第19話① corruption

 神奈川に帰って、休む間もなくじいちゃんの遺品いひん整理に取りかかった。ここは古本の匂いに満ちている。その匂いのせいで胸がいっぱいになった。もう退去の手つづきは済ませて、あとは準備をするだけだ。マンション暮らしの彼の持ち物はすくない。特に扱いに困ったのは、大きな木造りの本棚に敷きつめられた小説、それにマホガニーの机くらいだった。以前にじぶんが来て、整理したままの、しゃれていて小綺麗な部屋だった。


 片づけられた部屋の真んなかでひとりぽつんと立った。空白だ。いまだにその死を、信じられていない。だれが死んでくれと頼んだ。まだ教わりたいこと、教わらなくちゃいけないことはたくさんある。ディケンズはまだ一度も読んだことがない。漱石だって全然だ。それに白鯨も。冗談のつもりだったのに、墓の前で感想戦をしなくちゃいけなくなったじゃないか。


 病院からの荷物が届いた。段ボールのなかに数冊の本が並んでいた。本そのものが特別なわけではない。本に付随する意味が特別なのだ。本は所有者を失った。なのに本だけは不変だ。そのなかに、取ろうとしてとめられた本、白痴があった。実家に送って結衣奈さんの手元にあるより、じぶんが持っている方がましだ。段ボールではなく鞄にしまった。


 心には、虚無という形があるみたいだった。例えるならマーク・ロスコの絵のように深く、厚く。じいちゃんの死から葬式まで、慌ただしさのなかでも多くの感情に揺り動いたせいだ。


 目先には試験が迫っていた。疲れが心を不感症にしていたのだろう。大学の図書館に行って勉強した。ゾンビかなにかのように、単位を落とさないように。


 朝に大学へ行って、味もしない飯を食べて、夜に帰宅する。まんじりともせず夜をすごす。退廃たいはいの泥に汚れた天井をながめて、死者のようなじぶんの顔を思い描いていた。また、時計と夕焼けのことを考えたり、桐嶋さんの瞳を思いだしたりした。あの夕焼けと、彼女の瞳の色がイメージのなかで重なった。美しい、命が燃えるような瞳だ。


 颯紀さきのことはなるべく考えないようにしたが、こびりついて離れない時間もあった。そのときは目が冴え、胸を掻きむしって、ベッドのうえで悶えた。


 この目は生者を映さず死人を映していた。じいちゃんが点滴を引きぬいたときと、実家で手に触れたときの映像が、無限に再生されていた。生活のありとあらゆる光景が、すべてそれらの映像と結びつけられていく。ふとしたときに生々しくフラッシュバックし、そのたびに感覚が削られ色がかすんでいった。もはや起きがけのかすみなんて具合ではない。朦朧もうろうとしているときのそれだ。これは生きているのだろうか。もしくは死んでいるのか。夕焼けのなかに、半透明のじぶんを置いてきたらしい。

 

 戻って三日目になったかもしれない。ああ、気が狂いそうだ。頭痛もひどい、逃げてしまいたい。腐った血を、抉りだしてしまいたい。なぜ勉強をしなくてはならないのか。母のいいつけだから、皆がそうだから、プライドが許さないから、再試代を払いたくないから。そのすべてがくだらない。無為に時間を費やすだけだ。なにもかもクソだ。


 電車でふらり町田にでた。救いか、なにかがほしい。その居酒屋にひとりで行ったことなどない。それなのに、そこならきっと救ってくれる気がするのだ。酒を飲めば考える力もなくなって、よく眠れるはずだ。あるいは、かつて一吹さんと、なんの憂いもなかったあのときによく来た場所だからか。


 様々な人から連絡が来ていたが、ほとんど見なかった。隼に『居酒屋』とだけ返事をして、あとは無視した。


 店内は暗く煙草の煙で灰色がかっていた。丸いテーブルが狭い間隔かんかくで置かれているが客はすくなく、散り散りに座っていた。退廃的たいはいてきだ。でも、それでいい。それがいい。


「俺には、それが似つかわしいだろ。半分死んだようなもんだ」


 ここはとにかく安く沢山飲める。強いカクテルを、なにも考えられなくなって、手の感覚がなくなるまで、いくつも流しこんだ。


 ずっと遅くまで飲んでは昼すぎに起き、夕方には居酒屋に繰りだした。それが一週間つづいた。二三回、大学にも行った。そこには以前とは違う、まぶしい虚ろさがあった。ひどい頭痛だった。


 瞬く間に試験がはじまった。出席もして回答もした。でも、意思を持って解いていたわけではなかった。朦朧もうろうとした目で見て、手が機械じかけのように勝手に動いていた。


 見るに堪えなくなったのだろう、試験終わりにミスタ・バブルヘッドが話しかけてきた。いつもの彼らしくない、真面目な顔だった。かすんだ視界のなか、彼は俺の席に寄ってきた。


「ねえ祐、大丈夫? 目がやばいよ」


「大丈夫に見えるか? もし心配したいのなら、俺のためにうしろを向いてみてくれ。なあ、なにが見える」


「え、廊下だけど」


「正解だ。では、よい一日を」


 無感情に、あるいは嘲笑ちょうしょうをこめてそういった。彼は顔を真っ赤にして、足早にでていった。他の人もしんとして、そのうちにひそひそ話をはじめた。おおむねこの馬鹿を嘲笑しているのだろう。それはそれでいいさ、ふさわしいのだから。


「おい、祐。それはないんじゃないか。いまのは最低のクズだぞ」


 サイレンと前川が俺に寄ってきて、話しかけた。彼らも深刻そうな顔をしていた。友人を馬鹿にされて腹を立てているのだろう。どうせたいした仲でもないのに殊勝な心がけだ。


「素晴らしい、大正解だ。愚鈍ぐどんな君たちがそれほど聡明そうめいだとは思わなかった。賞品は俺の嘲笑でいいか?」


 俺がいっている気がしなかった。すらすらと言葉が流れていく。中学のとき、言葉は稚拙ちせつにせよ、こんなことをいっていたような気がする。ああ、どこまで行っても過去がついてくる。あんなくだらない過去なぞなくなってしまえばいいのに。


「行こうぜ、サイレン。じゃあなクソ野郎」


 前川が足早にでていこうとした。しかしその言葉に従わず、サイレンは俺の前に立っていた。


「大変なら、皆を頼れよ。ぶきっちょだろ、お前」


 単にけなしているものだとしか思えなかった。俺はさっさと教室をでて、この身の向かうべきところへ向かった。


――――――――――――――――――――――


 バーではいつもおなじ人ばかりを見た。よれたスーツではげかけの会社員、ぼろぼろのジャケットで白髪の老人、それにでぶで着飾りすぎの女だ。三人はいつもいるのに離れて座り、互いに話したりはしなかった。あの人たちにはきっと、いうも苦しい過去がある。そこには堕落した人間特有の共感があり、哀れみがある。人生がいやなのだろう、わかるよ、といった具合なのだろう。


 どれだけの間酒に浸ったかわからなかった。おそらく八日目だ。ただ疲れ、空虚くうきょだった。その空虚を酒で満たした。


 夜に考えていたことがまたもぐるぐると回りはじめた。じいちゃんの最後、桐嶋さんの瞳、夕焼けの山。そして颯紀。あいつのせいで酒がよくすすむ。どうしてこうもみじめで、自堕落になった。あの夕焼けの時代はもっと無垢で気力豊かだったはずだ。そもそも、どうして颯紀と出会った。高校で写真部なんて選ばなきゃよかった。そもそも高校を長野にしていれば。なぜ、颯紀を愛してしまったのだろう。なぜ、颯紀を憎んだのだろう。あいつが堕落に縛りつけている。殺してしまいたい。あいつも、じぶん自身も。


 苛立ってグラスを叩きつけた。視界がぐらぐらし、座ってるのが苦しくなってきた。堕落だ。でも、すこし心地がいいのはなぜだ。


 突っ伏していると、颯紀の姿が目に浮かんだ。虚像なのか実像なのかはわからない。高校のときの、じぶんが愛した颯紀が浮かんで、こちらに微笑んでいる。それを見て身の毛がよだった。心の底から愛した人だ。愛情のすべてを注いだ人だ。背の低い、艶やかな髪の、愛らしい瞳の彼女だ。


 それがこちらに手を伸ばし、触ろうとしたときに像が揺れ、かすんだ。そして、いまの颯紀になった。思わず椅子から飛びのき、転んだ。


「来るんじゃねえ、殺すぞ」


 欲にまみれたいやしい笑顔で、頬に触れてきた。息があがった。もうあの頃の関係には、戻ってくれないのだろう。こいつはここで、この堕落の底で、殺してしまおう。


 と次の瞬間、椅子から飛び起きた。突っ伏したまま寝てしまっていた。気が狂いそうな頭痛だった。


 煙の向こうに、毎回ここにいた、白髪の老人が正面に立っていた。黒いシルクハットにタキシードだった。見慣れたジャケットではなかった。杖を腕にかけ、靴は黒く光っていた。手には葉巻を挟んでいた。


Bonsoir monseurこんばんは、ムッシュー! どうしたのだ、格好いいお兄さん。いや。友と呼ぶべきかな?」


 調子のいい声だった。肘をついていたのに、老人が揺れていた。かすんだ二重、三重の実像だった。朦朧もうろうとしてきた。


「関わらないのがここの掟じゃないのか」


「そんな決まりはない。ただ皆が皆、じぶんの殻に籠りたいだけだ」


 陽気な彼はハットを脱いで座った。背筋はすっと伸び、堂々と正面の杖に手を置いていた。


「用はなんだ。俺も例外ではないはずだろ」


「見ない若い顔が一週間もこんな場末にいたのだよ。興味が湧かないはずがない」


 葉巻を口に含んで、上品に吐きだした。


「話す気はない。もう疲れた」


「疲れた。はっはっは。その歳で疲れたか。友人が他人に無関心で助かった。話し相手がほしかったのでね。君は見たところ学生だね。ならなおさら聞いてほしいのだよ」


 返答も待たず、じいさんは話しはじめた。すこし吃音きつおんのある、調子のおかしい話し方だった。頭痛を収めようと煙草に火をつけた。ぶらさがった電灯の明かりを灰色の雲がおおって、演者の立つ劇場げきじょうのようにあたりが暗くなった。


「じじいの人生がいかに悲哀ひあいに満ちたものだったことか。じじいはなにもかも人に奪われ、いまや零落れいらくした。このじじいの話をとっくり聞いてくれ。さて、わたしの生い立ちから話そうじゃないか。生まれは東京、名家の息子だった。普通の家庭よりはいささか以上に裕福だった。そして名門の学校で真面目に生きてきたのだ。名門に通わせてくれる両親にいつも感謝していたものだ。毎日勉強したのだよ。それこそ気味が悪いくらいだと、いまになって思う。外を走り回っているのが、子供というものだろう。それが人の気に障っていじめられたが、それ以外に頑張れることがなかったのだよ。弁当が食べられる日は泣いて食べたのだよ。そうでない日は、周りからの嘲笑ちょうしょうの声に耐えれなかったから、どこへなりとも逃げていったものだよ。ああ、わたしは運動が大の苦手だったのでな。体育ではいやというほどしごかれたが、それにめげず頑張っていたのだ。成果はでなかったがね。高校生まではずっとそうだったのだ。運動は学校というヒエラルキーのなかでは重要だったから、じじいの階級かいきゅうはずっと低いままだった。でも勉強以外には、できることがなかったのだ。環境が変わろうと、人が変わろうと、世間はなにひとつ変わらなかったのだ。わかるだろう、いつだってうとまれる人は決まっている。わたしのような人か、あとは自己顕示欲じこけんじよくの塊の馬鹿だ。まったく、世間というのはどいつもこいつも馬鹿ばかりで困ってしまう。そして大学まで通ってようやく、栄光ある道を辿りはじめたのだよ。大手自動車メーカーに就職し、どんどんと登りつめたのだ。勉強ばかりしていたのが、ここでようやく花開いたのだ」


つづきます↓

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