第11話 cold

 大学での友人が好きになれないことはよくある。大学は様々な土地から人が集まる。それで気があう人間を探す方が難しい。もちろん社会性も育ってきて、仲よくできない相手はすくない。それでも、隼のような親友を見つけるのは無理だろう。じぶんが彼らにそうするように、ただ無関心でいてほしかった。


 月曜日、この日は五限までだった。六時前、誘われるがままに食堂へ着いて行った。この時間になるともう人混みは落ち着いている。昼には食券機の前に行列ができるからこの食堂は苦手だ。ただデザインとしてはガラス張りで、日がよくはいってくるから落ちつける。


「この前さ、ひとり旅、行ってきたんだよ。ひとり旅」


 前川まえかわが仰々しく口を開いた。自慢が得意なうとまれ者だ。うえから目線で、羨望せんぼうを浴びないと不機嫌になる、つり目で、にきび跡がひどい男だった。


「うん、うん。それで、どこに行ったんだい?」


 こう相槌を打ったのは柳沢やなぎさわだ。学科のなかでミスタ・バブルヘッドと呼ばれている。アメリカの、首が揺れるおもちゃだ。相槌と山びこしかしない、退屈な人間だ。話すことはありきたりで興味引かれず、それも他人の引用ばかりだ。


「香港だよ、二泊三日でな。金曜さぼったのはそのせい。最高だったよ、まったく。中国四千年の歴史っていうけれど、それを味わってきた気がする。お前たちにも写真見せてやるよ。まあ直にみる方が千倍も壮大で美しかったと思うがなあ」


 前川はもったいぶって、ゆっくりと話していた。にきびをいじりながらスマートフォンを手に取り、写真を探しはじめた。この男には優越感ゆうえつかんに浸ること以外で満足する方法はないみたいだ。まるで颯紀さきのようだ。腹立たしい。じぶんの満足に他人を巻きこむなといってやりたい。


「香港って英国の植民地だっただろ。さぞ英国文化は堪能できただろうな」


 口をついてでた皮肉だった。無関心がつのると苛立ちになり、皮肉になる。そんなじぶんが馬鹿らしい。


 もうひとりの男、神原は大声の引き笑いでのけぞった。彼の不愉快を呼ぶ引き笑いは、どんなにつまらない冗談でも拡声器を通したかのように大きかった。皆からはミスタ・サイレンと呼ばれている。もちろん否定的な意味でだ。


 前川は慇懃いんぎんに笑ってスマートフォンを机に置いた。嬉々として他のふたりはのぞきこんだ。


「さ、これだ。どうだ、この大仏とか。この大きさは直に見ないとわからないだろうなあ。宝蓮禅寺だったかな。きっとこの大きさの大仏なんて、日本にはないんじゃないか。町並みもオリエンタルな趣のある街でさあ。ぜひ一度は行ってみてほしいなあ」


「うん、うん。羨ましいなあ、香港。オリエンタルな雰囲気、僕も味わってみたいよ」


 柳沢は律儀に羨望を向けた。彼がいることで、この集団は成り立っている。どうせ一週間後には、どこに行ったのかも覚えていないに違いない。




 そのとき電話が鳴った。母だ。げんなりする。でないでおいたときの、かつてない怒りはもう味わいたくない。ため息をつき席を立って、食堂の外にでた。


「きょう口座に振りこんでおいたから」


 事務的なトーンだった。きっと仕事帰りなのだろう。そういうときにする鋭い目つきを思い出す。


「ああ、そうか」


「それで、成績表届いたんだけど。なにこれ、ひどい体たらくね。可ばかりじゃない。あんたのことだから、どうせちゃんと勉強なんてしていないんでしょうね。困るのはあんたなのよ。ちゃんとわかってんの? わたしには関係ないんだから、心配なんてさせないで」


 そんなくだらないことか。窓の外で、バスが人を運んでいく。一般的で、均一で、ろくでもない人ばかりだ。


「別に単位落としてないんだから問題ないだろ。卒業さえできれば、あんたにはなんの関係もない。いちいち口だしすんな」


「なにが関係ない、よ。学費払ってるのはだれ。だいたい将来困るのはあんたでしょうが。ちゃんと勉強しろ。ああ、どうしてお父さんみたいに真面目に勉強できないのかしら。それで、写真なんてまだつづけているわけないわよねえ。あれのせいであんたは勉強しなくなったんだから」


「あんたが再三いうからやめたよ。いいたいことはそれだけか」


「いいえ。まだ居酒屋なんかでバイトしているんでしょう。やめなさいよ、そんなバイトしてるから勉強がおろそかになるの。わかった?」


 怒鳴ってやろうかと思った。でもそれも無駄だ。中学のとき、それでさらに不況を買った。代わりに壁を蹴った。


「返事は」


「はいはい、いわれなくても四年になれば、病院実習でバイトなんて行けない。そもそも、別にだれにも、あんたにも迷惑かけてない。親ぶってああだこうだいうのはやめろ」


「そんな話するの、だったらあんたがそっちに行かなきゃよかったって、そうでしょう。迷惑ならさんざんかけられた。同級生ぶん殴って、居心地悪くなってそっちに逃げた。馬鹿いうのも大概にしろ」


 胸がむかむかした。食べたカレーがでてきそうだ。


祐吾ゆうごさんは」


「いまのところは元気。ただ家に帰れるのはまだ先。せめて介護できる人がいれば、よかったがな」


「知らないわよ、そんなの。あの人が勝手にそちらに移り住んで、勝手に倒れて、勝手に死んでいこうがなんだろうが、知ったことじゃないわ。あんたが面倒みたらいいじゃないの。わたしには関係ないわよ」


 当てこすりなんて倍返しされるだけだ。どこまでも気に食わない。


「もういい、あんたのエゴにつきあいたくない。じゃあな」


「あ、待って。いい加減、部屋を綺麗にしたでしょうね。あんたの部屋には足の置き場がないもの……」


 電話を切った。これ以上話していたって時間の無駄だ。ちょうどあがってきたエレベーターの鏡に映ったじぶんの顔は、ずいぶんとしわが多く見えた。醜い、堕落した人間の顔だ。


 皆のもとに戻ったときまだ旅行の話をしていたが、もう食膳は片づけられていた。じぶんの食事だけは残されていて、とうに冷めきっていた。




 みじめな顔のまま、空気の冷えきった家に帰った。相変わらず、ここは堕落に染まっている。どうしてこうもうまくいかない。昨日だって颯紀が来た。くそったれだ。


 机に置いてある画集を開いて、ベッドに倒れた。印象派やポスト印象派のページが一際輝いて見え、いつもそこだけは時間をかけてながめてしまう。画家たちが歩んだ世界は、こんなかすんだ世界とはきっと違って、もっと色彩に満ちて、美しかったのだろう。


 目を閉じて想像する。ルノワールの立った社交場。モネの使っていたであろうサン・ラザール駅や日傘をさす女が立っていた草原。ゴッホのいたカフェテラス、アルルの景色。そこにじぶんが立つ。そしてカメラを持って、フレームをのぞきこむ。その構図、配色を考える。


 おかしい。そこから先が見えてこない。むかしはそれができたのに。フレームをのぞいて、考えて、じぶんはどうしたいのだろう。シャッターを切れないまま、景色はかすんでいく。やめてくれ、ここから追いださないでくれ。世界から迫害するな。


 冷や汗のなか目を開いた。いよいよもってだめだ。このかすんだ世界をなんとかしないと、きっとじぶんがじぶんをわからなくなる。かすんで、消えていくに違いない。自暴自棄になって自殺する前に、なんとかしないと。


 視界に広がっているのは、味気ない、かすんだ天井だった。堕落に染まり、穢れた天井だ。ベッドをぶん殴って、冷蔵庫の酒を飲んだ。結局、救ってくれるのは嗜好品だけだ。これで、なにも考えなくてすむ。じいちゃんの手が借りれないいま、これしかない。惨めさなんて、いまはどうでもいい。苦しいのだ。この胸が、堕落につまって、苦しくて仕方がないのだ。




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