第32話 coloring

 病院についてエレベーターに乗ったとき、時計を巻き忘れていたのに気がついた。大丈夫、俺はいまも冷静だと内省し、きりきりと巻きなおした。


 足早に、まっすぐを見つめて病室へ歩いた。もう四時すぎだから、それほど長居はできないだろうか。この病院で彼女とすごした時間はわずかだったが、人生で一番濃密な時間だった。俺はいま、あの人を思っている。


 彼女は病室にはいなかった。談話室にもおらず、看護師に聞いてみると屋上にいるとのことだった。


 そのまま屋上へ向かい、扉を開けると渚月さんがいた。近づいて彼女の横顔を見ると、一気に緊張が高まった。遠くをながめる彼女の表情は、明らかに淀んでいる。ごうごうと風が吹きすさんでいた。


「どうしたの、こんなところに。暇だから来るような場所じゃないでしょう」


「あなたに会いに」


 柵を握りしめていた。目を背け、彼女はこういった。


「ごめんなさい。きょうは帰って」


 声も弱く、かき消されてしまいそうだった。流れる髪をわけてこちらを見た。いつもは気品あふれる所作も、どこかぎこちなく思えた。


「帰らないし、帰れない。あなたのその顔見て帰れるわけないだろ」


 隣に立ち、景色をながめた。


「あなたなんて、もうどうでもいいの。お願いだから、帰ってよ」


 彼女は震え、ついに声を荒げた。鬼気迫る表情だ。きっとその裏にはとてつもない決心がある。だが本心からの言葉はもっと鋭くて、ためらいがない。


「それは、一吹さんとの一件があったからか」


 なんとか体面は取りつくろっていたのだろう、絶望の表情に変わり、目を見開いた。


「どうしてそれを」


「全部隼から聞いた。あのときと逆だな」


 彼女はあきらめたように笑った。


「そっか、親友だものね。それなら、なおさらよ。わたしはあなたにあわせる顔がないじゃない」


「一吹さんには、颯紀という人がいる」


 腹の底に力をいれないと立っていられなかった。


「昨日、ここに来たわ」


 怯えた表情になり、うつむいた。颯紀が来たことには驚いたが、そんなことは関係ない。


「だったらなおさらだ。あなたに堕落の道をすすんでほしくない」


「本当に愛していたの。でも簡単にわたしを捨てた。わたしの身の不完全さも、一吹の無情さも、許せなかったわ」


 不完全、自らのことをそんな風に思っているとは、はじめて会ったときの彼女からは想像できない。それに、彼女の考え方は矛盾している。俺は唇を噛みながら聞いていた。


「それなら、すすむべきだ。幸福の追求を教えてくれたのはだれだ。堕落を押しのける小指の冷たさを教えてくれたのは、他でもない、あなたじゃないか」


「愛というのは跡を残すものよ。憎しみや悲しみをすぎ去って残った愛の爪痕は、深くてなおらない。あなたにもわかるでしょう。いままさに、わたしは彼を愛している。身が焦がれ、胸が高鳴って、ため息がでるくらいに。幸福なんて口上でしかないの。あれは一吹から教えてもらったもので、わたしの中身は空っぽだから」


 渚月さんはベンチに座った。彼女の手足は震えているようだった。


「だからわたしは、あなたにあわせる顔がないの。罪以外のなんでもない。堕落がどうというのなら、わたしはとっくに堕落しているわ。ろくでもなくて、ちりほどの価値もない。帰ってくれないと、つらくて仕方がないの」


「罪のことを俺に説いた人が、そんなことをいうな。渚月さんを理解しようともせず、完璧を求めたんだろ、一吹さんは。そんな人間が、あなたにふさわしいはずがない。あなたにそんなことをいわせる男こそ罪そのものだ」


 今度は鋭い顔でこちらを向いた。荒げた声でこういい放った。


「なんで祐くんがそんなに怒るのよ。あなたには関係ないことでしょう」


 涙ぐんでいた。こうして彼女が何度も声を荒げるのははじめてだった。本当に一吹さんを愛しているのだろう。でも。


「俺はあなたを幸せにする、それが俺の幸福だから」


 座ったままこちらを向いた。苦い風が通りすぎて、木々がばさばさと音を立てた。


「どうして、あなたはわたしを怒らないの。わたしは蝶にはなれない。そんな器の魂じゃない」


「なぜ怒らなきゃいけない。あなたの魂がどうかは知らない。でも、美しいと俺は思うよ」


 笑ってそう答えた。すると彼女の表情が崩れた。以前の穏やかで、慈しみのある表情になった。


「いいか、だれだって過去に縛られている。以前よく、このことを考えたんだ、俺がいうのも馬鹿馬鹿しいかもしれないがな。縛られるのはつまり、過去ってものは唯一の判断基準だからだ。記憶があるからこそ俺たちは世界を認知にんちして、行動を起こせる。それがなければ人が歩くことはできないだろ。それでも、前へ未来へ向かって歩かなくちゃいけない。過去に向かって歩けば見たことのある、心地よい景色が慰めてくれるかもしれない。でもそんなものは未来じゃない」


 柵に寄りかかってつづけた。遠くで雲たちが、自由に揺れている。


「未来にしか新しい感情はない。新しい感情がなければ、人は枯れていくだけだ、俺みたいにな。でも未来にすすむのは恐ろしい。じぶんの知らない世界をすすむしかないからだ。足を踏み外して落ちることもあるかもしれない。それでも未来を紡ぐのは、過去に浸るよりずっと美しくて価値があって、素晴らしいことだ。あなたが、あなた自身ですすもうとしたから、俺に近づいたんだろ。これっぽちも怒るべきことなんてない。そうだろ、渚月さん。俺の知っているあなたは前を向いて、輝いているんだ」


 彼女は肩を小刻みにすくめていた。


「ごめんなさい。ちょっと時間をちょうだい」


 俺はそっと屋上の扉を開いた。談話室の方に行くと、はじめて渚月さんと出会ったときのことを思いだした。あのときはじいちゃんも一緒だった。


 ここに立ってはじめて、不安に襲われた。じいちゃんのいないいま、導いてくれる人はいない。それでも一吹さんを跳ねのけなくてはならないのだ。じいちゃんの頭脳があれば、それくらいなんでもないのだろう。


 頭痛が激しくなってきた。頭のなかをうずまく、うす暗い感情が重苦しかった。前にすすむのだ。一吹さんをなんとかして、渚月さんを幸せにするのだ。


 しばらく放っていてもなおらなかったから、頭痛薬を流しこんだ。バッグにあったぬるい水はあのときの血の温度のようで気味が悪かった。不安がどんどんとのしかかってくる。俺はこの道で正しいはずなのに、堕落がこの身を引きとめようとする。窓を開け、空気を換えるとすこしよくなった気がした。もう日が沈もうとしていた。

 

 『おまたせ』とスマートフォンに連絡がきた。ようやく頭痛が軽くなって、重い腰をあげた。彼女の冷たい手の名残がまだ残っていた。


 渚月さんは目を赤くして、その細いまつ毛には水滴がついていたが、いつもの彼女らしく気丈な態度に戻っていた。談話室の席につき、一息吐いた。


「あなたとはもう会わないと思っていた。でも来てほしいときに来ないで、来ないでほしいときに来るなんて、ずるいわ。お爺様が亡くなったあと、ずっと病室で待っていたのよ」


 恥ずかしくなって謝った。じいちゃんの葬式のときは、脳裏に焼きついた渚月さんに支えられていた。もしかすると、彼女の思いが本当に支えてくれていたのかもしれない。いまの俺は、彼女なしでは成りたたなかった。


 彼女は花の微笑を浮かべて、細い髪の一本一本が日に艶めいて息づいていた。感謝をこめて彼女の頬に触れると、ひどく冷えきっていた。風が静かに頬をなでた。もう日は傾いていた。


「この前、俺の絵を描いただろ。あれ、色をつけてみないか。俺があなたの色になる」


 駅で買ってきたアクリル絵具を取りだした。しかし彼女の表情に影が差した。


「この前の絵、手元にないの」


「キャンバスで描けばいいだろ」


 難しい顔をしてうなっていたが、彼女はうなずいて立ちあがった。袖をまくった彼女の腕にはちゃんと時計が輝いていた。


「いいわ。時間がかかるけれど、大丈夫?」


「どうせ暇だ、平気」


 病室からキャンバスを持ってきて、さっそく描きはじめた。元があるからか、以前より筆の運びに迷いはなかった。そして以前のように、ピアノを弾くような流麗りゅうれいな筆運びだった。絵を描いている彼女はさきほどまでとは違って、ざっくばらんで他人など関係ないといわんばかりに鋭い顔をしていた。まるで絵を描くための人格でも用意しているようだった。その彼女は、普段よりもころころと別の表情を見せてくれて、こちらとしても楽しい。


「覚えているかしら。退院したあと、紫苑さんの」


佐島さじまに探しに行くんだろ。忘れるわけない」


 ぼうっと天井を見あげてからぱんと手を叩き、いつにするか決めましょうといわれた。そして鉛筆を置いて手帳を開いた。コンパクトで、写真かと見まがうような蝶の絵が描いてある。


「退院してからすぐは忙しくて。色々とお呼ばれしているのよ、わたしが顔をださないわけにもいかないから」


「なら三月の頭はどうだ。それなら俺も都合がいい。あまり遅くなってもな」


「いいわ、そうしましょう。椿とか梅の花もきっと見られるわ。あと、佐島のあとに鎌倉に行きたいの。どうかしら」


「ならそこで写真を撮るよ。応募するやつ撮ってるけど、全然だめなんだ。正直題材も、風景にするかとかポートレートにするかとか、決めてないし」


「写真にするにはいいところだわ。七里ヶ浜とか、文学館ぶんがくかんとかも絵になるんじゃないかしら。長谷寺はせでらも美しいところね。あそこだけはとっても記憶に残っているの。そのときは紅葉の真っ盛りで、一面が真っ赤だったの。佐島も本当に美しいところなのよ。一度だけ行ったことがあるっていったでしょう。玄関からガーデニングというか、装飾そうしょくに手がこんでいるのよ。それにデッキに出れば海が目の前で、景色が綺麗なの。夜は月の道が海にできて、それは見られるかわからないけれど。ああ、楽しみね」


 手帳に書きこみながら微笑を浮かべていた。屋上でうつむいていた彼女はもういなかった。その隙にバッグを漁って、カメラを取りだした。


「きっといい写真が撮れる。俺も楽しみだ」


 そしてシャッターを切った。夕焼けに染まった彼女は、まるであの夢のなかにいるようで、どこか儚かった。


「ちょっと、恥ずかしいわよ」


「いつだって、夕焼けは美しいものだな」


 線画を描き終わったようだ。正面に座っていたが、渚月さんの隣に座った。おなじ匂いがする。俺はすこし胸が苦しかった。しかし、拳を握りしめて、それをいさめた。


 渚月さんの横でずっと色を指示しながら試行錯誤していた。思った以上に難しい。色彩感覚が、見ている絵と実際にやるのでずれが生じているのだ。ただ漠然まんぜんと絵画を見ていただけではうまくいかないものだ。アーモンドチョコをふたりで食べながら、うんうんうなっていた。


 そして渚月さんは色づけがはじめてだったから、最初はおぼつかなかった。苦心しつつも、その瞳は輝いていた。それでも才能があるのだろう、次第に上達してきて、筆が乗ってきた。


「どんな色になっているのか見てみたいわ。夕焼けとか、祐くんの色とか。だれの絵に似てる?」


「モネかな。筆触分割ひっしょくぶんかつだから、形をとらえていたんだろ」


 渚月さんの気に食わない部分、俺の気にくわない部分、どちらも修正しながら描きつづけていたらずいぶんと時間がかかった。七時すぎに、ようやく終わった。お互いにもうくたくただった。しかし、これほどに楽しくて充実した時間は、かつて写真を撮っていたころ以外になかった。


 もうすぐご飯の時間だよ、と渚月さんに伝えにきた看護師が、絵を見て騒ぎはじめた。


「すごい、すごいわ。めちゃくちゃ綺麗。これふたりで描いたの? みんな来て」


 そして看護師たちが集まってきた。まともな絵の批評はほとんどなく、称賛の声ばかりだった。うしろには仏頂面の多田たださんもいた。渚月さんに近づいてこういった。


「答えが見つかったみたいだね」


「まだ見つかっていませんわ。でもすこしはすすめたと、信じています」


「退院おめでとう」


 病室で渚月さんと別れを告げ、病院を去った。一吹さんには負けない。いまは不安なんて感じない。かすんだ世界に、さきほどの色が重なって見えた。俺はくすりと笑って、時計をなでた。

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