第33話② rupture

つづきです↓


 どこへ行きたいのか、目的もなく逃げた。やがて疲れて走りは歩きに変わった。とぼとぼと歩き、涙は流れつづけた。もう足をとめてしまおうと何度も思った。だがいまは動いていないと、頭のなかが憎悪ぞうおで燃えあがってしまいそうだった。みじめだ。悔しくて、いやで仕方がない。あの女さえいなければ、わたしのすべてはあるがままだったのに。


 あの女、いまに復讐ふくしゅうしてやろう。あの女は殺してやる。あの女を殺してわたしは強くなるのだ。そうしてまた一吹を取り戻す。プライドなんて、いまはいらない。あの女が、わたしをおとしめたんだ。わたしのすべてを奪いつくしたあいつに、いますぐ報復を。


 あたりを見回すとわたしは知らない場所にいたが、高くそびえる大学病院が目印になった。まだ二キロほどしか離れていなかったが、無意識でこれほど歩んできたことに驚いた。


 戻る足取りは軽かった。目的ができたんだ。快楽が腹の底からあふれだす。憎悪とは無限に湧きだす快楽だ。快楽があるのに、わたしの喉は渇いて仕方がない。わたしはいつ、満たされるの。


 病院についたとき、もう時間は二十一時を回っていた。面会時間はすぎていたが、いくら病院といえど病棟まで行くのは不可能ではない。閑散とし、冷徹れいてつな雰囲気すらある。当然だ、復讐する場所なんて、どの時代だってこんなものだろう。高校のときに読んだハムレットの城も、こんな風に冷徹で、陰っていたに違いない。でもあの小説のように、剣に毒を塗りつけるなんてしない。この両の腕があれば十分だ。あの細首を思いきりしめれば、声もなく殺せるに違いない。確実に、迅速じんそくに殺してやる。


 まさに病院へはいるそのとき、家族が病院からでてきた。小太りの母親と、まだ四歳くらいのだぼだぼの服を着た娘だった。手をつなぎ、笑顔で歩いていた。彼女らは今晩の夕飯について話していた。


 わたしの足はとまってしまった。その娘はあまりにも儚げで、幼かった。わたしはもう、あのころには戻れない。突然殴られたように、頭の底がずしんと重くなった。


 わたしはいま、なにをしようとしているんだ。人を、渚月を殺そうとしていた? いまわたしはなにをしていたんだ。病院に来たのはいつだ。どうして殺すなんて狂った考えができたんだ。世界にはこんな幸せな家庭が、家族がいくらでもいるのに。


 わたしはいつから間違っていた。わたしにだって、あんなころがあったはずだ。そもそも、わたしが祐にしたことは間違っていたのか。この関係が悪いとか、おかしいとか思ったことは一度もない。欲望を満たして美しくなることが、だれかを喜ばせると信じていた。それに祐とも、利益が釣りあっていて、悪態をつきながらも、満足しているのだと思っていた。


 もしかしてすべて、間違っていたのだろうか。そうだ、わたしはうす汚れてしまったんだ。あの愛おしい家族像から、罪なき少女の姿から、いやになるほど逸脱いつだつしてしまっていたんだ。


 そしていままで感じたことないくらいの目眩が襲ってきた。従順な小学生、恋を知った中学生、放蕩ほうとうの高校生、愛を知った大学生、すべての時代が音を立てて崩れるように、世界が足元から揺れた。思わず入口付近の壁に寄りかかって座りこんでしまった。両手で目を押さえ、揺れ動く地面をなだめようとした。


「大丈夫ですか?」


 目眩は一向におさまらず、白衣の男に声をかけられるまで目を開けられなかった。


 その男の顔が、一瞬父親に見えてしまった。真っ白いシャツにわたしがむかしプレゼントした安いネクタイ、そしてかすかに煙草が香るスーツ。それはいまの見苦しい父親ではなくて、かつて見た優しい態度のあいつだった。キャラメルを食べようとしてわたしに寄こす、優しかったあいつだ。すぐに勘違いだとわかったが、わずか一瞬でも湧いた感情が悔しかった。


 それは喜びだった。だれかに愛される喜びを、家族を裏切った父親にさえ感じたのだ。悔しくて、情けなくて、目眩も気にせず逃げた。かつての亡霊の声も視線も振り切って走った。


 そしてたどり着いた先で気がついた。わたしの根源には、愛だけが満たされていなかった。だれかに愛されたい。だれかを愛したい。それだけが満たされなかった。どれだけ満たそうとしても満たされない底なしの感情。


「渚月への復讐ふくしゅう? 馬鹿みたいね、わたし。いや、馬鹿だったのか。ああ、苦しい。苦しいわ。どうしてわたしは孤独なの。どうしてわたしはここにいるの。まるでみじめな負け犬じゃない。お父さんにもうとまれて、一吹にも捨てられた。祐。わたしはどうすればいいの。胸の奥が熱いの。苦しいの。だれか助けてよ。どうしてだれもわたしを愛してくれないの。お父さんもお母さんも、どうしてわたしを認めてくれないの。わたしは」


 ふっと目眩がひどくなり、視界が暗くなった。歩いていた道に力なく倒れこんでしまった。そこは祐の家の近く、大学とその裏のゴルフ場に挟まれたうす暗い道だった。うず高くつらなった針葉樹しんようじゅを見上げ、じぶんがどれだけみじめかということを思い知った。


 わたしよりすばらしい人はいくらもいる、それなのにわたしはどう。この冷たい鉄のようなコンクリートのうえに寝そべった、孤独な物乞ものごいだ。だから愛されないのか、わたしはこれほどまでに無価値だった。いままで感じた優越感はなにもかも虚偽だった。プライドなんて虚偽だ。わたしが一生懸命築きあげたのは、自尊心という名の砂の城だった。冷たい感触に浸りながら、わたしは目を閉じた。


―――――――――――――――――――――


「おい、祐。聞いていただろう。でてこいよ、卑劣漢ひれつかん


 俺は門の裏に立っていた。一吹さんの声を聞いて、俺はでていった。やはり、颯紀はいなくなっていた。心配だが、いまは目の前の男とケリをつける。


「わざわざ呼びつけるとは、ずいぶん悪趣味ですね。一吹さんはこんなことをする男だと思いませんでした」


「よくいうね、颯紀に手をだしておきながら。それに、お前は僕のことを好んでいなかったことは知っている。僕が笑顔を振りまくだけの愚鈍ぐどんだと思ったか。それはお前だけだぞ、祐」


「いつから」


「覚えていない。よほどお前を殺そうかと思ったさ。でも颯紀を愛していた。俺で満たせないなら、完璧さを砕くわけにはいかないだろ。でももう終わりだ。颯紀は俺のことを恨んでいる。渚月のことだけだ」


「どうして渚月さんに。あなたは彼女を捨てたんでしょう。あの人がどれほど苦しんだか、あなたは知らずに近づいていく。彼女の首を絞めつづけてる。残酷だ。どうしてそんなことができるんです」


 彼は俺の言葉に眉をひそめ、声を荒げた。


「お前にあいつのなにがわかる。軽率にあいつの気持ちを語るな。いまここでお前を殺すぞ。あいつは俺たちに計り知れないくらい高尚な女なんだ。あれは俺を愛しつづけた、孤独に、静かに、一筋に。その感情を、お前は語ろうとしてるんだぞ。できるはずがない。人の女に手をだす野郎にはな」


 高尚、渚月さんが。あんなまっすぐで、等身大の人が。俺はその言葉に、眉間にしわを寄せた。


「そうやって特別扱いするから、お前はぐずなんだよ。あの人はなにも特別じゃない。ただの二十二歳の、ピアノの得意な女子大生だ。だれが彼女を特別扱いしろと頼んだんだ。彼女はそんなこと望んでない。それが孤独にさせていることがなぜわからん。お前が渚月さんに近づいたのは、ただの自己陶酔とうすいだろ。渚月さんすら装飾品にして、そうまでしてじぶんに酔いたいか。むかしっからあんたのそういうところが大嫌いだ」


 突然、頬に衝撃が走った。一吹さんが拳を振りぬいた。俺はすこし濡れた舗装路に倒れた。


 こんな苦痛、なんでもない。渚月さんはもっと苦しいはずだ。


「黙れ」


 地面は冷えきって、温度を奪っていった。そして俺の腹を踏みにじり、見おろしながらこういった。


「自堕落のクソ野郎が。恩義おんぎを忘れたか。颯紀がよくお前のことを語っていたぞ。いつも心配する言葉ばかりだった。なあ、祐。お前がそれにふさわしいか。お前はそれくらい聡明そうめいか、完璧か。いいや違うね。ゴミだ。お前は無価値だ。なんでお前なんかが」


 俺は足を蹴り飛ばし、立ちあがって胸倉をつかんだ。こんなことは渚月さんの痛みに比べれば、なんでもない。


「いいか一吹さん、よく聞けよ。渚月さんは絶対に渡さない」


「どうせ食事でも取りつけたんだろうが、それくらい当然だ。勝者を憎むなよ、祐」


「それはこっちの台詞だよ。自堕落が勤勉に勝てないなんて法はない」


 ふん、といって俺の腕をはじき、つばを吐いた。手を振りながら、彼は学校に戻っていった。俺は鉄くさい唾を吐いて、彼の背を見ていた。怒りとはすこし違うものを感じながら、すこしの間颯紀を探した。しかし俺の思いあたる場所に彼女はいなかった。もし友人のところにいるのなら、それでいい。心配してやる義理などないが、あの様子だと、そうせざるを得ない。




 家に戻ろうとした。もう日が落ちて、とにかく寒かった。


 帰り道の長さに嫌気がさしていると、家の前にだれか倒れていた。暗くて見えない。死。じいちゃんの記憶がフラッシュバックする。はじめて倒れたとき、そして死んだとき、死んだあとの白い顔。


 思わず駆けよると、それは颯紀だった。しかし様子がおかしい。うわ言のようにこうつぶやいている。


「どうして、ひとりはいや。愛がほしい」


 話を聞こうとしても無駄だった。うちに置くわけにもいかないから、近くにいる、山岳部のとき世話になった女性のところへ運んだ。肩を貸すと、よろよろと歩いた。


「え、颯紀ちゃん。なにこれ、どういう状況」


 心底面倒そうな顔をしていたが、仕方なく引き受けてくれた。その間も颯紀はうわの空で、ぶつぶつとなにかつぶやいていた。


 もう目は逸らせない。歯車すべてが狂ったこの状況は、俺が起こした。


 歩くのはたしかにつらい。でもすこしずつでいい。俺が、すべて巻きなおすのだ。

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