第10話 desire

 わたしは、いつになったら満たされるのだろう。SNSで人気になろうと、彼氏がぬきんでていようと、心のどこかではなにかを求めている。祐に手をだしたのはそういうことだ。満たされないものを満たそうとするのは、人間としてナチュラルだ。むかしの男の方がよかったなんてことはよくあるけど、わたしの場合は情欲のことだけ。


 土曜の夜、一吹とわたしたちは町田に集まった。実習のねぎらいという意味をこめて、一吹のために計画した。一吹たちはまだ実習が残っているが、彼らはよろこんでくれた。病院実習は本当につらい。立場も曖昧あいまいで、知識もない。気をぬけば失礼だとしかられる。


 きょうの面子四人はいつも一緒にいる、いわゆるイツメン。皆│山岳部さんがくぶで、気心も知れている。だからきょうも、盛りあがって話題が途絶えることはなかった。


「いやあ、実習は疲れたな。まったく。頭より身体が疲れるんだよね。あ、ライター。ほら」


 一吹が繊細ですらりとした手で差しだしてくれた。グラスを見ると、いつもより酒がすすんでいない。その代わり舌はよく回っていた。


「そうね。立っているのも楽じゃないわ。でも先生はそんなの知ったこっちゃない顔だし。このCTはどうだと思うとか、いわれてもわからないっつーの」


 きょうはよく酒がすすんだ。この面子だと女らしさなんてどうでもいいから、飲みすぎたって別にいい。


「まったくな。診断の知識も全然だめなのに、できるわけない。むずすぎ。俺なんてほとんど寝かけてたぞ。特に昼すぎたあと。それで夕方になると、きょうは酒買って帰ろうとか、つまみはなににしようとか考えるわけだよ」


 肩幅の広い老け顔の坂下くんが、居酒屋のざわつきも吹き飛ぶくらい、よく突きぬける声で笑った。


「君は酒のことしか考えていないな、坂下。おじさんは違うね、やっぱり」


「そういうことだ、一吹はよくわかってる。三浪もすれば酒に頼りたくもなるってもんよ」


 はっはっはと豪快ごうかいに笑っていた。角刈り頭におちょこがよく似あっている。


「俺は別にそんなことないぞ、坂下。健全に生きてきたからな。健全に。医者の卵たるもの、そういうところから気をつけなくっちゃあな」


「酔っぱらったら一番たちが悪いのはあんたよ野島くん。いっつもなにも覚えていないでしょ。大変なのよ、あんたの介護」


「覚えていないから仕方がないよな、うん。仕方がないんだよ。俺は歯どめがきかないんだ」


 小柄で太った野島くんは照れて可愛く笑った。


「そういや今度の登山、どこへ行くんだっけか。このおっさんに行けるかいね」


 坂下くんが熱燗あつかんを空にしながらいった。


「奥多摩だよ。もう紅葉はないけれど、それがなくてもきっと綺麗に違いない。颯紀も一緒に行かないか?」


 一吹に誘われるのはいつものことだ。最近は断ってばかりだった。なんとなく気が引けて、行く気になれなかった。


「ああ、そうなんだ。わたし、どうしよ。久しぶりに行ってみるかな」


「SNSにアップするネタにもなるんじゃないの。あれだよあれ、映えってやつ」


 酔った坂下くんは、話し方がなぜかおやじ臭くなる。それでも酒を流しこむペースは衰えなかった。


「よくあんなに人気になれるよな。どうしてそんなに注目されるんだよ」


「そのための努力をしているからよ。じぶんの価値を決めるのはわたししかいないでしょ。わたしが努力しなくちゃ、だれもわたしに価値を見出さない。もしだれかがじぶんの価値を決めてくれると思ってるなら、それは甘え。だれかに価値の決定を委ねて一喜一憂いっきいちゆうするのは愚かでしょ」


「でもさ、楽しいの、それ。俺にはどうも面白さがわかんねえや」


「そうね、別に楽しくなんてないわ。楽しいのってだいたい高校生までじゃないかな。わたしは、なんだろ、責任がある気がする。持っているものだから、それを振るわなくちゃ。能あるたかは、なんてクソよ」


「さすが、我らの姐さんはいうことがちげえや」


 野島が人のよさそうな赤ら顔で笑った。わたしは鼻が高かった。そこらの人間とは違う、わたしは強い人間なんだ。


「わたし、思うのよ。何事も望めば手にはいる。手にはいらないのは、望まないからだって」


 居酒屋からでて皆気分が高揚していた。そのままの温度でダーツへ流れこんだ。ダーツは好きだ。まるで狩りみたいに獲物をねらって、とらえる。わたしはずっとそう生きてきた。そうしてつかまえた男は数えるのも面倒だ。


 坂下くんは意気揚々と店にはいって、なんの遠慮もなく大声で笑っていた。ふと、一吹の様子にすこし違和感を覚えた。笑顔がすくない。体調でも悪いのかな。


 いつもはゼロワンだけど、一吹の提案で、チーム戦のクリケットをやることになった。


「さて、トップバッターはわたしね」


 わたしの一投目に二十のトリプル、二投目は十八のダブルに当たった。よしよし。したり顔で袖をまくった。三投目は十七のシングルに刺さった。惜しい。でも悪くはない。これだ、このスリルだ。わたしはにやりと笑った。


「おっと、いい感じだな。頼りがいあるぜ、姐さん」


 同チームの野島くんが続いて投げ、これもかなりいいところに刺さった。次は一吹の番だけれど、大丈夫だろうか。


 一吹の番になるとふらつきながら立ちあがって、なにもいわずに投げた。一投目はまず的にすらあたらなかった。二投目はかろうじて八、三投目は十五にあたった。一吹がシングルにしかあてられない、なんておかしいにもほどがある。そのふらつきは酒のせいにも見え、飲みすぎだぞと坂下くんはいった。でも一吹はほとんど飲んでいなかったのを、わたしは見ていた。


「一吹、さては体調でも悪いな。腕が鈍いぞ。きょうは俺がいただきだ」


 こっちチームの野島くんはあおったが、一吹は見向きもせずじぶんのダーツを手いれしていた。ぴん、と空気が張りつめた。感じ取ったのはわたしだけかもしれないが、機嫌でも悪いのかとはらはらしてしまう。


「そんなこといって、痛い目見るのはお前だぜ。一吹が黙っちゃいない」


 坂下くんが代わっていい返した。一吹はようやく我に返ったかのようにはっとして、笑顔を見せた。


「任せといてくれ。勝つぞ、坂下」


 わたしはほっと息をついた。やっと軽口のひとつもいえる。


「きょうは一吹に勝てるかもしれないわね。野島くんに勝ちを献上するわよ」


 そのあとも一吹は調子が悪かった。反してわたしは、いままでにないくらい絶好調だった。ゲームは最初のまま流れていった。彼の額からは汗が噴きでていた。狙えば狙うほどに、的から外れていくようだった。しかし、さっき取り戻した笑顔を崩さなかった。


 正直もう帰るべきだ。でも一吹の顔はいままで見たことないくらい真剣だった。


「どうしたんだよ一吹。顔色も悪い気がするし、本当に大丈夫か?」


 ようやく変だと思いはじめた坂下くんは、一吹の額に手を当てた。


「すごく熱いぞ」


「ああ、平気さ。このゲームだけは勝たなくてはね。絶対に」


 笑顔のままなのが、逆に不気味だ。


「ちょっと一吹、もういいじゃない。まだ実習残ってるんでしょ。いま無理してもしょうがない。また今度にしようよ。別にいつだって来れるんだから」


 ダーツ盤の前にいる一吹をさえぎった。彼はふらついて、わたしにしがみついた。それでもわたしをどけて、線に立った。


「いや、勝ちたいんだ。勝たなくちゃならないんだ。僕は負けるわけにはいかないんだ。絶対に」


 投げたダーツは、わたしたちの陣地をすべて潰すように刺さっていった。その三投のルーチンがあまりに無駄がなく理想的だったから、わたしは恐ろしくなった。なにがこの人をこれほど執着させているのかわからなかった。


「どうしたんだよ。きょう本当におかしいぞ一吹。手が震えてないか」


「別にそんなことはないさ。絶好調だろ」


 もはや一吹は座らなかった。一度座ればもう立ちあがることができないからだろう。


 もう残された陣地はブルだけだった。わたしと野島くんは前半の勢いを失い、一投として狙いどおりにいかなかった。そして一吹の番が回ってきた。


「さ、もう終わりだ」


 一吹の最後の三投は恐ろしいことに、すべてダブルブルに刺さった。坂下くんは酔った声で喜んで、一吹に抱きついた。二十ターンが終わって結果を見ると、結局一吹たちの勝利だった。しかし一吹はもはや、立っているのがやっとだった。机がなければ倒れてしまうような立ち方で、ずっと頭を押さえていた。


「おい、これはもうきついだろ。姐さん、送ってってくれるか?」


 坂下くんはまだ一吹にくっついていたが、野島くんはまともに心配してくれた。


「はなからそのつもり。こんな人を放っておけるわけないじゃない」


 そういいながら祐へ連絡した。一吹がこんな調子じゃ泊まれない。


『あとで行くから』


 そう送ると、トークの履歴をすぐに消した。そしてわたしたちはダーツから引きあげ、町田駅のモニュメントで解散した。野島くんと坂下くんは横浜線よこはませんだった。わたしは一吹に肩を貸しながら、小田急線おだきゅうせんの方へと向かった。


 ふらふらの一吹を支えるのは苦痛ではないが、一苦労だった。家に着くなり、一吹は布団に倒れこんだ。一瞬、最悪の想像をしたが、ちゃんと息はあった。だが顔から大量に汗が吹きでて、さきほどより蒼白だった。とにかく水を飲ませ、冷え切った部屋を温めた。落ちつくまでゆうに一時間はかかった。


「さ、ゆっくり寝てて。どうしてあんなにむきになってたのよ。らしくもない」


「僕らしさなんて、どうでもいいじゃないか。そんなものはくそ食らえだ。勝たなくちゃいけなかったんだ。それだけだよ。ごめんな颯紀。ありがとう」


「いいよ。じゃあ、帰るわね。邪魔でしょ」


 寝ている一吹にキスをして、部屋から去った。まつ毛が長くて、整った唇。ああ、愛おしい人。やっぱりわたしには一吹しかいない。だれから見たって最高の男だ。


 さて、これからはデザートだ。本当は一吹の家に泊まるつもりだったのに、こんなことになったから仕方がない。ここから祐の家は遠いけれど。でもこれからの時間を、すこし楽しみにしているわたしがいる。やっぱりベッドのうえでだけは、祐が好きだ。


 向かっている途中、大学近くのコンビニが目にはいり、すこし寄って煙草に火をつけた。じい、と音を立てて燃えていく。セブンスターの重い煙がのしかかる。これがわたしらしさ。そう、わたしは強い人種なんだ。むかしの貴族がそうしていたように、こうやって毅然きぜんと煙草を味わう。この瞬間が一番の至福だ。それに酔ったときの煙草はとびきりおいしいし、酔いを覚ましてくれる。

 

 ぎい、と祐の家の扉を開けた。祐の香水がほんのり香る。満たされないわたしの部分が、疼いてたまらなくなる。身体が熱い。もう戻れない。これからの時間は、きっとすごいものになる。

「欲望を満たすことが、女を美しくする。そう思わない、祐」



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