第33話① rupture

 もう日は暮れ、あたりは夕に落ちていた。雲はわずかな残光を受け、くっきりとその輪郭りんかくをあらわにしていた。夕焼けは嫌いだ。わたしもこの闇に溶けてしまいそうだ。いっそ、すべて忘れてこの夕に溶けてしまおうか。


 一吹に、学校の裏にある小道に呼ばれた。理由は簡単だ。


「さっきはどうしたんだよ、無視なんかして。なにか様子が変だぞ」


 一吹が来るなりそういった。煙草を吸う気力すらない。でるのは空っぽのため息だけだ。


「いまさらわたしになんの用?」


「颯紀。僕は君の彼氏だろう。なにか気に触ることでもしたかい」


 あくまで律儀な態度の一吹に、なおさら苛立ちがつのった。わたしに嘘をついている、そのくせ知らないふりだ。とおりかかった車のヘッドライトが彼の顔をいやしく照らしていた。胸が苦しかった。


「気に触る。気に触るねえ。よくしらを切れると思ったわね。わたしはもう用済みってわけ。いままで積み重ねたものも、積み木を崩すようなもんだろうね、あなたにとっては」


「待ってくれ。なんのことだ。本当にわからない」


 もはや胸の苦しみは憎悪ぞうおに変わってしまった。彼の心は、わたしに向いていないのがわかる。


「しらを切るな。どうしてあんな女のことを好きになるの。あんな貧弱ひんじゃくで、ひょろ長くて、胸もなくて、頭もなくて、面白みもない。あれのどこがいいのよ。わたしよりいいところなんてこれっぽちもない、みじめな女なんて。わたしは一吹にすべて捧げた。愛も、時間も、喜怒哀楽きどあいらくも。一緒にいた時間すべてがわたしの財産だった。はじめて横浜に行ったときのこと、覚えてる? あなたはこういった。決して君を裏切りはしないと。お笑い種ね。すこし言葉が足りなかったみたいよ。そのときがくるまでは、裏切りはしないってね。あのときわたしがどれだけあなたに惹かれて、どれだけ安心したかわかる? わからないわよね。祐を捨てるくらいあなたを愛した。そのすべてがまやかしだったわけ。それともわたしを愛していると、じぶんにいい聞かせていただけなの。渚月とわたしを重ねて、わたしを愛していると自己暗示したってわけ。そんな嘘ならはじめからつかないでよ。ひとりで舞いあがって、馬鹿みたいじゃない」


 最後の方はもう声も途切れ途切れで、半分は泣き声と鼻をすする音だった。遠くからの車の音だけが、会話を気まずくかざった。


 一吹は黙って煙草に火をつけようとした。いつも見るその行動に、わたしは心底腹が立った。わたしはジッポを奪いとった。すると彼はうつむいて、こぶしを握りしめた。


「黙ってないでなんとかいってよ。ねえ。お願いだからなにかいってよ。どんどんみじめになるばっかり」


 彼は夜の空を見あげて、ため息混じりに髪を掻きあげた。


「僕は、君を愛している」


「愛している、か。愛ってなんなのかしらね。あなたはいつも、愛してるってごまかそうとする。たしかにあなたはわたしを愛している、それはきっと間違いではないんでしょう。でもあの女も愛してしまっている」


 よそから流れる煙草の煙のせいでくぐもった空気になった。むかっ腹が立つ臭さだ。


「答えて」


 目もあわせず、彼はうなずいた。その仕草にか、それともじぶんのみじめさにか、涙があふれだした。


「やっぱりそうじゃない。本当、信じられない。こういうことなんでしょ、颯紀の愛情はもうこれ以上増えようがない。関係も変わらない。安定したんだ。そしたらむかし間違って手放してしまった別の愛も手にいれてやろう。なに、僕ならできるさ。僕にできないことなんてないし、あってはならない、って。ふざけないで。だれもふたりの人を愛することなんてできない。そこには必ずカーストがある。決まってそういうのは、先に愛された方がないがしろにされるのよ。平気な顔して、あなたはわたしを切り捨てるつもりでいるの。そんなことさせない。ねえ、あの女を切り捨てるならいまのうち。いま、あの女を切り捨てなさい。そうすればわたしの元に戻ってきてもいいわ。さあ、わたしとあの女、どっちを取るの」


 嗚咽おえつが混じって、最後はかすれた声になってしまった。じぶんの考えが支離滅裂なのはわかるが、それだけしかわからなかった。頭のなかが重苦しく、熱でもあるかのように煮えていた。


「君だって、そうだろう」


 凍りついた声だった。時の流れがとまった。静寂だけが耳を刺した。


「どういうことよ」


「祐のことをいっているんだよ。僕が知らないと思っていたのか」


「どうして」


 喉がしまって最後までいえなかった。一吹は知らないはずだ。身近な人にはほとんどだれも漏らしてないはずで、わたしも隠しきったはずなのに。


「そういうことはすべてふたりのうちに留めておくべきだろう。他人の口は信じるには軽すぎる。でも僕は黙っていた。なぜだと思う」


 思考が追いつかなくて言葉がでなかった。おかしい、おかしい。こんな状況、間違っている。


「わからないか。そうだろう。君には一生わからないはずだ。じぶんの過ちは決して悪びれず、こうやって気に食わないところが生じた途端、怒り散らす君には。わかるか、俺の気持ちが。祐というセフレが君を満たしていると想像して、じぶんの目を潰したくなった。僕のなかに、君の不満の原因があることを考えるだけで吐き気がした。胸をかっさばいて、余計なものをなにもかも取りだしてしまいたかった。君が祐と寝たあとに僕のところへ来ていたと知ったときには、心臓を潰してしまおうかと思った。この苦しみが、お前にわかるか」


 一吹は声を荒らげた。はじめて聞いた彼の怒号に足がすくんだ。なぜ、なぜ、怖い。


「さて。僕はなぜ、君たちを放っておいたと思う。じぶんの頭で考えてくれよ。これはとても大切なことだ、そうだろう」


 間違っている。わたしは幸せになりたかっただけなのに、どうしてこんな仕打ちを受けなきゃいけないのだろう。怖い、苦しい。


「そう、あれが完璧な関係だったんだ。どこも破綻はたんがない、だれもが幸福な状態で、僕と君は愛しあっていた」


「いまの話じゃ説明になってない。それならなぜあの女に手をだしたのよ」


「そんなことはどうだっていい。じぶんを振り返ってみてくれよ。僕は君を愛していた。君は僕を愛していた。だから君らを放っておいたんだ。その慈悲じひを汲みとってくれよ。君が祐との関係を絶たない限り、渚月との関係を断つつもりはない」


 苦しい。憎い。一吹のために祐と別れたのに、どうしてこんなことになってしまった。


「祐と仲よくしてやったのも、この関係を崩さないためだ。わざわざ君のセフレのために、僕は時間を費やした。完璧な僕たちのために」


 憎い。どうしてわたしがこんなに苦しまなきゃいけない。あってはならない。


「だからみすみす見すごせってことなの。愛する人が手から零れ落ちていくのを、指をくわえて見てろっての。あなたにはそれができるかもしれない。でもわたしには無理よ。そんな苦しみ耐えられない。わたしはあなたほど強い精神を持ってない。あなたほど慈悲深くないし、あなたほど図太くない。そんな憐憫れんびんみたいな、お情けみたいな愛情なんてこっちから願いさげよ。わたしを馬鹿にするな」


 苦しい。わたしは強く、高貴になりたくて生きてきたのに。考える前に、思いきり一吹の頬を打った。涙を拭くのすらみじめで、わたしは走り去った。とにかく遠くへ、夜の底へ走った。


つづきます↓

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る