第3話 encounter

 結局、その日は朝からずっといらいらしていた。授業の内容なんてなにも頭にはいらなかった。拳の痛みとは裏腹に、香水の香りはうすれてきた。


 四限の最中、高次脳機能障害こうじのうきのうしょうがいの授業だった。先生が優しいからか、いつも一緒にいる男たちがじぶんの方を向いて話しかけてきた。


「きょうの飯、どうする? 食堂でいいか?」


「パス。じいちゃんの見舞い」


 笑顔を向けた。じぶんはいつも、これでごまかす。


「またかよお。つれないね」


 逆にほぼ毎日、夕食を供にしていて飽きない方がおかしい。その言葉は無視して、本を読みはじめるふりをした。本当はさっさと見舞いに行きたかったが授業中だし、無関心を示すにはこれしかない。


 目がページを滑る。苛立ちは収まらなかった。颯紀さきのことで苛立っていたのに、いまでは形ないものに対してだった。ぬけだしたいのに、めんどくさい。めんどくさいと思うじぶんすら憎らしい。


「で、ゆうはどう思う?」


「ん、ああ、そうだな」


 それには笑顔ではにかんでおいた。前川という男があきれた顔でこういった。


「テストの話だよ。中枢のテスト、外部の先生の講義まで範囲にはいってんの?」


 じぶんなしで会話がすすむのは慣れた。じぶんの人生なのに、まるきりじぶんのものにできていない感覚だ。腕時計をちらと見ると、もう五分も授業の終了時間をすぎていた。


「俺にそれを聞くか。なにも聞いてなかったに決まってんだろ」


「だよなあ」


「じゃあ、きょうの講義はこれで終わりです。お疲れ様でした」


 その声を待っていた。彼らが話すのをわき目に、支度して病院へ急いだ。まったく、さっさとじいちゃんのところに行きたいのに、物わかりの悪い先生だ。


 五分でじいちゃんのいる南病院に着いた。病院はふたつあって、南病院みなみびょういん本院ほんいんとがある。ひとつは急性期きゅうせいき病院で、発症してすぐの患者が運ばれる。他にも病院としての機能を数多く持っている、地域にとっても重要な病院だ。もうひとつの南病院は回復期かいふくきで、急性期をすぎてもまだ生活に戻れない患者が入院する。


 じいちゃんもはじめは本院の方にいた。しかし歳のせいか引きこもりのせいか、今度の入院で一気に悪くなった。だから南病院に転院することになり、リハビリを継続している。


 南病院は古めかしい。もうすこし鮮やかだっただろう外観は、褪せたピンクになっている。陰気くさい雰囲気というのが、正直な先入観だと思う。


 さきほどまでの怒りはもう忘れた。じいちゃんはそんな穢れとはかけ離れた位置にいる。なにもかも忘れて、会話に没頭できる。足取り軽く正面入り口へはいろうとすると、向こうからも男がでてきた。思わず辟易へきえきした。いま一番会いたくなかった人だ。


「おお、祐じゃないか。いつぶりだろうね。元気にしていたかい?」


「まあ、相変わらず元気でしたよ、一吹いぶきさん。あなたはずいぶん疲れた顔してますよ」


 颯紀の彼氏だ。以前はずいぶんよくしてもらった。飲みに連れて行ってもらったり、部活でも話しかけてもらったりなんてことがよくあった。


「相変わらずっていうのなら、元気じゃあないんじゃないかな。冗談はよそう。ああもう、疲れているね。実習というのは精神的に参ってしまうよ、気を常に張りつづけていなくちゃいけないから。いくら見学ばかりだといえ、ね」


 彼はコミュニケーション能力に長けていて、学生責任者がくせいせきにんしゃ も任されている。その慇懃いんぎんな態度や角の立たない話し方が、大勢にとって好印象なのだろう。


 彼は背がかなり高い。普通より痩せてはいるものの、かえって彼の端正な容姿を際立たせている。大きい茶色の目と軽く緩んだ唇が一番印象深い。


「でも一吹さんなら愛想もいいし、話し方も態度も申し分なさそうですが。おまけに知識も完璧だ」


 皮肉をこめつつ頭ではどうはやく切りあげるか考えていた。じぶんも愛想笑いでごまかし、一吹さんはふふと笑った。


「お世辞をありがとう。でもそんなことはないよ。僕は僕なりに大変だったんだ。館内放送でバイオリンの音が途切れなかったから、耐えがたくてね。いや、僕の愚痴なんてどうでもいいんだ。なあ、たまには山岳部においでよ。君は山が本当に大好きなんだろう? そこらの凡俗とは違う。カメラも持って、行こうじゃないか。メールも来ているだろう?」


「ああ、来ていることには来てます。でももう写真を撮るのはやめにしたんです。色々とあって」


「以前の君の写真は大好きだったんだがな」


 一吹さんは緩んだ唇をゆがませ、残念そうにため息を吐いた。


「ありがとうございます。あとは俺の出不精のせいでしょう。こもっていてはだめだと思っていながらも、なにもない日は布団から動けないんです。食事をまるまる取らない日だってあります。だから体重がどんどん減っていって、体力らしいものなんて残っていません。だから俺のことは気にしなくて結構ですよ」


 クソ。この人を見ているとじぶんが欺いていることを思い知らされる。それに遊び歩いたときのことを思いだして、後悔で消えたくなる。


「そんなわけにはいかないよ、君が好きだから。それに皆と馴染めないことなら気にしなくていい。みんな気さくでいい人たちだからね。いつでもいいからおいでよ。僕も含めて、だれかしら部室にいるはずだからね」


「ありがとうございます。その言葉にあずかって、好きなときに行かせていただきますよ。部長さん」


「待っているよ、今度も行くからさ。どこだったかな、近くの山だ。あ、聞いてほしいことがあるんだよ。他愛もないことだけどね。颯紀たちと明後日遊びにいくんだ。実習の息ぬきだね。前半後半にわかれていて、颯紀たちはもう終わっているんだ。ひさしぶりに会えるから楽しみにしているんだ。実習のストレスから逃れたいからね」


 一吹さんは、口を開けばあいつのことばかりだ。その気持ちはわかる。もうじぶんには理解できないが、あいつには他の人にはない、蠱惑的こわくてきな魅力がある。かつてはあの果実みたいな笑顔を、よくながめたからわかる。それに勉強だけなら頭もいい。学歴主義的な彼にはぴったりだ。


 対してじぶんは気が重くなるだけだった。この人はじぶんと颯紀の関係を知らない。にじった拳が痛みだした。


「そうなんですか。なにしに行くんです」


「飲みと、そのあとにダーツかな。僕のために」


「なら独壇場でしょう。疲れているでしょうし、羽を伸ばしてください」


 腕時計を見た。もう逃げてしまいたかった。穢れも罪もない場所へ。


「ありがとう。ああ、時間を取ってしまって悪かったね。それじゃあ、また飲みに行こう。あんなに頻繁に行っていたのが嘘みたいだよ、本当」


 相槌を打って、それでは失礼しますと一吹さんのもとを去った。彼は手を振って見送っていた。


 じぶんが彼に対して抱いている感情がよくわからなかった。引け目を感じ、とにかく落ち着かない感情だ。むかしは尊敬していた。理想だと思っていたし、本当にじぶんを変えてくれる人間だと信じていた。いまはもう、このざまだ。


 一吹さんのことを心から信用してはいないが、だれかから嫌われてしまうのは、辛抱ならない。じぶんの矛盾はわかっている。個人を嫌いだといっておきながら、嫌われたくないなどと。そもそも最低なクズにそんな資格はない。


 すこし足早に、無愛想な受付をとおって三階、祖父の病室へと急いだ。



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