第19話① corruption
神奈川に帰って、休む間もなくじいちゃんの
片づけられた部屋の真んなかでひとりぽつんと立った。空白だ。いまだにその死を、信じられていない。だれが死んでくれと頼んだ。まだ教わりたいこと、教わらなくちゃいけないことはたくさんある。ディケンズはまだ一度も読んだことがない。漱石だって全然だ。それに白鯨も。冗談のつもりだったのに、墓の前で感想戦をしなくちゃいけなくなったじゃないか。
病院からの荷物が届いた。段ボールのなかに数冊の本が並んでいた。本そのものが特別なわけではない。本に付随する意味が特別なのだ。本は所有者を失った。なのに本だけは不変だ。そのなかに、取ろうとしてとめられた本、白痴があった。実家に送って結衣奈さんの手元にあるより、じぶんが持っている方がましだ。段ボールではなく鞄にしまった。
心には、虚無という形があるみたいだった。例えるならマーク・ロスコの絵のように深く、厚く。じいちゃんの死から葬式まで、慌ただしさのなかでも多くの感情に揺り動いたせいだ。
目先には試験が迫っていた。疲れが心を不感症にしていたのだろう。大学の図書館に行って勉強した。ゾンビかなにかのように、単位を落とさないように。
朝に大学へ行って、味もしない飯を食べて、夜に帰宅する。まんじりともせず夜をすごす。
この目は生者を映さず死人を映していた。じいちゃんが点滴を引きぬいたときと、実家で手に触れたときの映像が、無限に再生されていた。生活のありとあらゆる光景が、すべてそれらの映像と結びつけられていく。ふとしたときに生々しくフラッシュバックし、そのたびに感覚が削られ色がかすんでいった。もはや起きがけのかすみなんて具合ではない。
戻って三日目になったかもしれない。ああ、気が狂いそうだ。頭痛もひどい、逃げてしまいたい。腐った血を、抉りだしてしまいたい。なぜ勉強をしなくてはならないのか。母のいいつけだから、皆がそうだから、プライドが許さないから、再試代を払いたくないから。そのすべてがくだらない。無為に時間を費やすだけだ。なにもかもクソだ。
電車でふらり町田にでた。救いか、なにかがほしい。その居酒屋にひとりで行ったことなどない。それなのに、そこならきっと救ってくれる気がするのだ。酒を飲めば考える力もなくなって、よく眠れるはずだ。あるいは、かつて一吹さんと、なんの憂いもなかったあのときによく来た場所だからか。
様々な人から連絡が来ていたが、ほとんど見なかった。隼に『居酒屋』とだけ返事をして、あとは無視した。
店内は暗く煙草の煙で灰色がかっていた。丸いテーブルが狭い
「俺には、それが似つかわしいだろ。半分死んだようなもんだ」
ここはとにかく安く沢山飲める。強いカクテルを、なにも考えられなくなって、手の感覚がなくなるまで、いくつも流しこんだ。
ずっと遅くまで飲んでは昼すぎに起き、夕方には居酒屋に繰りだした。それが一週間つづいた。二三回、大学にも行った。そこには以前とは違う、まぶしい虚ろさがあった。ひどい頭痛だった。
瞬く間に試験がはじまった。出席もして回答もした。でも、意思を持って解いていたわけではなかった。
見るに堪えなくなったのだろう、試験終わりにミスタ・バブルヘッドが話しかけてきた。いつもの彼らしくない、真面目な顔だった。かすんだ視界のなか、彼は俺の席に寄ってきた。
「ねえ祐、大丈夫? 目がやばいよ」
「大丈夫に見えるか? もし心配したいのなら、俺のためにうしろを向いてみてくれ。なあ、なにが見える」
「え、廊下だけど」
「正解だ。では、よい一日を」
無感情に、あるいは
「おい、祐。それはないんじゃないか。いまのは最低のクズだぞ」
サイレンと前川が俺に寄ってきて、話しかけた。彼らも深刻そうな顔をしていた。友人を馬鹿にされて腹を立てているのだろう。どうせたいした仲でもないのに殊勝な心がけだ。
「素晴らしい、大正解だ。
俺がいっている気がしなかった。すらすらと言葉が流れていく。中学のとき、言葉は
「行こうぜ、サイレン。じゃあなクソ野郎」
前川が足早にでていこうとした。しかしその言葉に従わず、サイレンは俺の前に立っていた。
「大変なら、皆を頼れよ。ぶきっちょだろ、お前」
単に
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バーではいつもおなじ人ばかりを見た。よれたスーツではげかけの会社員、ぼろぼろのジャケットで白髪の老人、それにでぶで着飾りすぎの女だ。三人はいつもいるのに離れて座り、互いに話したりはしなかった。あの人たちにはきっと、いうも苦しい過去がある。そこには堕落した人間特有の共感があり、哀れみがある。人生がいやなのだろう、わかるよ、といった具合なのだろう。
どれだけの間酒に浸ったかわからなかった。おそらく八日目だ。ただ疲れ、
夜に考えていたことがまたもぐるぐると回りはじめた。じいちゃんの最後、桐嶋さんの瞳、夕焼けの山。そして颯紀。あいつのせいで酒がよくすすむ。どうしてこうもみじめで、自堕落になった。あの夕焼けの時代はもっと無垢で気力豊かだったはずだ。そもそも、どうして颯紀と出会った。高校で写真部なんて選ばなきゃよかった。そもそも高校を長野にしていれば。なぜ、颯紀を愛してしまったのだろう。なぜ、颯紀を憎んだのだろう。あいつが堕落に縛りつけている。殺してしまいたい。あいつも、じぶん自身も。
苛立ってグラスを叩きつけた。視界がぐらぐらし、座ってるのが苦しくなってきた。堕落だ。でも、すこし心地がいいのはなぜだ。
突っ伏していると、颯紀の姿が目に浮かんだ。虚像なのか実像なのかはわからない。高校のときの、じぶんが愛した颯紀が浮かんで、こちらに微笑んでいる。それを見て身の毛がよだった。心の底から愛した人だ。愛情のすべてを注いだ人だ。背の低い、艶やかな髪の、愛らしい瞳の彼女だ。
それがこちらに手を伸ばし、触ろうとしたときに像が揺れ、かすんだ。そして、いまの颯紀になった。思わず椅子から飛びのき、転んだ。
「来るんじゃねえ、殺すぞ」
欲にまみれた
と次の瞬間、椅子から飛び起きた。突っ伏したまま寝てしまっていた。気が狂いそうな頭痛だった。
煙の向こうに、毎回ここにいた、白髪の老人が正面に立っていた。黒いシルクハットにタキシードだった。見慣れたジャケットではなかった。杖を腕にかけ、靴は黒く光っていた。手には葉巻を挟んでいた。
「
調子のいい声だった。肘をついていたのに、老人が揺れていた。かすんだ二重、三重の実像だった。
「関わらないのがここの掟じゃないのか」
「そんな決まりはない。ただ皆が皆、じぶんの殻に籠りたいだけだ」
陽気な彼はハットを脱いで座った。背筋はすっと伸び、堂々と正面の杖に手を置いていた。
「用はなんだ。俺も例外ではないはずだろ」
「見ない若い顔が一週間もこんな場末にいたのだよ。興味が湧かないはずがない」
葉巻を口に含んで、上品に吐きだした。
「話す気はない。もう疲れた」
「疲れた。はっはっは。その歳で疲れたか。友人が他人に無関心で助かった。話し相手がほしかったのでね。君は見たところ学生だね。ならなおさら聞いてほしいのだよ」
返答も待たず、じいさんは話しはじめた。すこし
「じじいの人生がいかに
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