第39話① white

 古淵こぶち駅へ自転車を走らせた。白々明けの朝、森の凍った空気が素肌の手や頬に突き刺さった。紫煙しえんのような吐息が流れては消えていった。しかしそんな朝なんて、もう怖くない。いくら世界が俺を排斥はいせきしようとしても、恐れている暇などないのだから。前へ、ひたすら前へすすむだけだ。


 電車になんとか飛びこんだ。電話で取り急ぎ隼に説明し、協力を取りつけた。


「そういう向こう見ずで馬鹿なお前を待ってたんだよ、僕は。こっちで待ってるからな」


 電車から見えるマンションは朝日に照らされ、人の生活が息づきはじめていた。渚月の夢を叶えるには独力では絶対に無理だ。こんなことは考えたくないが、もしもそんなことがあったとしても、彼女の夢だけは叶えたい。きっとそれが俺の自由意志だし、幸福なのだから。


 息をついてから、日陽くんからの電話で彼らに連絡し忘れたのを思いだした。さいわい車両にはだれもいなかった。さきほどの謝罪と、いまどこへいるのかという内容だった。電車にいると伝えると、彼の声が荒くなった。病院でのけわしい表情が目に浮かぶ。


「いったいどこへ行くんですか、こんなときに」


「実家に。やらなくちゃいけないことができたんだ」


「姉さんを置いてまでしなきゃいけないことですか。そばにいてあげるより、大切なことなんですか」


「渚月の夢を叶えてやるために、どうしても。すぐに戻る。容態に変化があれば教えてほしい。山に登るから電波は届くかわからないが、確認はする。お願いしてもいいか」


 ため息が聞こえてきたが、それは呆れではなく、渚月さんとの関係を聞いてきたときの、人のいいため息だった。そして優しい調子に戻った。


「連絡はしますよ。でも、必ず結果を持ち帰ってください。手ぶらで帰ってきたら、また引っぱたきますから」


「ああ、死んでもな」


「もし起きることがあれば、あなたがどこにいるか伝えておきますから」


 各駅にとまる電車はもどかしかった。八王子で乗り換え、中央線ちゅうおうせんで高尾まで出て、松本行に乗り換えた。そのあいだに登山経路を調べて、必要な物品をリストにあげていたが、高尾で電車に乗ったとたんに眠気が襲ってきた。いつからまともに眠っていないのだろう。でも眠っている時間なんてない。


 その気持ちとは裏腹に、意識は遠ざかっていった。大月と甲府で乗換があったが、ほとんど眠ったまま乗り換えては、そのまま倒れるように席に座った。


 さっぱりしないまま松本駅に着いた。すでに九時半だった。父にアルプス口で待っているよう連絡しておいたから、でてすぐに見つけられた。遠くから見ても、父の滑稽さは目立つ。当直明けのようで目をこすっていた。俺を見つけた父は手を振って歩きだした。


「いったいどうしてあんな時間に連絡したんだい。それほど急いでいるのかい?」


「ああ、一分一秒でも急ぎたい。詳しくは説明できないが、槍ヶ岳やりがたけに登りに行ってくる」


 大股で歩く俺の隣を父がついてきた。鶏のようで滑稽こっけいだ。車に乗りこむと、懐かしい芳香剤の香りがした。ゆっくりする間もなく、車は走りだした。


「まあ理由なんていいよ。祐がそんななにかに没頭するなんて、僕はうれしいんだよ。ずっと周りにあわせてきたお前がどうなるか、ずっと心配だったんだ。お母さんには僕から説明しておくから、車は自由に使うといい。それと」


 と彼は荷台を開けるよういった。すこし恥ずかしそうにしているのがコミカルだった。やたらと大きい袋からでてきたのは大きな箱と小さな袋だった。開けていいよ、というから大きい箱の包装用紙をやぶると、それは三十万近くするキャノンのレンズだった。


「遅くなってごめんな。成人おめでとう。渡すかどうか迷っていたけれど、お前のその荷物なら、と思ってね。写真、やめないでくれよ」


 面食らった。父は俺のことにまったく興味がないと思っていた。結衣奈さんとおなじように俺を蔑んで、否定するものだと思っていた。俺は父さんの腕を思いきり叩いて笑った。


「危ない、危ない。事故ったら祐まで死ぬぞ。もうひとつも開けてごらん」


 こちらに入っているのは香水だった。ブルードゥシャネル。すこしテストしてみると、柑橘かんきつのなかに色のある、刺激的な香りだった。こんなセンスのいいやつを、父さんが選んだとは思えなかった。


「祐が香水が好きだって聞いて。母さんはそういうの嫌いだったけれど、僕はそういうの結構好きなんだ。似あわないけれど」


 ふふふと笑う父さんは、優しくて朗らかだった。そして間違いなく、父親の顔だった。


「まったく、僕に頼ってくれるのははじめてじゃないか。これでも僕、お前の親父なんだぞ」


「ありがとう、父さん」


 ほころんだのか、泣いてるのかわからない俺の顔がバックミラーに映っていた。それを見て父さんはかすかに笑った。ああ、思いだした。渚月さんのピアノの話を聞いておぼろげに浮かんだ光景、あれは両親どちらもだ。カメラを持って虫を取って、すごいと褒められて抱えられていた。ついに俺は笑いが消えてしまった。どれほどの時間を無駄にしたのだろう。人をつっぱねて、ここまで来てしまった。どれほどの溝を深めただろう。


 実家に結衣奈さんはおらず、仕事へでているようだった。さすがに俺は安堵した。父さんは登山の支度を手伝ってくれた。三脚を持って荷物を置いて、身支度を整えた。いくつか足りないだろう装備は父さんに借りて、登山装備を一式揃えた。もらった香水のことを思いだして、身にまとった。プールオムとは趣向が違って、鏡などではない、原寸大の俺らしい気がした。車に乗りこむと、眼鏡をあげて目をこする父さんが玄関にでてきた。


「行ってきます、父さん」


「なあ祐。僕は母さんに反論できないから、いったって響かないかもしれないけれど。お前は、お前の思うままに生きろ。お前はあきらめるな。だれに遮られようと」


 父さんは手を振っていた。そういえば、俺の部屋にあるクローゼットの奥にドラムのセットが仕舞われているのを見たことがある。それが父さんの、本当にやりたいことだったのだろうか。俺は無言で笑って手を振り返した。


 沢渡さわたりまでは高速でずっと直線を走った。そういえば父さんとまともに話したのははじめてだった。父さんのことは誤解していた。無為むいにした時間で、どれほどの溝を深めただろう。もっと話して、向きあって、この溝を埋めたい。俺が無駄だと割りきって捨てた家族との時間を。父さんのくれた香りとともに、上高地かみこうちへと急いだ。


 そこから高速バスで三十分、上高地まで森のなかを走った。おなじような、緑と白の景色がひたすらに続いていた。俺は結露けつろをふいて、窓の外をながめた。外の景色がすべて息づいて見える。生活も、世界そのものも。かすれていることもまるで気にならない。その窓が生のレイヤーとして見せる世界なのだろう。


 着いたのは十時すぎだった。この地に立ち、凍てついた空気と厳めしい出で立ちの白銀の山々を前にした。ところどころ雲にかすみ、その張りつめた空気も相まってどこか幻想的にすら思えた。槍ヶ岳がそうかは聞いたことがないが、霊峰という言葉を使いたくなるのもよくわかる。山には穢れがない。その冷徹さがその証拠だ。穂先は手も届かないような高さにあった。俺の足は小さく震えていた。


「俺がやるんだ。やらなきゃいけないんだ」


 頬を張り、意を決して登りはじめた。しかしはじめは上り坂もほとんどなく、四方を山に囲まれた平坦な道を川沿いにすいすいとすすんでいった。距離そのものは長かったが足取りも軽く、帰ってからどう計画をすすめるかを考えた。他人に任せることが多いから、予測できない部分が多々ある。だからこそ、頼るべき人間、工程にかかる時間、それに俺自身の立ち回りなど、脳内の計画だけは入念にしておいた。


 その日は晴れていたが、白が痛いほどの雪景色だった。日曜日ではあったが人はまばらで、ごくたまにすれ違う程度だった。渚月といるときは忘れていたが、ひとりになったいま、人の視線が苦しい。ようやく人と関係を持つようになって、鏡のじぶんをぬけだせたと思ったのに、ここではまるで無意味だ。必死に築きあげたものを、こうも簡単に丸裸にするとは、どこまでも冷徹だ。


 すれ違ったあとに俺を振りかえり、嘲笑してはいないだろうか。ここまで来て、この穢れなき土地で、この堕落した俺はなにをしているのだろう。ほんのわずか浮かんだその考えのせいで、日差しすら冷たく感じた。

 

 横尾よこお山荘で休憩と軽食を取った。上には相変わらず、うず高い白銀がそびえている。もう十三時を回っていた。無味なふ菓子でも食べているようだったが、エネルギーを取らないわけにはいかない。足はまだ問題ない。天気も晴れすぎているくらいだ。


 軽食を飲みこみながらカメラを取りだして、昨日撮った渚月の写真をながめた。佐島で撮った彩雲をまとう月に海、最後に撮った輝く海を背にする彼女。光景がこみあげて、カメラを胸にぎゅっと抱いた。結局、あの手紙の返事がもらえていないままだ。それもちゃんと帰ってもらわなければいけない。俺は先を急いだ。


 山荘をでて、ようやくのぼり坂がはじまった。そこらの山と変わらない勾配だが、距離に慣れていない分、体力に懸念がある。行路こそそれなりに整っていたが、ときに滑りやすくなっていたり、木の根が張り巡らされていたりと、平地よりも体力を持っていかれる要因が多い。そういったリスクが伴うのが登山の醍醐味だいごみではあるのだが、いまはそんなものない方がありがたい。


 足元に気を取られながら歩き、ふと見あげると遠くに山の尖端せんたんが見えた。登りはじめたときとすこしも近づいていない。一層荷物の重さが増した。木々は寒空のなか、雪におおわれて寂しげに身を寄せていた。


 槍沢やりさわロッジについた頃には三時を回っていた。ちらほらと人が休んでいた。ここで一泊する人も多いが、そんな暇なんてない。先を急ぐしかない。休憩を挟まず、ロッジをよそ目にそそくさと歩をすすめた。視線が刺さる。あの男はまだ先にすすむつもりだろうか、馬鹿なやつめ、と笑う声が聞こえる気がする。ここから先、道はもっと険しくなる。腹に力をこめろ、塩崎祐。


 道がほとんど雪におおわれはじめた。アイゼンをつけているとき、天気が怪しくなりはじめた。山の天気は移ろいやすい。高尾山のときを思いだして、足取りが重くなった。かつて辟易へきえきしたというだけで重くなるなど、馬鹿馬鹿しい。跳ねのけてすすんでやる。


 景色はというと、白が凹凸をもって視界を埋めていた。もうとっくに高い木々はなくなって、雪に埋もれたハイマツだけがわずかな緑だった。恐怖の白。じいちゃんの白。ああ、俺はたったひとりだ。ここにはじいちゃんも渚月もいない。ざく、ざくと雪を刻みながら歩く音が、単調につづいていた。


 山荘を出てから三時間は経っただろうか、足腰が悲鳴をあげはじめた。不安定な足元にこの機材の重さだ、予想はしていた。しかし、はやすぎる。それにどんどん急に、かつ雪が深くなっていく山道は無遠慮に体力を奪う。日はすでに傾きはじめ、雪の白に落ちる木々の影は濃かった。太陽は見えないが、夕焼けが空をおおった。あの日の夕焼けだ。俺のすべて、理想郷。倍は速く流れる雲は、橙に染まっていた。

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