第36話② moonlight
「祐くん、起きて。祐くん」
その声に目を覚ました。汗がにじんでいた。夕焼けが網膜に張りついて離れなかった。
熱と湿り気をおびた渚月さんが目の前にいた。風呂あがりで、ラフな寝巻きだった。わずかに、香水のトップノートが香っていた。プールオムじゃない。以前嗅いだことのある、爽やかでだれもが嫉妬するような香りだった。彼女らしい香りだ。上気して、思いだすどころではなかった。細長い、茶色がかった髪が、熱に揺らめいていた。
「もう月がでてるの。来て」
優しく手を引かれ、デッキにでた。波の静かな海が、月光とともに揺らいでいた。静の水だ。落ち着きのある、清心の水。噴水の水が映えなかった理由がようやくわかった。俺はどこかでこの水を求めていた。ただ静かに揺らめく、この水を。渚月さんはデッキの端に腰をおろし、俺はその隣に座った。彼女は座りなおして、もっと近くに座った。
水面に一筋の月の道が伸びていた。遠くに灯台が見え、一定のペースでこちらを照らしていた。右手に見える海岸線に、生活の光が並んでいた。しばらくふたりで言葉もなくながめた。雲がかかると、月の光を浴びて彩雲になった。鮮やかな月光は、風に流れて形が変わった。夜闇と月光とのモノトーンに、かすれた虹の輪が色を添えていた。
「彩雲だ」
「そうなの? 見てみたいなあ」
「今度、また絵にしよう。写真を撮っておくから」
シャッターの音だけが響いていた。触れそうで触れない、もどかしい距離だった。水面と彼女の髪がゆらり、ふわり、揺れている。
「両親もむかし、ここに来たことがあるの。それで結婚を決意したんだって。だからわたしの名前が渚月なの」
月に照らされる彼女の横顔は、どこか希望に満ちており、強くなにかを望んでいた。俺は暗闇に浮かぶ月とその道を、じっと見つめた。
「月の道、綺麗だ」
人生は
「写真、撮らないの」
「まだもうすこしだけ、こうしていたい。ほら、上着」
俺ですら冷えてきたのに、細身の彼女は薄着では寒いのだろう。すこし震えていた彼女に上着を差しだした。
「大丈夫よ、平気」
「そういう強がりが渚月さんの悪い癖。ほらな、手も冷たい」
上着をかけ、手を握った。細くなめらかな、レースの手だった。心臓が張り裂けてしまいそうだった。月が、なおさらに明るく映った。
「祐くんの手は暖かいのね、いつも」
「心が冷たいんだろ」
「馬鹿ね」
彼女の手の冷たさがなじむまで、海をながめていた。侵食してくるその手の冷たさが、愛おしかった。
まずは月の道を撮りはじめた。ただ揺れ動く海面で、被写体がなかなか定まらなかった。
悪戦苦闘していると、渚月さんがカメラの前にひょこっと顔をだした。突然現れた彼女とその仕草に、思わず噴きだしてしまった。
「こら」
とっつかまえようとしたが、くすくす笑いながらひらりと身をひるがえして、なかにはいっていった。
それから思いつくアイデアはすべて試した。海岸沿いに立ち並ぶ家の光を撮ったり、遠くの島を撮ってみたりした。悪くない。すくなくとも最近のなかでは、間違いなくトップレベルだ。
撮り終わる前に、渚月さんのピアノが聞こえてきた。この曲は知っている、ベートーベンのどれかだ。そして俺もなかにはいった。
電気はついていなかった。はじめは勘を取り戻すように弾き、次第に慣れた動きになっていった。目を瞑りながら弾く彼女は、ピアノと精神を調律しているかのようだった。弾き終わり、一息ついた。さきほどの写真を手に、声をかけようかと思っていた。
はじめの一音を弾いただけで、空気が変わった。糸のように張りつめた、しかし穏やかな渚月さんの雰囲気に包まれた。銀のような月の光が、窓の向こうから注いでいた。俺は息をのんだ。ゆっくりとはじまったその曲は優しくて、どこか懐かしかった。心地のよい抑揚と、滑らかな指の動きが、認識をゆがませる。これは、ピアノか。それとも渚月さんそのものの音だろうか。
「曲名は」
「ドビュッシー、ベルガマスク組曲第三曲、月の光」
ひらり、ひらりと演奏は流れていく。耳障りのいい淑やかな音に包まれていく。
さきほどのいたずら娘とはまるで別人だ。そんな服は着ていないのに、月明かりのせいで、まるで十九世紀のドレスでも纏っているかのようだ。そう、白のドレスだ。首まであって、長手袋をつけている。髪には白い椿の花が飾ってある。気品があった。月に照らされ、輪郭がぼやけていた。色のない彼女は気高くて、それ故にもろかった。意識のなかで簡単に溶けて、消えてしまいそうだった。
曲調が緩やかになる部分で、渚月さんはこちらを向いて微笑んだ。銀の光を背にまとった彼女は、レースのように透きとおっていた。美しさのせいか、素晴らしい演奏のせいか、とにかく涙があふれた。まるで俺のかすんだレンズを洗い落とすようだった。
涙の流れるまま、呆然としていた。もう終わりそうなときに、カメラをゆっくりかまえた。彼女から一秒でも目をそらすのがいやだったが、ファインダーをのぞいて彼女をおさめた。月に照らされシルエットとなり、月の道を背にした彼女が、漆塗りのようなピアノを弾いている。俺がこの人を幸せにしないと、きっとじいちゃんにも怒られてしまう。頬は血の生温さではなくて、涙の熱さで燃えていた。
「どうして泣いているのよ」
「人が泣くのは、悲しいときか感動したときだろ」
ピアノから立ちあがって、そっと渚月さんが俺を抱きしめた。渚月さんは細くて、冷たくて、すべてを包みこむような優しさがあった。細い髪一本一本が、月の光に照らされて輝いていた。
「寝ましょう。明日ははやいわ」
翌朝七時に、慎一さんが迎えに来た。起きたのがぎりぎりで、簡単な朝ご飯を食べ、コーヒーを流しこんだ。渚月さんは先に起きていて、すでに支度を終えていた。俺のコーヒーを奪って飲んで、苦いといって押し返した。その猫みたいな仕草が面白かった。昨日の渚月さんが嘘のようだった。
「朝はやくなってしまって申し訳ない。ふたりともずいぶん眠そうだが、大丈夫か」
「ふたりとも、元からこんな顔よ」
車に乗りこんだ。相変わらず芳香剤の強い香りだ。
朝日に照らされる海を横目に走った。朝特有の橙色の光に煌めく海を見て、昨晩の月と海を思いだした。渚月さんの方を見ると、彼女も海の方を見ていたから目があって、ふたりとも笑った。
「紫苑のことはわかったか」
渚月さんが説明した。しかし、慎一さんは紫苑さんの兄だ。彼の言葉にはどこか違和感を覚えた。
「そうか。どうして突然、紫苑のことを調べはじめたんだ。お母さんがなにか言っていたのか」
「いいえ。どういったらいいのかしら」
「
「じいちゃんを知っていたんですか」
俺は声をあげてしまった。まさか、ここにも繋がりがあるとは。慎一さんはああ、と言って当時のことを話しだした。内容はこうだ。じいちゃんと紫苑さんが結婚するという話になったとき、家族会議になった。家族としては、じいちゃんの外交官という仕事、また家柄の差を深く
「それで結局、紫苑は家をでていったね。家柄なんて無意味だ、大事なのは人間そのものだ、っていって。まったくそのとおりだと思うよ」
そして彼は、家が
「おじいちゃんは、紫苑さんの日記を読んだ?」
「いや、読めなかった。読みたくなかったわけじゃない、むしろそうしたかったが、読めなかったんだ」
渚月さんはじいちゃんと紫苑さんの写真をながめてこう言った。
「どうして。無くしてたの」
「そんなことはないさ、整理したのはわたしだから。でもわたしには家族を説得できたかもしれない、紫苑が事故にあう原因を作らなくて済んだかもしれないと思うとね。わたしのせいで紫苑が死んだんじゃないのかと、思わずにいられなかった」
「そんなことない。聞く限り、紫苑さんが望んだことじゃないの。おじいちゃんがそんな罪悪感を背負う必要なんてないでしょう」
「理屈じゃわかっているさ。それでも割り切れないものなんだ。人間とは、なんとも愚かなものだ」
家族の話に口をだせなかったが、途切れたところでこういった。
「じいちゃんが、迷惑をかけたんですね」
「そんなことは建前でもいってはいけないな。そこはふたりの問題だよ。わたしたちはどうこう語る口を持っていないんだから」
「でもきっと家は混乱したでしょう。零落した理由だってじいちゃんの」
「それは考えすぎだよ。家はわたしが途絶えさせたんだ。わたしが愚かだっただけだよ」
慎一さんは声を大きくした。きっと
かすかな罪の意識を感じたが、渚月さんの顔を見て考えなおした。罪とは縛りつけてしまうもの、無意味だ。俺がするべきは、じいちゃんの罪をつぐなうことではなくて、そういう人たちの残したものを背負うことだ。これから先、俺がどれだけ生きるかはわからない。でもその間だけは、それを背負っていこう。海を照らす太陽の輝きが、すこし鮮明に見えたような気がした。
「じゃあ、色々ありがとうね。深く感謝しますわ。お仕事もがんばってね」
駅につき、車を降りた。渚月さんが運転席の外から挨拶した。
「内容は、読んだら伝えた方がいいかしら」
「お願いするよ。いってらっしゃい」
渚月さんが慎一さんに挨拶して、俺もそれに倣った。彼女が駅に向かったあと、俺だけ呼びとめられた。
「さっきはすまなかった、きついいい方になったね」
「いいんです。俺が
「君はおじいちゃんが好きだったか」
「ええ、もちろん」
彼は言葉を探していた。ハンドルをにぎる手をしきりに揉んでいた。
「君を見ていると危なっかしい。いいか、君はじぶんの道を歩くんだ。だれにも左右されない、自由な意思を持つんだ」
「すみません、意味がよく」
慎一さんはいい淀んで濁そうとした。しかし
「知らないようだから、伝えなくてはいけないね。わたしもそう長くないから。本多くんは過去になんども自殺しようとしていた。そのときの彼に、君はよく似ている。情熱は薄いが、ふとしたときに輝くときがある。それはまるで薄い氷のように危ないんだ。だから本多くんや渚月に左右されない自由な心を持っていてほしい。もちろん、その結果死を選ぶのならだれも止めはしない。だがね、自由意志で選択したものにしか、意味はないんだよ。わたしは家が落ちぶれるまでそれに気がつかなかった。君にはそれを知っておいてほしい。引き留めて悪かった。渚月をよろしく頼む」
そして彼は渚月さんに手を振り、去って行った。
「だれにも左右されない、自由な意思」
渚月さんを愛すると決めたのも自由意志。そう、これから先ずっと愛すると決めた。
だが、だれにも左右されない自由意志というものがなんであるのか。それはおそらくみずからの根源から湧きでるような意思のことだ。いま俺の根源から湧きでるのは、渚月さんへの愛と写真を撮りたいという意思だ。渚月さんに左右されないことといえば、写真のことだろう。それを強く持つことが、彼のいわんとしたことなのだろうか。心が霧がかったまま、待っている渚月さんのところに戻った。
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