第2話 ceiling

「おい、颯紀さき。近所迷惑だから足音立てんなって、何度いえばわかるんだ?」


 我慢の限界だった。苛立ちまぎれにそういってやった。


「見てよ、これ。あんたのこと記事に書いてる。無趣味でやる気のない大学生が増えてるってさ」


 顔を拭きながら、下着だけの女が洗面所から戻ってきた。スマートフォンをこちらの顔の前に突きだした。昨晩こいつにかかっていた魔法はどこかへ消え、みにくかった。


「だからなんだ? お前だっておなじようなもんだ。堕落して、溺れてる」


「あんたと一緒にいるせいよ」


 彼女はいやしくにやついていた。洗面所から水滴の音が聞こえてくる。それすら許せない。


「目ざわりだ。どけ、クソ野郎」


「あーあ、なんだか気でも違っちゃいそう。疲れた。あんた、きょう一限から?」


 スマートフォンをベッドに投げて、化粧をはじめた。寝起きとは違って、忙しいくらいにてきぱきしていた。


「二限から」


「ああ、整形の授業か。楽でいいじゃない。優しい先生なんでしょ」


 別に、と答えて、洗濯物の山からじぶんの服を拾った。


「二限からって幸福よね。朝苦手なの、知ってるでしょ。一限だと余裕がなくていやなのよ。それにお父さんたちとおなじ食卓を囲まなくて済むもの」


「どっちでも変わらない。早起きだろうがなんだろうが、俺は起きようと思えば起きれる」


「なにもなければずっと起きないくせに。あ、今度も連絡はわたしからするから。絶対あんたから連絡しないで」


 彼女は化粧を終えた。だぼっとした服で、みっともない。だらしない身体を隠したいだけだ。


「いい加減、そのいい草はやめろ。俺からしたことがあるか? うっとおしい。はやくでてけよ」


「なにいってるの、保険だって、保険。念を押しておかないと、あんたがいつ狂うかわかったもんじゃない。仮にでも、気づかれたら困るでしょ。それにさ、まるでこの関係がいやみたいないい方するじゃない。それならなんで突きはなさないの。別の女を作るか、一言いえばいいのよ。こんな欲を満たすだけの関係はいやだ、もうすべて終わりにしようってさ。わかってる、そんな気力ないものね。惰性の虜になっているあんたにはね。ねえ、塩崎祐くん?」


 怒りもなく、悲しみもなく、嘲笑ちょうしょうの表情だった。もう支度は済んでいた。乱雑にポーチや着替えを突っ込んでバッグを抱えた。対して、じぶんは頬を引きつらせて立ち尽くしていた。


「それじゃあ、またね。ベッドのうえではあんたのこと、好きよ。本当に」


「それをいってどうする、欲望の豚。それでお前と一吹いぶきさんの夜伽よとぎの事情がよくなるのか? 違うだろ」


「うっわ、怒った。きょうは虫の居所が悪いみたいね。はいはい。いったわたしがアホだったわよ。じゃあね」


 颯紀は前を向いたまま手を振って去った。扉の向こうにヒールの整ったリズムが響いていた。二度と颯紀がこの扉をくぐることがなければいいのに。思いきり拳を当てて扉をにじった。


 支度に戻ろうと思ったとたん、遠ざかっていたヒールの音が早足になって戻ってきた。つい舌打ちがでた。わずかに扉が開いた。


「そうそう、洗濯かごにわたしの服がはいっているから、一緒に洗っておいてね。ドライのもわけてあるから。それと、もっとまめに掃除した方がいいわよ。それだから彼女ができないんだ。じゃあね、塩崎祐くん。いい人見つけなさいよ」


 扉が閉まると、今度は思いきり扉をぶん殴った。脳血管でも切れるかと思った。そして虚しくなり、大きくため息をついたあとに身支度を終わらせた。この堕落から、逃げてしまいたい。


 ベッドに倒れ、香水のびんを手にとった。いつ買ったか覚えていないブルガリのプールオム。気品があって、穢れない。じぶんの手首につけ、首に広げた。ああ、この香りがこの身の穢れをそそいでくれないだろうか。


 水彩画みたいにかすれた世界だ。このかすれた天井が憎い。かすれた世界を見せるじぶん自身も憎い。すべて洗いながしてくれたらいいのに。


 人間のことは好きだ。素晴らしい絵画、文学を生みだし、時代を作ってきた。ことさらそのふたつはじぶんにとって大事だ。人間の美徳も見ていて心打たれる。赤子の鳴き声には思わず笑顔になる。この香水だってそうだ。


 しかし、全体が愛おしくても、個々人となるとだめだ。どうしても肩いれできないし、拒絶したくなる。


 腕時計をつけようとじぶんの手を見ると、皮膚がはがれてしまっていた。気づかなかったらよかったのに、痛くて真っ赤だった。


 この時計だって、愛するもののひとつだ。ごつくて、繊細なデザインで、大切な時計だ。丁寧にねじを巻きなおしながら、扉へ向かった。


 扉をくぐるたび、肌に触れる外気が鋭く凍えていることを実感した。冬が深まっていた。相模原に来てから冬は寒くないものだと思っていたが、今年はどうも違っていた。


 きしむ扉は閉まった。煙草に火をつけ、はためくマフラーとともに紫煙が流れた。まるで雪国のような白い息だった。かすれた景色と煙がよく溶けあって、流れていった。

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