2章 夜
第18話 blood
国境の長いトンネルなんてものはなかったが、次第に景色が白に染まっていった。それと同時に、悲しみや死への恐怖は消え、この身には空白が染まっていった。輸送車のなかでは異様な時間が流れていた。遺体とすごす時間はこれほど重いのか。空気が粘り気を帯びて、腕にのしかかってくる。目を動かすのも、首を傾けるのすら
高速道路のなだらかな道を淡々と走っていた。いま、じぶんがどこにいるのかわからなくなった。ここはじぶんにとってあの世でもあり、現世でもあった。長野でもあり、神奈川でもあった。
高速を降り、そろそろ家に近づいてきた。遠くの山々は山肌を白く染めていた。白、きょうはずっと白ばかりだ。穏やかで優しい記憶とは違って、すべての景色が虚ろだった。まるで輸送車の窓が、死というレイヤーを重ねるレンズとなって現実の世界を見せているみたいだ。それならきっと、かすんだ世界もそういうものだ。この角膜が
家は松本駅からすこし離れた住宅街にあった。実家に帰ったのは高校以来だ。成人式のときも、隼の家に泊めてもらった。だからこの土地に立って、何十年も帰らなかった旅人のように、愛情と
出迎えはなかったから、運転手が仮の棺桶を家に運びこむ手伝いをしてくれた。遺体は生者よりも重い。和室に遺体を寝かせると、運転手は会釈して黙ったまま帰っていった。完璧に黙りつづける職務をまっとうしていた。
リビングは奇妙なくらい整っている。七畳ほどのリビングで、余計なものは置かれない。結衣奈さんはそういう人だ。壁際に小ぢんまりとした本棚がふたつ、シンプルなかけ時計、窓際には
結衣奈さんと父の
「なあ、ふざけてんのか。棺桶くらい高いものでもいいだろ。食事だって、親戚への厚意だ。花だってなぜ減らす。仮にもあんたの父親だろうが。育ててもらったことを忘れたのか、恩知らず」
結衣奈さんも、おぞましい顔でこちらを見た。むかしよく見た面だ。
「恩知らず。恩知らずね。それをお前がいうの、祐。お前こそ育ててもらった恩を忘れているじゃないの」
「いまは俺の話をしているんじゃない。話を逸らすんじゃない」
「ならいうけれど、
彼女は恐ろしく震えていた。その言葉を聞いて、はっとした。それでも、燃えるような怒りは収まらなかった。
「まったく世話にならなかったわけじゃないだろ。それにばあちゃんのときの喪主はじいちゃんだ。ばあちゃんのためになることもわからないのかよ」
「わからないわよ。祐吾さんは祐吾さん。お母さんは関係ないじゃない。お母さんに優しくしなかったやつなんかに、どうして尽くしてやらなきゃいけないのよ。お母さんはあの人のせいで死んだも同然なのに」
空気が隣の部屋から流れてくる、冷たい沈黙に呑まれた。結衣奈さんは首を垂れ、乾燥肌のぼろぼろな手でメモ帳を握りつぶしていた。父は挙動不審に辺りを見回して、手をしきりに揉んでいた。
母に背を向け、離れてから口を開いた。
「もういい。あんたは大好きな仕事にでも行ってろよ。あとは全部俺がやる。あんたの手はもう必要ない。さあさあ、大好きなお仕事に行ってくれ。暇がないんだろ」
それを聞いて、結衣奈さんは目を見開いた。電灯が揺れるくらい強く机を叩き、残響の途切れるまで首を垂れたまま動かなかった。そしてこちらに凍った視線を浴びせ、部屋にあがっていった。その瞳に涙が溜まっているのが見えた。凍るような興奮のせいでじぶんも泣きそうだった。
久しぶりに会った父とふたり、リビングに取り残された。父は結衣奈さんのところへ行くかと思ったが、おろおろしながらもリビングに残っていた。しばらく口を開くことはなかった。
彼は小太りではげかけの、眼鏡をかけた医者だ。若いときから優秀で、長野の大学病院でかなり高い地位に就いている。家にいる時間はほとんどなかった。結衣奈さんを心から愛しており、家にいる時間は彼女との会話に費やしている。会話の内容はふたりで飼っている熱帯魚の話か、もしくは日常的な取るに足らない話だった。歩き方は
彼と黙って作業をすすめた。父へ事務的に声をかけ、仕事を教えてもらった。責任者はじぶんでやるといったが、父はさすがに親として顔が立たないからと請け負った。息子が喪主になることが許せないといった風ではなく、あくまで名前だけはじぶんが持つ、責任はじぶんが取るからといった態度だった。
作業に取りかかったが、それは想像以上に複雑で面倒だった。だからまずは母の手落ちをなおしてから、手をつけていないことを決めていった。その間の父との会話は事務的なものだけだった。これをどうする、あれをどうするといった言葉が単調なリズムで交わされた。冷めた夕飯の残りがむかむかする臭いを漂わせていた。背に感じる死者の存在が、部屋のすべてを凍らせていた。
「学校は、どうだ」
静けさに喉がつまっていたのか、かすれた声で父が話しかけた。
「まあ、それなり。楽しくはない」
「そうか。お前の好きなことはなんだ」
「ないよ。いつの間にかなくなった」
「そうか」
久々の父の声は、ひどくよそよそしかった。また
遅くまで準備がつづいたが、作業がひと段落ついてから、じいちゃんの寝ている和室に行った。線香の息づまるような香りが漂っていた。死者は生々しく白く、凍てついた静寂に就いていた。その静寂に耳を焼かれ、立ってでていこうかと思った。だが戻る方が気が引け、自然と正座になり、じいちゃんの白い手に触れてみた。
それは不気味なほど冷たくて、白くて、硬かった。皮膚の感触と温度が相容れないのが、恐怖をあおってきた。なおさら死を感じ、恐ろしかった。死者の温度が伝わってきそうで、右手を離した。しかし触っていた掌には、もはや消えない温度が残っていた。それにあのときの頬の生温い温度も蘇った。拭うことはできなかった。その晩は右手だけ温まらず、まんじりともできなかった。
―――――――――――――――
通夜に集まった人で、故人を好ましく思わない人なんていなかった。むかし馴染みの老人たちも、話の面白い、気のいい人物だったと口をそろえて褒めた。だれもが故人を惜しんだ。もちろん、じぶんも含めて。死が憎い。愛する人を奪っていった死と、死を運んできた白々明けの朝がおぞましい。
雪に巻かれた列を呆然とながめていたると、見ず知らずの老人を支える隼が、列のうしろの方に見えた。わざわざ東京から戻ってきたのだ。かすんだ世界に彼が色を添えていた。
隼は焼香を済ませこちらに歩いてきた。走り回る子供にぶつかりそうになってよろけ、ごめんねと謝り、つんのめりながら前に立った。明るい笑顔のまま話しかけた。親友を見て、喜びの感情が揺られても、表情が変わらなかった。死者の硬直が伝播したらしい。
「帰ってきてたのか。お前に会えるとは思わなかった」
「祐のじいちゃんには世話になったんだ。この前も会ったし、来なきゃ嘘だよ。月並みのことしかいえないが、お悔やみ申しあげる。祐にとって大切な人だったんだ。そんな顔になって当然さ」
「どんな顔だよ」
ついに笑顔になった。しばらく彼のおかげで、死の硬直はゆるんだ。
「いまは地獄の底に垂らされた、
この日はまだ涙を流していなかったが、この言葉であふれだしてしまった。もう立っていられなかった。張りつめた精神が思いきり緩んだ。
「こんな男につきあってくれるやつなんて、世界のどこ探しても、お前くらいだ。冷えるからはやく帰れ。忙しいんだろ」
しっし、と払うと、彼は眼鏡をなおしながら笑った。その関係の雰囲気が懐かしくて、思わずしゃがみこんでしまった。隼はしばらく横に立って、参列者をながめていた。粉雪がひらりと舞っていた。
「なあ、祐。なんで俺が人助けなんてことはじめたか、覚えてるか」
「いや、勝手にはじめたんだろ。クソみたいないたずらっ子がさ」
「覚えてないならいいよ。そりゃそんな顔もするだろうね」
落ち着いたのを見て取ると、彼はじゃあといって帰って行った。ようやく立ちあがることができた。隼の言葉のおかげで、心が軽かった。さきほどより足がまっすぐ立つ。親友はひとりいれば十分だ。それがあいつでよかったと思う。いつでも頼りになる、無二の存在だ。
火葬のとき、もはや揺れる心が残っていなかった。じいちゃんが、人生の
待っている間座って時計をいじりながら、ずっと桐嶋さんのことを考えていた。彼女の瞳にあったあの光、あれは恐ろしいが、じぶんになにかを与える。ああ、正気を失いそうだ。頭の中でごうごうという音が騒ぎ立ててくる。彼女の光がないと、いまは座ってもいられない。
収骨のときにだれかが泣いていた。こっちは涙も流れなかった。黒い服で、白い心だった。
『こんなに小さくなっちゃって』
だれかがそういった。
『タンパク質の塊だから、小さくなるのは当たり前だろ。すべて煙にまかれて大気にでていった』
火葬場の職員が骨を拾いあげた。
『これが人のなかの仏さんですよ』
周りの人は感嘆のような、悲哀の声をあげていた。
『それは
そのあとホールで、親族と食事した。変わらずじぶんは空虚だったし、母は我が物顔で食事にありついて、控えめな美しさの装飾に対して華美すぎると文句をいった。愛想よく、悲しそうに人と話すのを見て、また苛立ちがつのった。父はだれかと話しながらも挙動不審で、常に周囲を見回していた。父の滑稽な歩きぶりは一際愚かしく見えた。
葬儀が終わるまでに何度も何度も寺で念仏を唱えた。木魚の音を何度も聞いた。線香の香りも、
墓にでたとき、ひどく風が吹いていた。寒々しい冬晴れだった。
骨壺を埋めるとき、先祖の壺も見えた。いくらか年季のはいった壺たちだ。それはとても現世にあるものと思えず、もはや神秘的だった。そこに穢れなど、これっぽちもない。そのカロートの空気に触れると、胸が痛んだ。
そのなかにはじぶんの知りえない、はるかな時間が流れていた。じぶんの存在する以前から、じぶんに流れる血は時間の波にもまれていた。
ああ、罪深い。先祖代々受け継がれたこの血を、じぶんが汚している。
強風のなか、目を閉じた。じぶんの血潮の清流の中に、汚泥が流れていた。喉を掻き切って、その泥をいますぐに吐きだしたい。墓の石段が、喉を開くにはちょうどよく荒い面だ。頭のなかでは、何度も試行錯誤を繰り返した。いざとなると、実際は、動けやしなかった。
当然だが、じいちゃんの骨壺は先祖のものよりもはるかに新しく、美しくも
時間の流れとは、こうも理不尽に、過去を美しく濯ぐのだと思い知らされる。そしてじぶんはどこまでも時間のうえで無力で、自堕落だった。カロートはじぶんの手によって閉ざされた。その穢れない空気は、この手を突き刺した。こちらについてから晴れた日は一日たりともなかった。多くは雪で、葬式の日はかろうじて曇りだった。夜晴れた日ほどではないがひどく冷え、だれもが身を縮こませていた。風に揺れる
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