第5話 jealous
待ちあわせは新宿のアルタ前だ。隼と会うときはいつもそうしている。
ここに来るといつもじぶんがわからなくなる。まるで透明になってしまったようで、だれもじぶんを視認しないような気がした。
それにこの場所は、じぶんには賑やかすぎる。ネオンと街頭ビジョンの目に刺さるまぶしさは、いくらかすむ世界でもうっとおしい。それにこの人の多さ。長野より土地がないくせに、いったいどこからこんな人が湧きでてくるのかわからない。
それなのに、じぶんはそういうところによくいる。酒を飲みに、友人と会いに、買い物をしに、街に行く。他人からの目が嫌いだろうと、結局はそういう場所に迷いこんでしまう。
そのまぶしさから逃れるために目を閉じた。よくみんなこんなまぶしさに耐えられる。目を閉じたせいで、騒々しさはむしろひどくなった。人の声に押しつぶされてしまいそうだった。
突然がしと肩をつかまれ、びくっとして背筋が凍った。恐る恐るふりむいて、思わず安堵した。
「ようやく来たな。きょうの遅刻は何分だ」
「残念ながらきょうは時間ぴったりだよ。いつまでも変わらないと思ったら大間違いだぞ。いや、久しいな。寒いからはやく店にはいろう」
「知らん人なんて助けてるから、いつも遅くなるんだよ」
「別にいいだろ、どうせ待ってるはのお前なんだから」
彼とはずっと親友だ。中学まではおなじで、大学になって隼が都会にでてきたから、たまに会っていた。学校では馬鹿なこともたくさんしたが、人生についてもたくさん語った。唯一の親友といってもおかしくない。
店は小ぎれいな、木造り風の、よくあるチェーン店だった。きっと日本中を探せばこれに似た
最初は元気だったかとか、調子はどうだとかの話をした。久しぶりにあったから、話すべき他愛もないことがいくつもあった。じぶんの偏頭痛のことや隼の一年前の骨折についてなど、取るに足らないような身内話だが、これを話せるのはこいつくらいしかいない。
はじめは、隼との距離感を忘れていた。だから妙によそよそしい話し方になっていた。しかしすぐに感覚を取り戻して、馬鹿にしあう調子になった。ビールと煙草がよくすすんだ。
「最近どうなんだ、大学のこととか、おじいさんのこととか」
隼は眼鏡をなおしながら身を乗りだした。
「大学のことなら、そうだな、年々勉強が大変になってく。三年になってから実習ばかりで毎日こってり搾られてる。正直しんどいな。文系のお前らは暇そうで羨ましい限りだ、本当に」
「皮肉が染みるね。たしかに暇なことには違いない。がその分、君たちは就職に強いじゃないか。羨ましいよ」
隼の仕草や表情は根っからの人のよさを表している。常に緩んだ頬や、荒々しさのない仕草だった。
「それでじいちゃんのことは、そうだな。きょう見舞いに行ってきたけどな、なにやら別の病室に読書家の若い女性がいるそうだ、しかも美人らしい。口ばかり達者にならずに、はやく身体も達者になってもらいたいが」
「口すら達者になれないよりはいいじゃないか。それが聞けて僕はうれしいよ。祐のじいちゃんにはお世話になったからね、よろしく伝えておいてくれ」
煙草に火をつけながら、隼に大学が忙しいのかどうか聞きかえした。灰皿にはもう三つも溜まっていた。
「ああ、忙しいね。サークルにはいっているっていったことあったっけ。美術サークル。それのイベントが先に控えているから。毎日そればかりだよ。でもまだ絵の方向性が定まってないんだ」
ひっぱたいてやろうかと思った。そっぽを向いてため息と煙を吐いた。きっと眉間にしわも寄っていたのだろう。それを見て笑いだした。
「わかってるよ、勉強のことだろ? 忙しくはないさ、授業自体はね。単位はほとんど取り終わっちゃったんだよ。ゼミだって、ブラックじゃないし。それでも将来のためにするべきことはたくさんあるから、暇ではないといった具合かな。じぶんのするべきことを、じぶんのためにするだけさ」
口が開いてしまった。隼はもう、むかしのままではない。大学にはいってからも何度か会っているはずなのに、以前とはまったく別人のように思えた。ちゃんと前にすすんでいる。対してじぶんは、すべきことなんて知らない。以前のままの、一緒に悪戯ばかりしていた隼はもういないのだ。ああ、顔が熱い。それに眠くなってきた。
「じぶんのするべきことがわかっている隼は尊敬するよ、皮肉などではなく、純粋に。俺にはわからん」
「お前に褒められるとぞっとしないね」
「いいだろ、たまには。よし、別の話をさせてくれ、きょうはそのために来た」
顔をはたいて、姿勢を正した。視界が煙の白にかすんだ。
「予想はつく。
隼を見つめる視界が揺れている。たぶん飲みすぎた。酔いを覚ますためにまた煙草に火をつけた。
「きょうも颯紀が来た。もう殺してやりたい。そうじゃなきゃ、この堕落からぬけだしたい。まあそれができてたら、俺はここにいないけど。でも、その理由はわかってんだ、この怠惰と惰性が、クソ」
「その顔、やばいよ。歯ぎしりまで聞こえてきそう。颯紀さんの話するときはいっつもそう。まあ怠け者だとかいうけどさ、僕は祐が優しすぎるんじゃないって思うよ。颯紀さんの望みを断れないから。もしくは、まだ好きとか」
隼は眼鏡越しに、生真面目な顔で目を見つめてきた。彼は真剣な話をするとき、必ず人の目を見る癖がある。思わずビールを吹きだしてしまった。
「お前は正気か? 面白い冗談もあったもんだ。俺は愛なんてわからん。捨てられたんだ」
「違うのかよ。ならどうして、ずるずる引きずってんの」
「俺の怠惰のせいだといったろ。わからんやつだ。まあ、正直、俺もよくわかってないけど」
赤のマルボロの、嫌みったらしい煙が顔にからみついた。それを煙で吹いて飛ばした。頭が重くて、首を垂れた。
「どうすればいいんだ、俺は。教えてくれよ。このままあいつの犬のまま、
「キレるなって。それはもうきっぱりいうしかないんじゃないのかな。いえたら苦労はしないのだろうけどさ、やっぱり節目は必要だよ。火のないところに煙は立たぬ、じゃないけどさ。なにもなければ、なにも起きない。颯紀さんと彼氏の間でなにかが起きて、祐との関係を終わらせるかもしれない、でもそうじゃないかもしれない。そしたら、お前はいまのままだ。だからじぶんで動くしかないじゃないか。もちろん動きだすには力がいる。歩きつづけるより歩きはじめる方が、立ちつづけるより腰を上げる方が力を使うものなのさ。でも君はひとりじゃない、僕がいる。僕が君の背中を押そう、必要なら叩こう。お前が動けば、周りも動くのさ」
「なるほど、感謝するよ。がんばってみなきゃな。でもお前に話せてよかった。それと別件。お前にはどうでもいいかもしれないけどさ、かすんでるんだよ、世界がさ」
もうまともに座っていたくなかった。壁に寄りかかって、ぐったりしながら隼に問いかけた。
「なに? 世界がかすんでいる?」
「いうのも馬鹿らしい気がしてきた。まあ、ここ最近ずっとだ。寝すぎて夕方に目を覚まして、ぼやけてることってあるだろ。色が薄くなっているような、まぶしすぎるような。ずっとこうだ、寝ても起きても、早寝早起きしてもなおらない。まるで身体が、お前はだめだ、不足している、この世界に適していないのだって具合に責められてる気がしてならない」
「で、実害は?」
「いってしまえばただ色が薄いだけだ。せいぜい、精神的にしんどいだけ。たしか絵の技法にあるだろ。こすって色を伸ばす、みたいな。なんでか、これも理由は知らない。どうだと思う」
「ちょっと違うけど、ドライブラシみたいな? よくわからないな。医学の分野なら理学療法を学んでいる君の方が詳しいでしょ。それとも別の理由だというのかい」
「もしそうだとしたら、お前はどうだと思う、隼」
「ううん、あんまり君みたいな状況になったことないからわからないけどさ、いまの状況が関わってるだろうね。君は問題をたくさん抱えてる。親のこと、颯紀さんのこと。その他にもあるんだろ。だったら卵が先か鶏が先か、状況か見え方か、どっちかがなおればよくなるかも」
「なるほど。それならストリックランドにでもなるさ」
当然、隼は知らなかった。ストリックランドとはモームの著作である『月と六ペンス』の主人公だ。彼は四十歳になってから妻を捨てて絵を描きはじめた。はじめはそこらの絵画教室で、嘲笑されるような腕だったが、死後に世界的に評価されたという画家の話だ。彼はフランスで貧しく苦しい生活をしたあとに、晩年をタヒチですごした。この話は、画家のポール・ゴーギャンの話を元にモームが作った話だ。これよりあと三倍は話していたかもしれない。もうかなり酔っていて、景色がぐらぐらと揺れていた。
「だから、そんな才能が俺にもあるかもしれない。彼のように生まれる国も、持つべき家族もすべて間違えていたかもしれない。そうすれば俺も、変わってくるかもしれない」
「そんなこといって、君は絵心が皆無だったろうに。ともかく、僕は現状のせいだと思う。助言のしようがないけどさ」
「貴重な意見をありがとう。とにかく、すすんでかなきゃだめだなあ」
「僕で役に立てるのならよかった。ねえ祐、ぐでんぐでんだけど大丈夫? そろそろでようか、もうこんな時間だ。楽しい時間はいつもはやくて困るよ」
「名残惜しいが。また誘ってくれよ。きょうお前を誘ったのも、結構気合をいれた。そういう気力が足りないんだ。だから、よろしく」
「君の頼みなら」
JRの入口で隼を見送った。むしろ、隼にそこまで連れて行ってもらった、という方が正しい。
「じゃあな、相棒」
じぶんより小さいはずなのに、彼の背中はやけに大きく見えた。すすむ人間の大きさだ。唇を噛み、拳を握り、その背中をながめていた。
帰りの電車のなかで、座りもせず、ずっと外をながめていた。流れていく生活の光が、やけに卑しく、生々しく映えた。たまに横切る街灯やヘッドライトが目にはいると、まるで乗り物酔いでもしたかのように視界が揺れる。きっと、まぶしいくらいの光にじぶんはふさわしくない。この身の居場所など、じめじめとした居酒屋か、うす暗い家の天井くらいにしかない。光に酔いながら、世界の片隅みたいな電車のなかで、ため息をついた。
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