第23話① pinky
死は時間によって
気づいたら年はとっくに明け、期末テストは終了した。学科の人たちは解放感に浸り、春休みの明るい計画を立てていた。
皆からうしろ指を刺され、拒絶されている。サイレンたち三人は、離れて隠し話をしていた。こそこそ話がむかしから苦手だった。彼らが話している内容がじぶんの
どこまで行ってもどんづまりだ。山にも、写真にも、家族にも、この世界のどこにもいられない。ストリックランドのように、タヒチに逃げることも、芸術に走ることもできない。何度そうしようと思ったかわからない。でも現実の
暗い空だった。病院のなかは質素で陰気くさかった。無愛想な受付から面会者カードをもらった。せめて、じいちゃんとおなじ場所で。ここなら顔見知りだから、屋上まで行くのは簡単だ。でもじぶんは、あのカロートのなかにふさわしくない。そのあとどこへ行くのだろう。別に四辻に埋められようが、居場所が与えられるのなら、そして
屋上の扉を開いた。人がいる方が珍しいが、きょうは違っていた。
「お久しぶりですわ。祐くん」
桐嶋さんはベンチに座って本を読んでいた。ゆるい服で、つば広の帽子をかぶっていた。持っているのは月と六ペンスだ。
「蝶って、ギリシャ神話では魂の
目をそらした。これから死ぬ、救いがたい人間に、そんな
「お爺様が教えてくださったことよ。祐くん、わたしの大事な人は死なせませんわよ。死の方へなんて逃げちゃだめ。祐くんがどれだけ絶望しようと、苦しんでいようと、あなたの魂はわたしが救いますわ」
風が吹きぬけた。なぜ。桐嶋さんの髪一本一本が日に輝き、おなじ香水が香ってきた。彼女は強い。逆にじぶんは膝から崩れてしまいそうだった。生きるのもいやだけれど、死ぬのもいやだ。居場所がないのはいやだ、でも居場所がほしいなんて叫べない。
「さ、下に戻りましょう。ここは冷えますわ」
彼女のブランケットをこちらの肩にかけ、連れられるがまま、談話室へ足を踏みいれた。ブランケットからはプールオムではない、爽やかな、気品のある香水の香りがした。
彼女の歩く姿は、以前のように痛ましいほど流麗だった。いますぐ逃げだしたくて、外をながめた。この前とおなじところにイーゼルを準備し、席についた。
「お爺様のことは、本当にお悔やみ申しあげますわ」
「きっとこうなる運命だったんです」
「運命、ね」
「俺もじいちゃんが倒れたときから、覚悟はしていましたから。きっと桐嶋さんに出会ってから、じいちゃんは幸せだったと思います。本院にいたころとは全然違いましたから。南病院にいたときみたいに、色々な人に話しかけなかったです」
「お爺様と最後に話したかったですわ。伝えなくちゃいけないことがあったんです」
頬の不気味な温もりを思いだし、
「話せなくてよかったと思います。様子がおかしかったですから」
「それでもやっぱり、最後に話したかったですわよ。わたしの恩人ですもの。感謝の言葉を伝えたかったわ。もっとちゃんと、恩返ししたかったわ」
「恩人、か。じいちゃんが弱そうな言葉です。それなら長野に来て、直接伝えたらいいじゃないですか。きっとじいちゃんなら喜んでくれるでしょうから」
「ぜひ、退院したら一緒に行きましょう。退院したあとが楽しみですわ」
いったいなぜ、ここまで他人に迫ることができるのだろう。どうせ見ず知らずの他人だ。理解できない。愛想笑いなんてできず、じっと彼女を見つめてしまった。彼女の細い髪が揺れていた。花の笑顔だった。スケッチブックを準備し終わると、桐嶋さんはこちらを見てこういった。
「ねえ祐くん。わたしの絵のモデルになってくださいませんか。わたし、あなたを描きたいんです」
真意はわからない。断ろうと思ったが、あの話の手前帰ることはできなかった。自然なままでいいから、動かないでといったときだけは動かないで、とだけ注文された。
彼女は描きはじめた。その鉛筆に迷いはなかった。速い筆運びで、正確に。まるでピアノを弾いているかのように、
「なぜ、桐嶋さんは絵に色をつけないんですか」
「知りたい?」
なぜか
「ええ」
「敬語はやめて、名前で呼んで。それが条件」
すこし抵抗はあったが、わかったと返事すると、渚月さんはまた絵の方に戻った。淡々と描きながら、滔々と語った。
「つけないんじゃなくて、つけられないのよ。わたしは色を知らないもの。全色盲って知ってるかしら」
「詳しくは知りませ、知らない」
「単色覚ともいうわね。勉強したんじゃない、
なにもいえなくて、時計をいじった。渚月さんの鉛筆の音が響いていた。
「そう、だったのか」
また踏みこみすぎたかもしれない。頭が痛くなってくる。しかし、もっと、知りたい。
「これ、滅多に人に話さないのよ」
「渚月さん、俺、苦しいんだ」
「どうして?」
こちらを向いてまた微笑んだ。その笑顔を見るたびにじぶんの、世界に対する罪を思い知る。
「俺、あなたの前にいられない。ふさわしくない。じいちゃんが死んでからずっと、どうすればいいのかわからなかった。だから惰性に逃げてた。わからないこと、わからないままにしつづけている。意気地なしの臆病者だ。大学にはいってからずっと、この性格をなおしたかった。結果はこのとおりさ。どんなものも、俺の方位磁石をなおせなかった。俺というものは結局、自堕落そのものだ。人生という
静かに聞いていた彼女は、真剣な顔になった。
「隣の満江さんが退院した日、
「なら話ははやいじゃないか。あなたに救われる価値なんてない。こんな人間に用意されてる席なんて、あるわけないんだから。じゃあ」
「待って、誤解してる。魅力的じゃないの。前はあなたのこと、よくわからなかった。でもしっかり情熱を持っている人だって聞いて、わたしは驚いた。それが魅力的でないわけない」
去りかけたが、あっけに取られ、もう一度席についた。心の底が暖かく、軽くなった気がした。
「変わってるよ、渚月さん」
「あなたもよ」
彼女はくすくす笑った。口に手を当てて笑う仕草が愛らしい。細くなる瞳に柔らかいまつ毛がふわりと乗っていた。ひとしきり笑うと、彼女はこうつづけた。
「いい、祐くん。誤解したままにはしたくない。わたしはあなたが思う人間じゃないの。弱いし、
「ピアノ?」
「それはあとでね」
つづきます↓
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