第35話 daybreak

『明日、時間ある? 話したいことがあるの』


 そう颯紀から連絡が来たのは、渚月が退院した一週間後だった。あのあとホテルに泊まったり、女友達の家に泊めてもらっていたらしい。あれだけ憎んだ彼女に憐憫れんびんの情をいだくのは馬鹿らしい、そんなことはわかっている。


 きょうも雨が降っていた。地面を打つばらばらという規則のない音が、俺の胸に安らかに響いた。ひさしぶりに、ターナーの絵をながめていた。彼の絵は、俺の世界をよく表している。動きにかすんで、どこか現実と乖離かいりしている。だから彼の絵を見るたび、親近感を感じながらも見ていられなかった。


 改めて見ると、この絵のことがよくわかる。彼は写実的な風景画からぬけだしたパイオニアのような人物だ。煙を吐く汽車の絵は、印象派に先立つものを感じる。彼の見ていた風景こそこの絵なのだとすれば、彼も俺とおなじように苦悩していたのだろうか。そして俺のように世界を愛おしく思っていたのだろうか。はるかむかしの人物なのに、戦友のような感情をいだいた。


 そんなことを思っていると、雨の音に混じってコツコツと乾いたヒールの音が聞こえ、そのあとにインターホンの音が鳴った。モニター越しで前にした女の顔は、疲弊し痩せて見えた。彼女はまっすぐに俺を見つめて口を開いていたが、なにをいったらいいいかわからない様子だった。疲れていようが、大きい瞳と果実のような唇は変わりなかった。耐えがたさはもうなかった。


「すこし歩こう。ここは空気がつまりすぎてる」


 きしむ扉を開いた。そこにはかすかに血の跡が残っていた。過ぎ去った日常は、もう色褪せて消えかかっていた。


 大学とは反対へ歩いた。ゴルフ場の木に囲まれているから、なおさら空気が冷えた。それもこたえるが、傘に穴が開いていて、肩をしとしと濡らした。こんなものなら傘なんて捨てて、雨に打たれたい気分だった。傘に遮られた距離はこの関係の距離だ。


「ごめんね、祐。いままでずっと」


「わざわざそんなことで、来てくれたのか」


 颯紀は決心した表情で、前を見すえていた。雨にかすむ彼女は気高かった。うしろに結んだ金髪が雨に溶け、流れていきそうだった。


「いまさらだけどわたし、ようやくじぶんの本質に気づいた。わたしたち、はじめはちょっとのゆがみだったのに、どんどん大きなゆがみになっていってさ。いまとなってはもうまともなところなんて、なにもなかった。以前のままだとずうっと思っていたのに。それでこの結果なら、ざまあないよね」


 こつ、こつ。颯紀のヒールと、俺の靴の音が響く。話し方こそいつもの彼女だが、軽率なところはどこにもなかった。滔々とうとうと語る彼女を遮りたくなかったし、その重みある言葉に返せる言葉がすぐに見つからなかった。


「わたし、祐のことを、心のどこかで特別だと思ってた。わたしの知らない意識のなかで、別れてからもずっと。あんた、弱っちいから。でもようやく」


 俺に向かって微笑みかけた。その顔があまりに透きとおっていたから、ずっと見つめてしまった。過去の恨みの影なんて、すべてその輝きに消されてしまった。彼女は俺の鼻を指ではじいて、痛がる姿を笑った。小さな公園にたどりついた。


 公園にはいると彼女は立ちどまって、傘をたたんだ。そして空を仰ぎ、両手を広げた。冷たい水が、すべてを洗い落としていく。


「わたしはこうなるべきだったのね。バラバラに壊してしまわないといけなかった。砂の城を崩して、更地さらちにしなきゃいけなかった。それでまた、組み立てなおさなきゃいけなかった。自分勝手なことをいってるのはわかってる。そんなこと、いえた立場じゃない。だからどんな罰も受けいれる。もちろん祐の前からも消える。一生だれも愛するなといわれても、仕方ないと思ってる」


 俺も傘をたたんだ。冷たい雨のはずなのに、なぜだか心地よかった。耳に当たるばらばらという音が、冷静にさせてくれる。


「俺たちが出会ったときのこと、覚えてるか。高校の写真部。都会にでたばっかりでなにもわからなかった俺を、颯紀が案内してくれた。いま思えば男遊びの一環だったかもしれないが」


「あの時期のわたしは、クソ野郎だったからね」


 ふたりで濡れながら、鉄棒に寄りかかっていた。


「あれはうれしかった。俺が折れずにここに立っているのは、お前のおかげだと思う。もちろん、この関係を持ちかけたお前はいまも、心底クソ野郎だと思うけどな」


 颯紀は鉄棒に腰かけながら、こちらを向き微笑を見せた。また空を仰いで、目を瞑っていた。


「一吹とはちゃんと話をするつもり。もし別れるというなら、別れようと思う。でももしそうじゃないのなら、心から愛する。そっぽも向かず、まっすぐ」


「それでお前は満たされるのかよ」


 俺は颯紀の背中を叩いた。彼女はふらついて鉄棒から降りた。シャネルの色香は雨にかき消され、もうほとんど残っていなかった。


「セックスなんかより、皆から愛される方がいいわ。いままで見当違いな方にすすもうとしてたんだよね。父さんとは、まあなんとかする。本当に心かよわせる人がいるのは、なによりもうれしいことだから。帰りましょ」


 颯紀は傘を拾って歩きだした。濡れた笑顔はしとやかだった。


「お前に会えて俺は幸せだったよ、クソ野郎」


「あんたは強くなったよ、祐」


 ずぶ濡れでふたり笑った。鉄棒を降り、穴開きの傘をさして、俺もつづいた。雨は静かにやんでいった。あれほど憎んだ日々が、終わっていく。家までの十分そこらは、俺たちの関係からすれば短すぎた。言葉もなく、苦しくもうれしくもなかった。雲間からのぞく太陽が、濡れた俺たちを照らした。


「じゃあね。大事な時間を奪ってごめんなさい。わたしもずっと幸せだった」


 家について、すぐ彼女は帰ろうとした。その背をみて、俺は引きとめた。


「お前は前だけ見つめて、すすみつづけなきゃいけない人間なんだ。どれだけ歩くのがつらかろうが、立ちどまっちゃだめだ。お前の輝きは、よくも悪くも、人を導く力がある。その力の使い方を、俺にしたようにじゃなくて、もっと別の道に」


 彼女は最後まで聞かず、笑って歩いて行った。その背はいつか見た隼のように、すすむ人の大きさがあった。その美しい背を目で追いながら、終わっていく夕焼けを見守った。過去の憧憬は、これで。

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