第27話② doublecross


 二月の夜の雨は、肌を刺すように冷たかった。傘を打つ雨音がばらばらとうるさく、コンクリートを打つ水滴はどこへ行くともしれず散り散りになっていった。


 歩きながら鉄柵に触れた。渚月さんの冷たさとは違う、味のない冷たさだ。駅のマンションは遠くかすみ、控えめにたたずんでいた。つま先を振って飛んでいく水滴をながめるのは、舞台のダンサーみたいで面白かった。


 先日写真を撮った、相模大野中央公園に来た。颯紀を呼びつけるのはそこが都合いい。一吹さんの家も、駅も近い。


 管理所の前のわずかなひさしで雨宿りしながら、噴水をながめた。もう水はでていない。噴水を跳ねる雨が、白いレースのように飾り立てていた。


 近くの水たまりに、波紋が広がっては消えた。飛び跳ねる水滴のかけらも、また波紋を作っては消えていった。それがまるで颯紀と俺の思いでのように思えた。


 愛とは堕落、この前のじいさんだ。選択するもしないも、尊い選択だと、老人はいった。だとしたら、俺は前にすすみたい。いままで沈みつづけてきたその堕落に終止符を打って、解放されたい。だれかを愛さなくては生きていけない、なんてのはただの思いこみだ。その先は、真っ暗でなにも見えないけれど、それが人生というものだろう。この海路の先は、だれにもわからないのだから。


 雨の向こうに颯紀が見えた。その足取りは重く、傘もささずに濡れていた。ずっと濡れていたようで、服も髪もずぶ濡れだった。顔はぐちゃぐちゃで、涙か雨かわからなかった。


 苦しいほど蠱惑的こわくてきな彼女を見て、傘を差しだした。憎しみなど、雨に流れてしまった。颯紀が俺を抱きしめて、より一層泣いた。この前と、またどうも様子が違う。じぶんが濡れていることにすら気づかない様子だった。雨傘を打つ音が、空虚に響いた。


「颯紀。この前はすまなかった。知れてる関係だからってあんなこと」


 ずっと考えていた台詞はよどみなく声になった。でもなぜか、心には迷いがあった。あの夕焼けで老人が訴えてきたことが、妙に心に引っかかった。


「でも、このゆがんだ関係をつづけるのは、やはりだめだ。ここで終わりにしなくてはいけないんだ。はじまったものは、いつか終わらなくてはならない。句読点のない文章はないから。この関係も、ここまでなんだ」


「いや、いや。これ以上なにかを失うのは、いや」


「俺たちは元に戻るだけで、なにかが壊れるわけじゃない。自然な形に戻るだけなんだ。はじめから間違っていたから、そう、壊れた時計の歯車を継ぎなおすだけ。だから失うわけじゃないんだぞ」


「いやよ、祐。お願いだから、そんなことをいわないで」


 やはりおかしい。颯紀は感情の起伏が激しいから、泣いたり激昂げっこうしたりするのは珍しくなかった。だがいまの彼女はしとやかで、未熟みじゅくな品があった。まるで高校のときの彼女のようだ。


 そんな彼女を前に、もう強い言葉を投げることができなかった。じぶんのなかの正しさが、瓦解していった。それでも、離れるための言葉をつむいだ。


「一吹さんが、あんたのことをしっかり愛してくれるはずだ。それに周りの友達もお前に羨望を向けてる。お前みたいな人、あまりいるものじゃない。一吹さんと、友人こそが、お前にとってのあるべき場所だ。ちゃんと俺と縁を切らないと」


「いや。いま、その名前はいや」


「一吹さんが?」


「そう。いまは祐がいいの」


 答えにつまった。雨が冷たく音を立てる。


「どうした、なにがあった」


 一吹さんとつきあってから、冗談たりともこんな台詞は吐かなかった。異様だ。空がかすんで白んでいる。


 俺は身体から颯紀を離した。抵抗はしなかったが、今度は腕をつかんで離さなかった。そして壊れた人形のようにいやだと繰り返した。震えて、目は恐怖に血走っていた。もう一度おなじ質問を繰り返すと、ようやく彼女は口を開いた。


「一吹がわたしを裏切った」

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