第6話 drawing

渚月なつきちゃん、きょうも絵を描くのかい」


 隣のおばあちゃん、満江みつえさんがカーテン越しに声をかけてきた。テレビに飽き、暇になったらいつもこうだ。きょうはわたしの物音に気づいたのだろう。


「ええ。ベッドで寝てたって暇なんですもの」


「がんばりな、身体を冷やさないでね。わたしもあと六十歳若ければ、やりたいことをいくつもやるんだがねえ」


「満江さんもまだまだお若いですわ。もしよければ今度、一緒にどうですか」


「いやあ、渚月ちゃんの邪魔はできないよ。それに、こんな目じゃない。行ってらっしゃい」


 屋上にでると、すべてさらってしまいそうな風が吹きぬけた。風の強さを忘れていた。満江さんはそのことをいっていたのだろう。あの人は目の前の景色以外は、なんでも見とおせる。


 すこしだけ描いて、あとは談話室に戻ろう。家の立ち並ぶ平地と、田舎らしい木々が広がっている。この景色だけは、むかしから愛おしかった。


 イーゼルのうえに乗ったスケッチブック、そこに鉛筆で線を描いていく。わたしはグリザイユしか描けない。黒と白だけの絵。黒と白だけの世界。これは追求だ。たどりつきたい場所を求め、さまよっているだけだ。わたしには似つかわしくないものかもしれない。完璧からかけ離れたわたしでは、無理なのだろうか。それでもわたしは描きつづけるしかない。わたしには、これしか残っていない。


 風がページをうるさくはためかせる。談話室に戻ってから、日が影を伸ばすまで描いた。


 わたしは囚われている。無機質な鉄格子てつごうしのなかで、ひとりもがきながら。わたしの魂はいかれている。だからわたしは蝶を描く。あの完成された美しさがほしい。自由を勝ち取る羽が、ほしい。


 きょうは終わりにしよう。これ以上は集中できない。ピアノだったらいくらでもできるのに、絵となると長つづきしない。しかしピアノはここにはないし、いまは向かいたくもない。


 絵を描くときはいつも、わたしのなかのなにかを消費しつづける感覚になる。疲れに首をもたげながら、病室へと戻る。そこで病室の向かいからひらりと、男の子がでていった。彼は落ちていた蝶の折り紙を拾ってながめていた。面識はない、しかしきっとお爺様の孫だろう。雰囲気ですぐにわかった。


 なぜ声をかけたのかは、わたしもわからない。好奇心か、それに似たなにかだと思う。彼はまるで風景から浮いているような、切り離されたような。かすんで、ひらひらと舞っているような気がした。彼に聞けば、答えが得られるかもしれない。ずっと悩み、考えつづけたこの答えを。


「ねえ祐くん。あなたに魂はある?」


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