第39話② white

 いずれ雪が舞いはじめた。もう日も暮れて、だんだんと視界が悪くなってきた。バッグを漁ると、ここでひとつ手落ちに気がついた。ごくわずかな、しかし深刻なミスだった。馬鹿らしさにいらついてバッグを叩きつけた。懐中電灯を持ってきていなかったのだ。


 ここまで来て、こんなくだらないミスで、とまるわけにはいかない。バッグの底にあったペンライトを持って、歩きはじめた。足先一メートルも見えないが、まだましだ。憤りはしばらくおさまらなかった。


 ペース配分に気をつけたつもりだったが、頭痛がはじまった。これが高山病なのか持病なのかは判断できなかったが、次第に悪化する症状に唇を噛んだ。高山病になれば下山か、休憩かしないとまともにおさまらない。まして登っていくなど論外だ。最悪死に至る場合もなくはない。それでも、とまっている暇はない。すすみつづけなくてはいけない。間にあわなければなんの意味もない。渚月を置いてここまできたんだ、手ぶらで帰ればだれにも顔向けできなくなる。


「届けるんだ、最高の景色を」


 どれだけ歩きつづけたかわからない。前だけ向いて、なにも考えずにすすみつづけてきた。白。恐怖の白、はじまりの白、気品の白。視界は黒い白に染まっていた。あたりは闇に落ち、霧がでてきた。ペンライトが足元をわずかに照らし、雪の沈みこんだ行路がしるべとなっていた。雪に足を取られ、何度も転びかけた。気温も下がってきた。装備は完璧だったはずなのに、手足が冷えきって感覚がない。轟轟ごうごうと鳴る風が耳を支配する。すこし油断すればふっとばされそうだ。はは、笑えてくる。死んだ方がましだ。

 

 どこからともなく、やあという声が聞こえてきた。びくりとしてそちらを向くと、隣に男が歩いていた。燕尾服えんびふくで、ハットを被った、白髪白鬢はくはつはくびんの老人だ。俺は目を見開いた。どうして、あの居酒屋のじいさんがこんなところに、こんな格好でいるのだ。しかしその問いは風に流され彼に届かなかったようだ。彼の声は、なぜか俺の耳によく届いた。


「とうとう、君は決断してしまったわけだ。いや素晴らしい。こればかりは予期していなかった。渚月という女性が君という人間を完全に変革、昇華してしまったのだね。ああ、なんと感動的。なんと情熱的なのだろう。君はもはやだれにも劣らない、素晴らしい人間だ」


 最初みたいにどもっている。調子を取る杖は音が鳴らないから、足音にあわせて話していた。


「そうだ、俺はもういままでの俺じゃない。俺の幸せがわかったんだ。俺自身がじぶんの道を選択して生きること、それが俺の幸せだ」


「でも、わたしは君という人間を知っている。君は怠惰たいだだ。無気力だ。たかだかひとりの女と出会っただけで、それは変わらない。いいかい、人を愛するということは、堕落だらくという側面も含んでいると君に教えたはずだ。君はなにも変わっていない。君という人間の根源は、じぶんでなにも決められない、愚鈍ぐどんでまぬけな木偶でくだ。見ろ、君はいま、なにをしている。槍ヶ岳の頂上を目指しているな、それこそ命を賭しての覚悟を持っている。その意気やよし。だがね、君はこれをじぶんで決めたと思っている。いや、思いこんでいる。はたしてそうか。これは渚月の夢だ。君の夢ではない。では君の夢とはなんだ。答えてくれよ」


「俺の、夢。あるよ、夢。ええと」


 言葉がつづかなかった。どうも頭まで疲れてしまったようだ。鉛の足だ。いまここにいるのは、俺の夢なはずだ。


「そう、君に夢なぞないのだよ。だから他人の願いに沿って動くことしかできない。他人の心を動かせるような行動とは、いったいなんだと思う。それはな、自らの心のうちから湧きでる、燃え盛る炎のような意思を持った行動だ。いま君を突き動かす原動力はなんだ。そう、渚月の願いの力だ。君の願いではない。所詮は偽善の押しつけにすぎない。そんなものに精をだしているだけじゃないかね」


 俺はここに、渚月の夢を叶えるために踏みこんだのだ。俺の夢ではないのか。ここまで来たのは、俺の意思じゃないのか。本当、笑えてくる。本当につらくなると、人は笑えてくるらしい。


「そう、君の意思だと思ってしまうのだ。こうやって行動に移ることができてしまうから。だが、命令されて動く木偶とまるきりおなじだと思わないかね」


 これが、まったくの無意味なんてことはあってはいけない。じいさんに飛びかかろうとしたが身体が動かず、憎らしい目を向けることしかできなかった。


「あってはいけないな。だが、それが現実なのだ。君は空虚だ。だれにでも笑顔を振りまく、愚かな道化だ」


 まさか、本当に無意味なのか。俺の夢、そんなものはいまの俺のなかにないのか。紫苑さんの言葉、渚月の言葉、じいちゃんの言葉、そのすべてを反芻はんすうしているだけだったのか。ひたひたと、夜闇にまぎれて堕落が押し寄せてくる。ひどい風だ。


「くそったれ。お前はなにもわかっちゃいない」


「はっはっは。図星だな、強がったって無駄だ。いままでの君を語ろうと思えば、いくらでも語れる。どれだけ怠惰で、どれだけ堕落していたのか。高校のとき、颯紀のために、写真を撮りに奔走したじゃないか。あれは楽しかったな。だがあの頃といま、なにが違う? おなじだ。だれかのためになんて口実で、じぶんの考えを持たず行動してきた。違うか?」


 ざく、ざくと足音が響く。ささやく声が、身体の芯まで染み渡った。冷たくて、暗い。この閉ざされた世界。


「愛とは、堕落」


「でもわたしはそんな君が素晴らしいと思う。だってそれを選択したんだ。いっただろう。選択すること、それ自体が尊いんだ」


「そんなわけないだろ。俺はそんな人間になることを望んじゃいない」


 俺は耳元でささやく彼を振り払った。それをひらりと交わして距離をとった。ハットを脱いで、うやうやしくお辞儀した。


「じゃあな、mon amiわが友。わたしだけは、君を心から愛しているよ」


「消えろ、外道め」


 枷つきの足は動かしつづけたが、紳士のせいで思考はかすんで虚ろだった。頭痛はさらにひどくなる一方で、三回は嘔吐おうとした。限界という言葉がちらついた。しかし倒れた渚月の白い顔が脳裏に焼きついて、すすむ足がとめられない。彼女が死にかけているのに、俺が足をとめてはならない。しかし確実に、堕落が一歩一歩、すり寄ってくる。それに身を浸していたからよくわかる。ほんのわずかな視界に、背を預けられそうな崖が見えた。


「もうここで寝てしまおうか」


 ああ、もうだめだ。これ以上は無理だ。俺はよくやったよ。こんなクズでもここまで来れたわけだ。ここでもいいのではないか。ここだって山だ。


 手を当ててすこし休んだ。座るかどうか悩んだが、腰は下ろせなかった。二度と立てなくなる気がした。凍った身体で、また機材を持って歩きつづけた。朦朧とする視界に、色はなかった。白も、緑も、黒も、すべて明滅だけに変わってしまったようだった。


 ああ、きっとこれが渚月の見ている世界なのだろう。いままでですら世界からの疎外感を感じる俺には、こんなもの耐えられるわけがない。死のレイヤーが視界をおおう。死の白に染まった世界だ。歩くのはつらい、どうしてこれほどにつらいのだろう。だれかを愛することは、どうしてこんなにつらいことなのだろう。むかしはもっと純粋に、愚直に愛していたのに。




 突如、足場がなくなった。数メートル滑り落ち、横目に見えていた崖が夜闇の白に消えた。やばい、やばい、やばい。すべての後悔が胸に寄った。死ぬ。俺はいま死んでいいのか。たしかにつらい、死んでしまいたいくらいに。でも渚月はもっと。


 俺はとっさに手を伸ばして、横に伸びていた岩をつかんでいた。


 身体をよじりながら引きあげて、息をついた。意識していれば必ず気づけた崖だったはずだ。ぼやけていた頭が凍った。崖の先は底が見えなかった。俺は座ったまま、ずっと動けなかった。無意識に立ちあがって、すすみはじめた。


 凍った身体を引きずりながら、ようやく頂上手前にたどりついた。もう足は感覚がなく、肩は肩甲骨からちぎれてしまいそうだった。 頂上の宿は明かりひとつついていなかった。吹雪のせいで輪郭がぼやけていた。日の出までの時間は読めなかったが、わずかに空は白んでいた。夜が明けるまでは身動きが取れなかった。しかし宿は施錠せじょうされていて、なかには入れなかった。手足が寒い、まるで氷水にでも浸っているようだ。酒が飲みたい。なにも考えず、温まりたい。


「隼、日陽くん。悪いな。顔向けできそうにねえわ」


 ここの空気は、墓の下、カロートのなかとおなじ空気だ。穢れなく、気高く、俺を突き刺す。痛い、痛くてたまらない。堕落した俺を、生かしてはくれないのか。こんな堕落して、鏡のように生きてきた人間が真人間のふりをするのは、それほどいけないことなのか。


 俺は、なぜここに立っているのだろう。この色も穢れもない聖域に立っている。とっさに崖をつかんだが、あのまま滑落していればよかったかもしれない。


「堕落。この身は堕落に汚れてる。俺なんぞは、ここで死ねばいい。この穢れない土地で俺の血を濯ぐしかないんだ。狂ってるか、ああ狂ってるさ。狂ってなきゃこんな世界生きてけない。ああ、そうだな」


 崖へ向かった。もう、結局のところだ、解決策はひとつしかなかった。渚月さんに引きとめられたせいで、こんなにつらい思いをしてまで、こんな冷たい山でその時をむかえることになるとは。堕落だと知りながら人を愛した罪を、咎めなければいけない。白の闇に覆われた視界が、完全に閉じた。顔に触れた雪の冷徹さが、俺を世界から排斥した。


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