第4話 disturbed

 じいちゃんにはむかしから世話になっている。長野にいた頃はよく家に行っていた。家出したときにも世話になった。


 高校のときこちらに引っ越してきたのだが、じいちゃんはその一年前、相模原に引っ越してきた。八十歳近い老人が、しかも単身で異境に引っ越すことなど滅多めったにないことだと思う。歳を取れば、ライフスタイルの変化についていけなくなる。理解できないが、じいちゃんはそうした。高校のときはふたり暮らしだったが、大学からは母親の意向でひとり暮らしになった。しかしそれでもじいちゃんの家には通って、顔を突きあわせていた。


 それで偶然、訪問した日にじいちゃんが倒れていた。そのときは本当に肝を冷やしたが、これでも医療人の端くれだから、心臓マッサージは適切にできた。

 三階はあの赤いカーペットではなく、灰色のリノリウムだった。やはり経年劣化で若干黄ばんでいるが、清潔感は残っていた。


「あ、祐くん。こんにちは。きょうも見舞いなんてずいぶん暇ね」


「別にいいでしょ、多田さん。たしかに暇だ。じゃなきゃこんなとこにいないよ」


 張りついた愛想笑いでしのいだ。他の顔なじみとなった看護師たちとも会釈し、病室へと向かった。


 三階の西病棟に着いた。時間がなく、かなり焦っていた。それは、ずっと抱えていた母のことを相談しにきたことと、そのあとに別の予定が控えていたことのせいだった。


 四人部屋の、右奥だった。はす向かいにひとりいるだけで、閑散かんさんとした部屋だった。


「おお、祐か。よく来たな。ずいぶん暑そうだ。アイスでもだそうか」


 声も顔もふざけている。いつもこうだが、心から安心する。老眼鏡を外して本を閉じた。古びたハードカバーで装丁されたドストエフスキーの白痴はくちだった。


 読書家で、暇さえあればページを開いていた。速読が得意で、ページをすすむ手がほとんどとまることはなかった。小説なら一日で読み終わってしまう。それでよく内容を理解できるものだ。


 病室に私物はすくなく、数冊の本とコーヒーしか見当たらない殺風景な部屋だった。


「いつもより元気そうだな、じいちゃん。それにしても冷えるなきょうは、アイスも見たくないくらい。調子はどうだ」


「いつも通り最悪さ。いまにも死にそう」


 くつくつと笑いながらほっかいろを投げ、よっこいしょ、と背をあげたベッドから足をおろした。じぶんは上着を脱ぎながら正面に座った。


「それにしても、孫がこんなに頻繁に来てくれるなんて、わたしは幸福だ。病院のなかで色々な人を見たけれど、ろくに見舞いに来てくれない患者もいたからな」


「なら俺に感謝してくれよ、じいちゃん」


 じいちゃんは精悍せいかんな顔つきで背が高く痩せていた。それでいて柔和な、かつ威厳をかもす老人だった。鼻はじぶんとおなじ、わし鼻で高い。目は細く二重で、眉は鋭くまっすぐだ。それらはむかしの栄光を示すみたいだ。頬はこけ、しわばかりになってもその威厳は健在だ。


「してないときなどないさ。お前が孫でよかったよ。まあ、そういう人は皆おなじ。窓の外をじっと見つめてじぶんの人生を振り返るんだ。自由に空を舞うとんびと、気ままに流れる雲をながめながらね。まるでじぶんは牢獄ろうごくにいるようだと。そしてこうなった原因を探し当てようとする。どうしてじぶんは孤独なのか、どうしてじぶんは病床に臥しているのかを。まるで砂浜に転がる貝殻を探すようなものだな。容易に見つかるものもあれば、見つかりにくいものもある。でもなにひとつおなじ形のものはないんだ。そして見つけるたびに、いちいち過去の日々を恨めしく思うものさ。じぶんの行動を間違ったものだと決めつけるんだ」


 貝殻を探すジェスチャーをしていた。思わず笑ってしまった。


「さすがの洞察力。外交官には敵わんな。じいちゃんもそういうこと、しているのか」


 じいちゃんはこういう力に関して群をぬいていた。一目見るだけでその人との会話に必要なものをおよそ見ぬいていた。腕時計を着けている人ならまずそれを褒める、靴は特に無難だ、と。国籍も人種も異なった人たちとの関わりのなかで、会話のエッセンスを抽出して純度を高めていったのだろう。初対面の人との会話は素晴らしい。彼の威厳はこういった経歴の影響だったのかもしれない。


「いいや、しないね。じぶんがしてきたことを恨めしく思うことはない。そもそもじぶんの行いを正しく評価しようとするのが間違っているだろう、それの行きつく先は自己嫌悪か正当化だけだ。実際には間違った間違えなかったではなくて、じぶんの選択してきた道があるだけだよ。足跡を踏み消しては、生きてきた甲斐がないしな」


「俺なんてまだ二十年そこらしか生きてないのに後悔ばかりだ。幸せなんてどこにあんのかもわからない」


「それは勘違いだ。後悔ならいくらもある。でもあくまでそれは後悔、恨めしく思おうなんて思わないさ」


 彼は目を背けた。どこまでが真実か、本当なのか怪しい。仕草には必ず理由がある、というのはじいちゃんから教わった言葉だ。


「そういえば貸した本、読み終わったか」


「あんな超長編小説を渡されて一か月で読み切れるほど暇でも聡明でもない。じいちゃんみたいな速読家でもない。そもそも鯨の説明をたびたび、しかも恐ろしいほど詳しく説明されたら読みすすまない。何度も妥協しかけているよ。だからまだエイハブ船長もピークォード号も健在だ。それにその前に借りた白痴も読み切っていないのに」


「どちらの本も退屈な部分があるのは事実だ。そもそも退屈な部分がない小説なんて存在しない。人の思想がすべて伝わらないのとおなじだからな。作者の思想が理解できないこともあるだろう、それが百年以上も前の小説ならなおさらだ。そんなところがあれば飛ばせばいい。それを差し引いてもなお素晴らしいのが、偉大な本なんだ。気負う事はない、明後日にはなにを読んだか半分は忘れてしまうものだからな。わたしが死んでしまう前に感想戦をしようじゃないか」


「ぜひとも。残念ながら間にあわなかったときには、墓の前で感想戦を繰り広げることにするよ」


 じいちゃんはまたくつくつと笑った。こんなジョークをいえるのはじいちゃん相手だけだった。教えたのもこの人だが。じいちゃんはコーヒーをすすってから顎をさすり、ああ、と声をあげた。


「向かいの病室にいる女の子を見たことがあるか。白痴を読んでいたのだ、珍しいことにね。歳はたぶんお前とおなじくらい、背は高くて痩身、鎖骨くらいまでの髪の美人だ」


 思いだそうとしたが、そんな人いたようないなかったような、という感じだった。蜃気楼のようにぼんやりと浮かぶだけだった。


「覚えてない、それが?」


「声をかけられたから、いまはリハビリに行ってるはずだ。談話室にいるのを見てな、思わずわたしの年齢も忘れて話しかけてしまった。とても礼儀正しくて気立てもいい、感じのいい子だった。本の話をしたらとても嬉しそうに語ってくれたよ。わたしも実は好きなのだといったらなおさら目を輝かせていた。たくさん話せたしな」


「若い子に色目を使うとは感心しない。半世紀遅いよ」


「それもまた一興と思え。なんにせよ今度話してみるといい。粗野な話し方しかできないお前でも、差支えなく話せるはずだ」


「なんだよ、それ。今度会ったら話すよ。じいちゃんが迷惑かけてすみませんとね」


「存分に感謝されてくるといい」


 じいちゃんはまたも、くつくつと笑った。済んでから彼は顎をさすった。これはじいちゃんの、なにかを思いだしたときの癖だ。


「一応じぶんの洞察力を信用していっておく。身体こそ細かったけれど、外から見たら病人には見えなかった。それに彼女から病気の話は一切ださなかった。こういうときは大抵、その話題がでるものなのだがね。話といえば本のことと、お前のこと、それに彼女の家族に関係したことくらいだ。顔を見たことくらいはあったからな」


「つまりじぶんの病気を知らないか、病気のことを話したくないってことか?」


「前者はないだろうね。そのあたりの話はなるべく避けた方がいいかもしれない、気をつけておくことだ。話しかける前は、ずいぶんと元気がなさそうだったというのもあるから。他人とじぶんとの境界を忘れるなよ」


「耳にたこができそうだ。わかってるって。病人ってのは大抵、身体と同時に心も病に侵されるものだから」


「ならいい」


「ずいぶん肩いれするね、その子に」


「若いからな。老人ですらセンシティブになりうるところだ」


 この人は、他人と思う人間が多い。それ故に、身内だと思う人間にはとことん肩いれする。それだけ愛着らしいなにかを感じているはずだ。そして、それに伴う理由も。その寂しげな仕草が、そう思う理由だ。


「ところでもう、写真撮っていないのか」


「ああ。結衣奈さんにいやというほど罵られたからやめた」


 うしろめたい気持ちと、怒りが沸きあがってきた。でもようやく親の話ができる。


「母さんか。わたしはお前の写真を楽しみにしていたんだがね。愛してもいた」


 そのとき、看護師がカーテンを開いた。


「失礼します。本多ほんださあん。あ、ごめんなさい。祐くんがいたのね。あとでまた来ます」


 なぜいま邪魔がはいるんだ。ため息をついた。時計を見ると、もう刻限をすぎていた。それを待っている暇はない。


「あ、いや、いいですよ。そろそろ行くよ。本当はきょう話したいことがあったんだが、今度にする。また来るからそれまで生きててくれ」


 邪魔にならないように立ちあがった。


「一週間後には墓のなかかもしれんな。気をつけて」


 ようやく親のことを解決しようと行動に移そうと思ったのに、出鼻をくじかれたのは痛い。どうにかして、このクソったれた泥沼から抜けださなくてはいけないのに。


 予定に間にあうか怪しかった。駅へ向かおうとしたが、正面の病室の入口で足をとめた。貼られたネームプレートを見ておきたかった。名前はふたつあったが、ひとりは初枝満江はつえだみつえ、ひとりは桐嶋渚月きりしまなつきと書かれていた。おそらく後者が、じいちゃんのいっていた女性の名前だろう。話を聞いただけでは思いだすことも想像することもできなかった。あきらめて出口に向かった。


 そしてじいちゃんの彼女への興味は、じぶんにとって少々違和感があった。まるで懐かしい写真の話でもしているかのような、そんな郷愁を感じさせた。亡くなった妻のことを思っているのだろうかと考えたが、その人はそもそも会ったことも、話を聞いたこともなかった。


 向かいの病室の前に、蝶の折り紙が落ちていた。鮮やかで、美しい蝶だった。


「ねえ祐くん。あなたに魂はある?」


 拾おうとしていたら、ひらりと女性とすれ違った。振りかえると、わずかに背中と髪が見えた。魂だとか、なにをいっているのだ。もしかして、いまのが桐嶋さんか。だとしたらよほどの変人だ。気にもとめず、駅へ急いだ。


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