第20話② prison break

づつきます↓


 はっと正気に戻った。すぐに帰らなくては。バスはもうすぐでるところだった。右の一番奥に座り、またも外をながめた。颯紀さんという存在には違和感がぬぐえない。道中、結露けつろした窓を拭いて街をながめた。生活のひそめた夜の街だった。わずかな街灯だけが、ささやかに灯っていた。窓に映るわたしの瞳に、その灯がひらり、ひらりとすぎ去っていった。


 祐くんへの感情が、芽吹いていくように育っていく。ようやく気がついた。わたしは彼を必要としている。いまはもう、そばにいてほしい。話したい。でも、わたしは彼を愛せない。恩人に感じるべき、傾聴けいちょう敬愛けいあいの距離を保っておかなくては、彼に迷惑をかけるだけだ。


 階段も一段ずつゆっくりと登った。もはや身体も限界だった。これとずっとつきあっているとはいえ、煩わしい。


 三階に着いたときは息も絶え絶えだった。息を静かに整え、前より重い戸を開けた。ナースステーションからは死角だが、音はだせない。今度は四つ這いで帰るしかない。どうか、見つからないでください。


 そんな思いも徒労とろうに終わった。一番厳しい多田さんがわたしを見つけると、毅然とした態度で近づいてきた。


「どうしたのよ、渚月ちゃん。こんな時間に」


「ちょっとお手洗いに行っていましたの。ご心配かけたかしら」


 冷や汗が背中を伝う。病院に流れるすべての空気が張りつめた気がした。暗がりの談話室は、いままで見たことのある姿ではなく、冷徹で無関心だった。


「そんな恰好かっこうでね。ばれてないなんて思っちゃだめよ。いま階段をあがって来たでしょう。ベッドの細工も、あれじゃ新人と木偶の坊しかだませないわよ」


「すみ、ません」


「理由はなに。コンビニへ行きたかったとか、散歩したかったとか?」


「いいえ」


「じゃあ、なんなのかしら」


 明らかに怒りはしなかった。しかしこういうとき、なににも動じない無表情の方が恐ろしい。わたしは手を強くにぎった。


「大事な人を、探しに行っていましたの」


 彼女はしばらくじいっとこちらをにらんでいた。蛇ににらまれた蛙の気分だ。でも、こんな些細ささいな困難にくじけるなんてできない。


「そう。他愛もない理由だったら、あなたといえど容赦ようしゃはしなかったわ。しかたない。今回のことは目を瞑ります。これはわたしの、あなたに対する信頼です。でももうしちゃだめ。もし倒れていたらどうなっていたか、想像できないあなたじゃないでしょう。今度おなじことをしたら冗談ぬきでベッドに縛りつけるから、そのつもりでいてちょうだい」


「本当に申し訳ないですわ。ありがとうございます」


「しっかりと向きあって、をだしなさい。退院するときにまた聞きますから、用意しておいてちょうだい」


 多田さんは、はあとため息をついてナースステーションに戻っていった。彼女の歩く姿勢は毅然として強い。彼女を相手にしてわたしも疲れてしまった。ため息をつきたい。また牢獄に戻っていく。


 目を閉じるとまた祐くんが目に浮かんだ。結局わたしは無力なのだろうか。きょうみたいに。いや、きっとなにかある。もう一度、祐くんと話したい。知りたい。でもわたしは、ここで待つことしかできない。なんて、不完全なわたしにはだせない。


――――――――――――――――――――――――――


 夜の街はもう寝静まっている。あるいは情欲じょうよくに浸っているのかもしれない。明かりひとつひとつが、情欲に浸っている人間の数に違いない。どれだけモラルや世間が抑えつけようと、結局だれもがこういうことを好いている。我慢しなくていいことを我慢するのは、正直者の馬鹿だけだと、わたしは思う。


 祐をタクシーに連れていくのは一苦労だった。足も立たないし、いうことも聞かない。酔っぱらいの世話はこれだからしんどい。でも皆やらないから、結局わたしがやるしかなくなってしまう。だからわたしが祐を連れて帰らなくては。 彼はほとんど眠っていた。げっそりして生気のない横顔だった。


「もう、祐。ちゃんと歩いてよ」


 階段に差しかかって、なおのこと支えるのが難しくなった。祐が足を滑らせて、数段引っぱられた。


「ちょっと」


 危うく転ぶところだった。めんどくさくなって、わたしは彼をおんぶした。 昨日からずっと、身体の奥がひどく熱い。まるで風邪にうなされているみたいに、熱い。一吹ではわたしの肉欲は満たせない。渇望してしまうときが、わたしにはある。そんなわたしは完璧じゃない。欲望を満たした女が一番美しい。こんなみにくい渇望は、捨て去るのが一番だ。


 それにしてもさっきのあの女、面白くない。細っちくて、気取ってる。わたしの一番嫌いなタイプの女だ。美人なくせに、それを気にもしないふりをする。その実、それをわかっているくせに。いやらしい。持っているのなら、それを十分に発揮するのが、持つものの役目だ。それに、あれはどこかで見たことがある気がする。もしかしたら、どこかのSNSだろうか。別にどこで見ていようが、毛ほどの興味もないが。


 祐の家に着いたとき、彼の意識はもうはっきりしていた。寝ていたからだろう。ただ酔いは残っているのか、頭痛と嘔気おうきがひどいようだ。家に着いてすぐトイレに駆けこんだが、それで落ち着いたようだ。


 もう我慢できない。渇いて渇いて仕方がないのだ。満たされない。この世界には欲を満たすものがすくなすぎる。偶然、わたしはこれが一番満たされるものだっただけだ。他の人には酒とか食物とかが最適だったりするだけで。順位が違うだけだ。


 明かりもつけず、祐をベッドに寝かせた。彼はぼうっとしてほとんど無意識だが、それでもいい。熱い渇きが、おさまらない。彼の手が、わたしの肌に触れた。ぬるくて生々しい温度だった。

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