと、なおさら世界がかすんでいく。彼らとの違いは
もう葉も落ち切って、紅葉なんて仮初の姿だといわんばかりに凛々しいたたずまいの木々が、日をさえぎって
山道のかたわら、日を浴びる場所に
かすんだ景色はなおらなかったが、それでも美しい景色を見て満たされた。遠くの、日を浴びる木立は明るさに白く見えた。川がわずかに注ぐ日を反射し、点々と輝いていた。きっと、こういったものでは変わらないのだろう。それならやはり、抱えた問題を解決しなくてはならないのだろうか。でも、いままでよりは楽観的に考えられる。来てよかった。
しかし飛び石を渡り終えて全部の三分の二、急な階段にさしかかったところで徐々に暗い雲が覆い、光がうすれていった。心なしか人もすくなくなったように感じた。雲の切れ間から注いでいた最後の光の一筋が閉ざされてしまった。思わず立ちどまって空を仰いだ。過ぎさった川のせせらぎが、いやに大きく聞こえた。森という生命が、さざめきだっているようだった。
足は行く先を失った。しばらく所在なく突っ立っていた。もう下山してしまおうか。いや、頂上まで行けば天気も、じぶん自身も、変われるかもしれない。一縷の望み、だ。それに、もうすぐ頂上だ。長くつづく階段を足早に登った。
そしてついた途端、滝のような雨が降りだした。周りの山はもやがかかってあまり見えなくなっていた。雫が白く弾け、地面を塞いでいた。きょうの予報は晴れだったから、傘を持っていなかった。
かすんだ世界だ。これこそ、じぶんの世界だ。またも思い知らされた。ちくしょう。なにが逃れるためだ。結局なにからも逃れることなんてできやしない。どこまでいってもどんづまりだ。この人生はもう塞がれたんだ。颯紀なんて女ひとりによって、もう解放されることなんてないのか。いやだ。
下山するときも雨はやまなかった。視界がぼやけ、まるで夢でも見ているかのようだった。白いすじだけが視界を埋め、ずっとおなじ光景にしか見えなかった。意識にももやがかかったようで、どうやって降りたのかを覚えていなかった。
駅に着いた頃にはもう水が滴っていた。髪も服も、溺れたように濡れていた。涙が流れていても、それにすら気づけなかった。人気は失せ、靄に包まれていた。
もう二度と、山に登ることはないだろう。どうやったってみじめにしかなれないのだ。ここには救いはない。この身など、救いようがない。
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