3章 深夜

第28話 rewinding

 わたしは一吹の言葉を受けて、血が引いていくように目がくらんだ。明るさにぼやけた彼を、耳鳴りがしてきそうなほど見つめていた。周りがすべて消え去ってしまったように、視界が狭くなるようだった。


「じぶんの愚かさは承知しているつもりだ。君の心の傷を抉ってしまうかもしれない。それも承知だ。でも僕のこの思いを、じぶんのなかに仕舞ったままにできないんだ。僕は渚月を愛している。むかし以上に、苦しいんだ」


 情熱的な声だった。瞳は燃えて、わたしをまっすぐに見つめていた。うまく呼吸ができず、胸が苦しくなった。言葉がひたすらに頭に反響するばかりだった。


 これが、ずっとわたしが望んでいたことだ。一吹に別れを告げられた日から、ずっと心にしまっていたことだった。これが、わたしの望んだことのはずなのに。むかしから望んでいたはずなのに、胸が苦しい。それを望んでいた反面で、なにも起こらないことを望んでいた。


「いまは、どうしたらいいかわからないわ。ごめんなさい。気持ちに整理がつかないの」


「いいんだ。答えはいつだっていいんだよ。もらえさえすればそれで。ただ僕が君を愛している、これだけは忘れないでくれ」


 一吹は変わらず、情熱的で優しい瞳をこちらに向けていた。


「ええ、ええ。忘れられないわよ。あなたはむかしのままね。馬鹿なまま」


「むかしのままだったら困るじゃないか。ちゃんと進歩しているよ」


 手を伸ばしても届かない距離だった。彼の気まずそうな顔だけが、雪に照らされていた。


「すこし冷えてきたわ。もう戻りましょう」


 なんとか涙をこらえ、いつもの気丈をかぶった。一吹は病室までついてきてくれた。病室の入口まで見送ってくれて帰っていった。


 カーテンを開けたそこは、でたときと違って見えた。ベッドには計り知れない混沌があり、ステンドグラスや折り紙の蝶たちが羽ばたいて逃げだしそうだった。乾いた風が、騒々しく木々を揺らした。ベッドに横たわると、ポケットから幸福論がころがった。


 他人を愛せないと心に決めてまで、彼のことを愛してきたのに。わたしの心にいま、祐くんがいる。


 蝶が、わたしの道を決めてくれないだろうか。蝶が山を登るとき、同種はおなじ道をとおる。わたしが蝶になれれば、魂の道が見えるようになるのだろうか。蝶とは魂なのだから。


 罪。わたしは祐くんに対して、つぐなうことすらできない大きい罪を犯したのだ。心では一吹を愛しながらも、祐くんに近づいていったのだ。引っかかっていたのは、きっとこれなのだろう。


 祐くんとはこれっきりだろう。これ以上、罪を重ねるわけにはいかない。贖罪しょくざいして、彼の前を去ろう。みずから彼に罪を説法しておきながら、このざまだ。結局わたしは彼の思想をなぞっていただけの、不完全な存在だ。いかれた魂だ。


――――――――――――――――――――――――


 颯紀の言葉を聞いた瞬間、雨音がやんだような気がした。やはりこのかすんだ世界に立っているじぶんは、どこにも居場所がないのだ。次第に噴水に打つ悲しい雨音が戻ってきた。


「なにをいっている。一吹さんがそんなことするわけ」


「知らないわよ、わからないわよ。祐、お願い。怖いの。わたしを捨てないで」


「話せ。ひとつもわからない」


 すこし強い語気に、彼女はびくりと肩を震わせた。


「女の名前は聞いたわ。日陽ひなたくんは教えてくれなかったけど、わたしの友達が知っていたの。その子も実習で南病院に行っていたのよ。それにその子とあの女も一吹とおなじ高校だし。クソみたいな偶然」


「それで、名前は」


「渚月だって」


 目がくらんで、頭痛がしてきた。手から傘が滑りおちて、雨が頭のうえに降りはじめた。どうしてここで渚月さんの名前がでてくる。一吹さんの相手が、渚月さんなのか。理解が追いつかなかった。一吹さんと渚月さんがおなじ高校で、浮気相手だと。渚月さんが話さなかったのは、このせいなのだろうか。


「なによ、知っているの」


 颯紀は涙もぬぐわずこちらをにらんだ。


「まあ、そうだな。知りあいだ」


「なら話ははやいわね。さぞ下賎な女なんでしょうね」


「そんなこと」


 ない、とつづけようとしてとまった。


「いや、わからない。彼女のことはほとんど知らない」


 知らない彼女がいる、その事実が突きつけられて揺らいだ。


「間違いないわ、ゴミ捨て場のホームレスみたいにうす汚い雌犬めすいぬに決まってる。意地汚くて、不潔で、無価値。それに子が子なら親も親」


 はき散らすだけはき散らして、息があがっていた。雨はより一層強くなって、俺たちを濡らした。血走った目を向け、またも激しく叫びはじめた。


「渚月とかいうやつの親。父さん、その人と浮気してるの。どういう関係で、どこのだれだか知らないけど。ああいらいらする。親子揃って卑しいわよ、この淫売どもめ。人のものを奪っていくなんて、まるで乞食こじきみたいなものじゃない。いや、そんなのよりもっと悪いわ。そもそもお父さんはなによ。いい歳して女にうつつぬかして。馬鹿じゃないの。ちょっと偉いだけで、中身なんかそのへんの獣とこれっぽちも変わらない。もういや。なにもかもいやよ」


 颯紀のいっていることがまだ理解できなかった。目の前の女は、一体渚月さんのなにを知っているのだろう。一吹さんのなにを。俺のなにを。


「ともあれ一吹さんと話さないことにははじまらない。なにかの間違いかもしれないだろ」


「どう話せっていうのよ。素知らぬ顔して浮気していた男に、愛がないと責め立てればいいの。そんな馬鹿みたいな真似、できるわけないじゃない。わたしが男にへこへこするなんて」


「平行線のまま、うやむやにするつもりか。一吹さんが黙っているのをいいことに。そんなこと無意味だ。だれもなにも得られないまま、じぶんたちの首を絞めあってる。俺たちも、お前たちも。そのうちに窒息して、一番苦しい目にあうに決まってる。なにもかも、破綻はたんしてんだ」


 傘を拾って差しだした。逆の手を差し伸べたが、彼女は手を取らなかった。かわりに、憎しみに狂った目でこちらをにらんだ。


「それ以上はやめて。もう聞きたくないわ。もういやなの」


 颯紀はヒステリックに叫んだ。雨に濡れ、黒く見える髪を振りしだいて空を仰いだ。


「なんてみじめなの。祐はわたしを見捨てないわよね、ねえ」


「家に帰ろう。俺の家に」


「もう、わたしはどうすればいいの。わたしはただ、幸せになりたかった、満たされたかっただけなのに。頭がおかしくなりそう」


 彼女が哀れだった。じぶんを苦しめた相手ではなく、かつて愛した人としてしか見れなかった。


 人気のうすらいだ駅ビルは不気味にそびえ立っていた。タクシーを拾って乗りこんだ。ずぶ濡れのふたりはなにも話さなかった。黙っているのが仕事らしい運転手の男も、口を開かなかった。車内がすぎゆく街灯がいとうにくり返し照らされるのを見ると、まぶしかった思い出を想起した。ひとつひとつが鮮明で、錆びつくことなく輝いていた。街灯が、波紋となって景色に溶けていった。


 渚月さんの話なんて、聞かなければよかった。あの人のおかげで、俺はここまでぬけだして、成長したのに。老人のいうとおりだ。愛とは堕落。かつて颯紀を愛してしまった時点で、こうなることはわかっていたのだろうか。


 渚月さんは大事な存在となった。だが、それ以上はどうなる。


 颯紀は眠らず身動ぎもせず、いつかとおなじようにずっと外をながめていた。鏡に映った彼女の瞳を見たとき、身震いがした。夜の闇に溶けた瞳だった。どこまでも深い、夜の闇だった。


 家に着いたとき颯紀は、指示なしにはなにもすることができなかった。風呂にはいれといったり、寝巻きを着ろといったりの指示はよくとおった。彼女はすぐに寝てしまった。


 堕落から抜けだせればそれでよかった。しかし一吹さんと渚月さんのことで事態は一変した。颯紀と一吹さんの関係はどうなる。渚月さんはどう思っている。


 たしかめに行かなくてはいけない。あの人の心が、なにを望んで、どうしたいのか。


 昼頃、俺が起きるともう颯紀はいなくなっていた。颯紀のいた痕跡は残っていなかった。まだ慣れない、整った部屋だ。苛立つものもない、俺の空間だ。もう、あと戻りはできない。過去のじぶんの居場所はないのだ。まぶしい日差しが、窓の下から注いでいた。


―――――――――――――――――――――――――


 インターホンが鳴った。颯紀かと思って飛びだしたが、そこにいたのは息を切らした隼だった。なぜこんなところにいるのか、想像できるのはひとつしかない。


「あがれ。渚月さんのとこ行ってたんだろ」


 彼は立ち尽くしたまま、深刻な顔でこういった。眼鏡の奥の瞳は、光で見えなかった。


「祐、お前は渚月さんをどう思ってるんだ」


「なにを」


「いいから答えろよ。君にとって渚月さんはどんな存在だ。颯紀さんのときみたく、泥みたいに愛しているのか。それともいままでみたいに、適当に見つくろった、逃げるためのインスタントな愛情か」


 彼は見たこともない、怒りと焦燥しょうそう、それを哀しみに浸したような、ゆがんだ表情を浮かべていた。俺は突然のことで言葉を失った。


「どうなんだよ、答えろ」


 声を荒げ、俺の襟首をつかんだ。


「わからない」


 ぐいと襟がしまった。


「聞けよ。わからないけれど、俺のなかで彼女の存在がどんどんと大きくなっていくんだ。俺には愛がわからない。持ってたやつはぜんぶ捨てられた。いいから、はいれよ」


 ぼうっとする彼の腕を払って、家のなかに引きこんだ。日差しはますます強くなっていった。




「つまり、渚月さんは高校のときに一吹さんとつきあっていた。でも別れてしまった。渚月さんは苦しみながらもずっと一吹さんを思っていたわけか。ああクソ、頭が痛くなってきた」


 隼はコーヒーの湯気を、火事の煙でも見るような真剣さでながめていた。眼鏡の奥は、いつもと違って鋭かった。俺は頭を押さえながら、ここ数日で起こったことを整理しようとかすんだ頭を回そうとしていた。


「渚月さんを救えるのは君しかいない」


「お前は? 投げっぱなしなんてお前らしくない」


「僕じゃ渚月さんの奥までたどりつけない。ただのいい人なんだよ。僕は君にすべて託すつもりでいる。でもいままでの君には、託せるわけがない」


「それであんな声あげてたのか。渚月さんのこと、その」


 隼はため息をついた。


「かつてね。絵をつづける気のなかった僕をこうして引きこんでくれたのは渚月さんだった。でも届かなかった。だからって、いまでも大切な人であることには変わりない。恩人だし、愛おしい。だから君に託すんだ。絵だって、いま描いている風景画で終わりにする」


 そういう彼は寂しげだった。外はまぶしいほどに照らされていた。わずかにコーヒーを含んで、喉を鳴らした。


「親友としてお願いしているんじゃない。君が、彼女に連なるもので、彼女を自己嫌悪の苦しみから救ってやれるただひとりの男だから。君は苦しんだ。いまも、苦しんでいる。苦しんだ人間にこそ、持てる強さがあると僕は信じてる」


 あまりに時の流れがはやすぎて、じぶんがだれだかわからなくなってきた。ひさしぶりにひどい頭痛だ。


「ちょっと考える時間をくれよ。すくなくとも、俺はあの人に世話になってる。困ってるなら手を貸さなきゃ、いけないだろ」


「なあ、葬式のときさ。僕が人助けをはじめた理由、聞いただろ。覚えてるか」


「いや、あのときの記憶は曖昧なんだ」


「まあいいよ。そんな理由、いってもないし。お前だよ、祐」


 一気にコーヒーを飲みほし、眼鏡をなおした。


「なんだって?」


「お前が小学校のとき、喧嘩して泣いてた僕を助けてくれたんだ。それだけ。もう毛ほども覚えていないだろうけど」


「なんで助けたんだろうな。きっと気まぐれだ」


「その気まぐれが、いまの僕を成り立たせているんだ。強くあれと、君が教えてくれた」


 そんなこと覚えていない。こいつはどの俺を見ているのだろう。まったく別人にあこがれているのではないか。でもそんなことをいわれてしまっては、まったく別人になってしまったとしても、足を動かすしかないじゃないか。


「じゃあな、相棒。君ならたどりつけると、信じているから」


 そういって、隼は部屋をでていった。きしむ扉の音がむなしく響いていた。


 困惑だ。鏡としてのじぶんを抜けだそうとようやく動きだしていた。そこにこれだ。とにかく俺のやることは、渚月さんに会いに行くこと、あとは日陽くんを問いただすことだ。事が起きる前に颯紀の連絡先を聞いてきた。つまり彼はなにかを知っている。


 俺はようやく修理した時計を巻きなおして、コーヒーを飲みほした。ここから先は、あいつのヒーローになってやるしかない。プールオムを手首につけ、じぶんのなかの強さをまとった。



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