第40話 blind

 暗い海の底にひとり溺れて浮かんでいるみたいに、真っ暗だった。なにもわからない。さっきまでなにをしていたのか。頭がぼやけて考えがまとまらない。


 そうだ、鎌倉で祐くんと一緒に歩いていて倒れたのだ。最低だ、信じられない。こうなることはわかっていたはずだ。それなのに無理をして、迷惑をかけた。申し訳なくて消えたくなる。祐くんにはまだ心臓のことは話せていないのに、先に結果を目の当たりにさせてしまった。


 でもわたしは生きているようだ。音だけは聞こえてくる。騒がしくて、リズムの整った機械の音が聞こえてくる。するとここは病院なのだろう。いつもの監獄に逆戻りだ。そんなことより祐くんがいるなら、謝らなくちゃいけない。そしてすべて、わたしの口から話さなくてはいけない。


 そこでわたしは、身体の異変に気がついた。目を開けている感覚も、意識が覚醒している感覚もある。手足の感覚はあるし、だれかの話す声も聞こえる。しかし視界だけが、目の前に広がらない。


「祐くん」


 周囲の慌てふためく声が聞こえる。わたしは世界にまだ存在しているらしい。


「渚月! ああ、渚月。よかった。目を覚ましたわよ!」


 じぶんの声は声になっていたのか、知るすべはなかった。声のする方に目を向けた。しかしどちらにいるのかわからず、手を握られてようやく把握した。


「お母さん? お母さんなの?」


 意識がはっきりしてきた。わたしは起きている。ベッドのうえで仰向けになっているみたいだ。あちらこちらから機械の音が聞こえてくる。おそらくお母さんのものであろう、だれかの手の温もりだけは感じられた。見えているはず、という奇妙な感覚に恐怖を覚えた。声の方に向いたつもりだったが、声の主は悟ったようだ。


「見えないの? ここにいるわ。手を握っている」


「見えないの。まっくらで、なにも。ねえ、怖いわ。わたしはどうなってるの?ここはどこ? わたしはちゃんと生きているの?」


「生きてるわよ、ちゃんと生きてる。ああ、本当によかった。わたしの息がとまるかと思ったわ」


 そしていまは北山大学病院のICUにいると聞いた。あれから一日経って、昼近くのようだ。


 視界はずっと真っ暗だった。なにも見えない、そこには茫漠ぼうばくたる闇が広がって、わたしはそこに沈んでいた。しかしあの人のためには、わたしは沈んでいてはいけない。


「わたし、色だけじゃなくて視力すら奪われちゃったんだ。生きていくのが大変だわ。杖をつかなくちゃ外もでられない」


 お母さんは涙声だったが、くすりと笑い優しく低い声でこう言った。


「どうしてそんなに軽い気持ちでいられるのよ。タフすぎるのも困っちゃうわ」


「わたしにはもう、どんな不幸も障壁しょうへきじゃないもの。祐くんは、いる?」


「それが、昨日の夜まではいたんだけれど。外に行ったと思ったらいなくなっちゃって」


 嘘。彼が、ここにいない。耳の奥が鳴って、手が震えた。またわたしは、こうやって失っていくのか。


「きっと、愛想つかせたのね」


 わたしはまた囚われる。無機質な鉄格子てつごうしで、ひとりもがくことになる。怖い、怖い。


「いいえ、逆。あなたのために、どこかへ行ってるみたい」


 わたしの、ために。


「そう、そうなのね」


 震えはすこしおさまった。しかし胸が燃えるように熱くなったあと、虚しい空間がそこにいるのを感じた。いままでは、こんなものはなかったはずなのに。


 日陽はいないようだった。外に行ってバイオリンを弾いているらしい。弟の弾くバイオリン、久しく聴いていなかった。カフェでよく弾いていた弟の姿が見える。退院してからも、ばたばたしていて弟とバイトがかぶらなかった。約束していたのに、聴かせてもらえなかった。残念でならないが、生きていればいつかは聴ける。


 なんて考えてみても、わたしはもう感じていた。こんな強がりは、いまじゃないと、死んでからではできない。


「僕のでしゃばるところではないですね。失礼しますよ」


 息があがった声がすこし離れて聞こえてきた。その声がわたしの胸を燃やした。ずっと抱いていたその感覚を、つらいと思わないのは何年ぶりだろう。声の主を引きとめたくて、身体を無理に起こそうとして引きとめた。


「一吹? ねぇ、一吹がいるのね。ちょっとふたりにしてもらえる?」


 お母さんに起きあがるのを諫められた。しかし、どうやっても身体は起こせなかった。力すら奪われてしまっていたらしい。


 一吹はためらいながらも椅子について、お母さんたちはじゃあ、と言って席を立った。息があがって、じぶんの居場所がどこだかよくわからなくなった。


「呼びとめてごめんなさい。来てくれてありがとう。会えてうれしいわ。でもごめんなさい、約束は守れそうにない」


「まさかこんなことになるなんて思わなかったよ。ご飯はまたいつかいけばいいさ、君のために誘ったんだ。僕はいつまでも待ってる」


 わたしは大きく息を吸った。重くて、生々しい空気だった。一吹も言葉を失っていたようだった。わたしたちが出会ったときも、こんなだった。帰り道、駅まで歩いているとき。重苦しくて、無音だった。決心して、言葉をつむいだ。


「わたし、すごく考えたの。この何週間かかけて、わたしたちの関係をどうするべきなのかって。その食事のときには、いえる準備はしておかなくちゃって、台詞を考えておいたの。でもいまのうちにいわなくちゃ」


 一吹の手の温もりが、わたしの手に触れた。熱を帯び、溶けてしまいそうな感触だった。背の割に小さい、器用な手だ。


「わたし、ずうっと一吹のことを愛してきた。いまでもそれは変わっていないわ。愛おしい、わたしの大切な人。でも変わっていないからこそ、それはいけないことなの。祐くんと出会ってわたしは、いえ、わたしたちは意思を問いつめてきた。意思が変わらなくちゃ、進歩はない。進歩がなければ、変化もない。わたしは思考停止していたわ。意思を持たず、のうのうと生きていた。いまこそ、わたしはまっすぐと山頂を目指す蝶になる。いや、ならなきゃいけないの。わたしの幸福はだれかに依存することじゃない。だれかのために生きることなのよ。だれかのあとをついていく、そんな生き方でも、だれかがきっとうしろからつづくの。それは依存のようで、全然違う。わたしの通った道が、だれかの道になるの」


 息があがった。冷たい血が巡るまで時間はかかったが、優しい温もりはまだそこにあった。この言葉を、つむがなきゃ。わたしを終わらせるために。


「わたしは前にすすもうと思う。もしも先があるのなら、わたしはすすんでいたい。それがわたしのあり方、魂なんだわ」


 一吹はしばらく言葉を失った。きっと、この沈黙は彼の誠実さの時間だ。どこまでも優しくて、聡明そうめいだ。


「そうか。君の魂は美しいな。君のを半分、わけてほしいくらいだ」


「どうしていまになって、わたしに戻ってこようとしたの」


 しばらく沈黙し、病院のざわめきが流れた。そして彼は大笑いした。こういう彼は、照れ隠ししているだけだ。一吹の手から大笑いの震えが伝わってきて、思わずわたしも笑った。


「それを僕にいわせるのかい」


 息も絶え絶え、ひとしきり笑ったあとにわたしの手を握りしめた。言葉が喉につまっていた。


「一言でいうなら自責、かな」


「あなたが、じぶんを?」


「そう。完璧じゃないなんて思ってしまったことを、ずっと自責していた。病院実習で君に会えて、運命だと思った。だから、そうしたのさ。それだけだよ。恰好悪いだろ。忘れてくれ。僕にはもうなにもない。また白紙からやり直すさ」


 その声は濡れていた。温もりがするりとぬけていった。さきほどまでうるさかった環境の音が一瞬消えて、感覚が研ぎすまされた。かすかに一吹の香水が香った。わたしのすべて。わたしの苦しみ、わたしの怒り、わたしの愛、離れていってはかなく消えた。最後に手の甲に、彼の濡れた唇が触れた。


「ありがとう。病院であなたが楽しませてくれたこと、親切にしてくれたこと。そしてなにより愛してくれたこと、忘れない。その過去は決して白紙になんてならない。それがあなたなのよ」


「じゃあな、それと。ごめんな」


 立ちあがった音がする。


「いや、ありがとう、か」


 スニーカーのゴムらしい足音が遠くなっていく。この道を、じぶんで選んだ。それなのに、わたしの頬に涙が流れた。悲しくて、苦しくて、うれしくて、つらい。こんないり混じった感情は、心地よい過去にはなかった。これはとても大事な感情で、わたしに必要だった。祐くんが教えてくれた、すすむことだ。


 涙とともに、かつての日々が昇華されていくような気がした。ようやくわたしは、魂を持とうとしなかったわたしを終わらせることができた。一吹の足音が聞こえなくなるか否か、彼の号哭ごうこくが聞こえた気がした。手の温かさが、まだ消えずに残っていた。


 祐くんに会うまでは消えてはいけない。ようやく殻を壊したわたしで、なにも着飾らないまま彼の前に立ちたい。完璧さなんていらない。わたしのままのわたしで、会わなくてはいけないのだ。


 しかし、眼前に広がる闇に吸いこまれていくように、意識がうすらいでいった。わたしの真っ暗な世界には、機械のアラートだけが虚しく響いていた。

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