第23話① pinky

 死は時間によってそそがれない。いつまで経っても空白はこの身に居座っていた。最低最悪の気分だ。あれからずっと気力もなく、枯れはてた風景が流れるように、ただのうのうとかすんだ色に生きている。酔っていたとはいえ、颯紀さきのことを、求めてしまった。あの呪いはもう解けない。堕落だらくの血が全身を巡っているのがわかる。


 気づいたら年はとっくに明け、期末テストは終了した。学科の人たちは解放感に浸り、春休みの明るい計画を立てていた。愛想あいそ笑いでいいね、といってみたが、そんなことに興味はなかった。笑顔が前より張りついていた。サイレンの引き笑いが、やけに耳にさわった。


 皆からうしろ指を刺され、拒絶されている。サイレンたち三人は、離れて隠し話をしていた。こそこそ話がむかしから苦手だった。彼らが話している内容がじぶんの批判ひはんな気がしてならないから、恥ずかしくて息ができなくなる。おぼろげな記憶のなかで、彼らに無礼なことをいったのを覚えている。元より好きだと思ったことは一度もない。ただの嫌いな個人だ。


 どこまで行ってもどんづまりだ。山にも、写真にも、家族にも、この世界のどこにもいられない。ストリックランドのように、タヒチに逃げることも、芸術に走ることもできない。何度そうしようと思ったかわからない。でも現実の呪縛じゅばくがそうさせてくれなかった。颯紀はじぶんを嘲笑ちょうしょうしている。じいちゃんはもういない。桐嶋さんは優しいが、ふさわしくない。結局じぶんは個人を嫌うあまり、世界から嫌われたわけだ。解決策はひとつ。長野の清浄せいじょうさに触れてから、ずっと頭にこびりついていたことだ。


 暗い空だった。病院のなかは質素で陰気くさかった。無愛想な受付から面会者カードをもらった。せめて、じいちゃんとおなじ場所で。ここなら顔見知りだから、屋上まで行くのは簡単だ。でもじぶんは、あのカロートのなかにふさわしくない。そのあとどこへ行くのだろう。別に四辻に埋められようが、居場所が与えられるのなら、そしてけがれを濯げるのならそこがいい。


 屋上の扉を開いた。人がいる方が珍しいが、きょうは違っていた。


「お久しぶりですわ。祐くん」


 桐嶋さんはベンチに座って本を読んでいた。ゆるい服で、つば広の帽子をかぶっていた。持っているのは月と六ペンスだ。新潮しんちょうの青い表紙絵はわかりやすい。それに眼鏡をかけているのははじめてだった。外してケースにしまった。


「蝶って、ギリシャ神話では魂の象徴しょうちょうとされているんですって。あんな綺麗なものを魂と見立てるなんて、考えついた人は神様か、それとも詩人かしらね」


 目をそらした。これから死ぬ、救いがたい人間に、そんな教鞭きょうべんをふるったって無駄だ。


「お爺様が教えてくださったことよ。祐くん、わたしの大事な人は死なせませんわよ。死の方へなんて逃げちゃだめ。祐くんがどれだけ絶望しようと、苦しんでいようと、あなたの魂はわたしが救いますわ」


 風が吹きぬけた。なぜ。桐嶋さんの髪一本一本が日に輝き、おなじ香水が香ってきた。彼女は強い。逆にじぶんは膝から崩れてしまいそうだった。生きるのもいやだけれど、死ぬのもいやだ。居場所がないのはいやだ、でも居場所がほしいなんて叫べない。


「さ、下に戻りましょう。ここは冷えますわ」


 彼女のブランケットをこちらの肩にかけ、連れられるがまま、談話室へ足を踏みいれた。ブランケットからはプールオムではない、爽やかな、気品のある香水の香りがした。


 彼女の歩く姿は、以前のように痛ましいほど流麗だった。いますぐ逃げだしたくて、外をながめた。この前とおなじところにイーゼルを準備し、席についた。


「お爺様のことは、本当にお悔やみ申しあげますわ」


「きっとこうなる運命だったんです」


「運命、ね」


「俺もじいちゃんが倒れたときから、覚悟はしていましたから。きっと桐嶋さんに出会ってから、じいちゃんは幸せだったと思います。本院にいたころとは全然違いましたから。南病院にいたときみたいに、色々な人に話しかけなかったです」


「お爺様と最後に話したかったですわ。伝えなくちゃいけないことがあったんです」


 頬の不気味な温もりを思いだし、辟易へきえきした。再び死のレイヤーが視界をおおった。


「話せなくてよかったと思います。様子がおかしかったですから」


「それでもやっぱり、最後に話したかったですわよ。わたしの恩人ですもの。感謝の言葉を伝えたかったわ。もっとちゃんと、恩返ししたかったわ」


「恩人、か。じいちゃんが弱そうな言葉です。それなら長野に来て、直接伝えたらいいじゃないですか。きっとじいちゃんなら喜んでくれるでしょうから」


「ぜひ、退院したら一緒に行きましょう。退院したあとが楽しみですわ」


 いったいなぜ、ここまで他人に迫ることができるのだろう。どうせ見ず知らずの他人だ。理解できない。愛想笑いなんてできず、じっと彼女を見つめてしまった。彼女の細い髪が揺れていた。花の笑顔だった。スケッチブックを準備し終わると、桐嶋さんはこちらを見てこういった。


「ねえ祐くん。わたしの絵のモデルになってくださいませんか。わたし、あなたを描きたいんです」


 真意はわからない。断ろうと思ったが、あの話の手前帰ることはできなかった。自然なままでいいから、動かないでといったときだけは動かないで、とだけ注文された。


 彼女は描きはじめた。その鉛筆に迷いはなかった。速い筆運びで、正確に。まるでピアノを弾いているかのように、流麗りゅうれいだった。俺は見とれて、さきほどまで死のうと考えていたことすら忘れていた。彼女の絵を見てから、彼女の作る世界に引きずりこまれてしまった。そしてずっと思っていた疑問を思いだした。彼女の絵に着色されているところは見たことがない。無言で居心地が悪くなってきたところだ。


「なぜ、桐嶋さんは絵に色をつけないんですか」


「知りたい?」


 なぜかきらめいた瞳をこちらに向け、顔をのぞきこんできた。


「ええ」


「敬語はやめて、名前で呼んで。それが条件」


 すこし抵抗はあったが、わかったと返事すると、渚月さんはまた絵の方に戻った。淡々と描きながら、滔々と語った。


「つけないんじゃなくて、つけられないのよ。わたしは色を知らないもの。全色盲って知ってるかしら」


「詳しくは知りませ、知らない」


「単色覚ともいうわね。勉強したんじゃない、錐体細胞すいたいさいぼうとか。あれって三つの色を識別しきべつするのよ。赤、青、緑ね。色盲って、色覚がひとつ足りないことが多いのよ。でもわたしはそれがなくて、桿体細胞かんたいさいぼうしかないの」


 なにもいえなくて、時計をいじった。渚月さんの鉛筆の音が響いていた。


「そう、だったのか」


 また踏みこみすぎたかもしれない。頭が痛くなってくる。しかし、もっと、知りたい。


「これ、滅多に人に話さないのよ」


 慈愛じあいの表情でこちらを微笑んだ。それを見て、喉がつまった。この人になら、じぶんの罪を告白してしまっても、いい。すべて受けとめてくれるかも、しれない。


「渚月さん、俺、苦しいんだ」


「どうして?」


 こちらを向いてまた微笑んだ。その笑顔を見るたびにじぶんの、世界に対する罪を思い知る。


「俺、あなたの前にいられない。ふさわしくない。じいちゃんが死んでからずっと、どうすればいいのかわからなかった。だから惰性に逃げてた。わからないこと、わからないままにしつづけている。意気地なしの臆病者だ。大学にはいってからずっと、この性格をなおしたかった。結果はこのとおりさ。どんなものも、俺の方位磁石をなおせなかった。俺というものは結局、自堕落そのものだ。人生という茫漠ぼうばくたる海路をすすむ、壊れた方位磁石の幽霊船だ。あなたのようにまぶしくて、強くて、美しい人になりたかった」


 静かに聞いていた彼女は、真剣な顔になった。


「隣の満江さんが退院した日、しゅんくんが来たの。全部聞いたわ。颯紀さんのこと。むかしのあなたのこと」


「なら話ははやいじゃないか。あなたに救われる価値なんてない。こんな人間に用意されてる席なんて、あるわけないんだから。じゃあ」


「待って、誤解してる。魅力的じゃないの。前はあなたのこと、よくわからなかった。でもしっかり情熱を持っている人だって聞いて、わたしは驚いた。それが魅力的でないわけない」


 去りかけたが、あっけに取られ、もう一度席についた。心の底が暖かく、軽くなった気がした。


「変わってるよ、渚月さん」


「あなたもよ」


 彼女はくすくす笑った。口に手を当てて笑う仕草が愛らしい。細くなる瞳に柔らかいまつ毛がふわりと乗っていた。ひとしきり笑うと、彼女はこうつづけた。


「いい、祐くん。誤解したままにはしたくない。わたしはあなたが思う人間じゃないの。弱いし、劣等感れっとうかんの塊」


「ピアノ?」


「それはあとでね」


つづきます↓

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