第26話② mirror
その夜、また夢を見た。俺はやはり小さいころの身体で、半透明だった。
またも、変化があった。小屋の裏手、池に面したところに白髪の老人が立っていた。居酒屋で延々と語りつづけた老人だ。彼は口を開き、以前と同じように杖を振りながら語りだした。すっかりじぶんだけの空間として愛しはじめていたから、
「君に、真に人を愛するなんてことはできやしない。わかるだろう、愛とは
「突然でてきて、なんだ。なぜあんたがここにいる。ここは俺だけの場所だ、消えろ」
「君は渚月を愛しはじめている。そうだね? あの輝きや
彼の話し方がわずかに異なり、暗く沈んでいるように聞こえた。それは半分闇に落ちた景色のせいか、俺の動揺のせいかはわからない。例のどもりはそのままで、言葉につまったときは杖で調子を取っていた。
「わけのわからないことを。答えになってない。そもそもなぜ、彼女の名前を知っている。あんたはただの堕落した、居酒屋の住人のはずだ」
「はたしてそうかな。現にわたしはここにいて、彼女らの名前を知っている。なぜ、どうして、などどうでもよいではないか。コギト・エルゴ・スム。わたしの考えがここにある。だからわたしはここにいる」
彼は池に柳の葉を浮かべ、それを杖でつついていた。
「哲学なんてクソ食らいやがれ。俺は颯紀なんて愛しちゃいない。これ以上、俺の領域に足を踏みいれるな。いい加減、殺すぞ」
にやりとひげが動いた。嬉々とした表情をこちらに向けた。
「君は愛なしで生きていくことはできない。過去の君がそうだったように、現に君は愛なしで生きてはいない」
「それがどうした」
「認めたね。つまり君には愛が必要だ。ならいままで君が愛してきたのは、一体だれなんだ?」
白いひげを撫でながら、深刻な顔で淡々と話しつづけていた。小屋に杖をこん、とぶつけながら拍子をとっていた。老人の
「うるさい。やめろ、ちくしょう。俺はあいつが憎い。うとましい。殺してやりたいほど、苦しんでるんだぞ」
彼は気にも留めず、目線も変えず、話しつづけた。
「そう。渚月と出会う前は颯紀を愛していた。だが颯紀が裏切ったこともそうだが、そんな彼女を愛しているじぶんを許せなかった。だから形だけ憎んだ。わたしは間違っているかな?」
「いい加減にしろよ。わかった風な口を聞くな。お前は俺じゃない」
「いいや、間違っている訳はない。そして君は一吹を
苛立ちと戦慄で叫び声をあげ、喉を掻きむしった。山びこが虚しく響いていた。涙を振り払いながら、老人を小屋の壁に叩きつけた。相変わらず視線も態度も変わらず、夕陽をながめていた。
「もうやめろ。どうしてお前は俺を苦しめるんだ」
「夕焼けはいつだって美しいなあ。だれもを虜にする魅力がある。元写真家なら知っているだろう、マジックアワーという言葉を。この時間はすべてが飾られて、懐かしくて、崇高に見えるものだ。しかしもう行かなくては。君は行動するのを恐れているね」
予想外の力で腕を引き離され、
「行動するかどうかは君次第。するもしないも、きっと尊い選択になる。人生は選択の連続だ。常に選び、迷いつづけている。そうだろう。しかし大抵の人はこういう。行動しないで後悔するより、行動して後悔した方がいいと。行動しなければチャンスは皆無なんだから、とな。はたしてそうだろうか。わたしはそうは思わない。さっきもいったように、行動するもしないもきっと尊い選択だ。それを
そういって、小屋の向こうへと歩いて行った。俺はその場に釘づけにされて動けなかった。老人は最後に振り向いた。杖を草木のなかに打ち、帽子を深くかぶった。
「愛とは堕落。忘れるな」
そこで目を覚ました。全身、汗でびっしょりだった。息を整え、クッションを殴った。
どんどん記憶と違った夢になっていくのは、脳が処理しているからだろうか。あの老人はやはり俺の作りだした幻想なのだろうか。
俺が颯紀を愛していたから、一吹さんやあいつに、伝えることができないのか?
いま、俺は渚月さんに特別ななにかを抱いている。でもはたして、俺のような人間はふさわしいのだろうか。あの人を愛せば堕落から解放される気がしていたが、そんなことはない。俺という人間は、つまり、堕落そのものなのだ。このかすんだ色の世界で、だれかを映しながら生きていくのだろうか。
夜が更けて、白々明けの朝が迫ってくる。生命のはじまりと終わり、恐怖と気品。この日は特に、夜が明ける瞬間が恐ろしかった。俺は、しばらく呆然と頭を抱えていた。
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