第24話 photo
ただ呼ばれた件にはすこしシビアにならなくてはいけない。日陽くん自身には、嫌悪も敵対も感じない。これだけで俺のなかでは十分おかしいが、彼の特異なところは、俺がむしろ好ましい人格だと思っていることだ。穏やかに笑っていて、ひかえめで、姉思いだ。はじめて会ってから何度か話す機会があったが、なおのこと彼に惚れこんでしまった。
それだけに、
ホットコーヒーを持って席につき、外の眩しい光に目を閉じた。コーヒーの香りに支配された空間。じいちゃんの匂いだ。いまだ空白はこの身に沈んでいる。しかし痛みながらでも、渚月さんのように強くあろう。楽しかったこともつらかったことも、すべてが糧になる。こんな考え、いままで浮かびもしなかった。苦しんで、悲しんでなお強く咲いているあの人のおかげなのだろう。俺を変えてくれた恩返しは必ず返そう。
最初とは大違いだ。いまではあの生命に燃える瞳も、レースの肌も、花の笑顔も、愛おしい。俺にとって、彼女がまぶしすぎたんだ。
満たされた感情でいると、突然肩をつかまれた。俺はぞっとして目を開いた。日陽くんも俺の反応にびっくりして笑っていた。こちらも笑ってしまった。
開いた視界は、この目によく馴染んだ。彼はカフェオレを買って席についた。彼の態度はいままで通り、物腰柔らかに、穏やかな所作だった。一方こちらは、背筋を伸ばして彼をのぞきこんでいた。彼は意外と背が小さい。女性なら、彼をかっこいいというよりは、可愛いというだろう。
「お待たせしたみたいですね。この前は突然連絡してすいませんでした」
「俺も返事をしなくてすまない。さて、日陽くん。早速だが理由を聞いていいか」
声を張りあげ、厳しめの口調に話した。きっと顔も引きつっている。本心を問いたださなくてはならないのだ、これくらいになって当然だ。
「理由なんて単純ですよ。颯紀さんが気になったからです」
「あいつには彼氏がいる」
「恋愛感情じゃありませんよ。人間として気になったんです。多くの人から好かれているんでしょう」
そんなに有名な女がなぜ俺なんかに構う。みじめな苛立ちに言葉につまった。
「君が気にかけるような人間じゃない。そもそもあんなやつ、どこで知ったんだ。いいのは顔と勉強だけだぞ」
「その彼氏から聞いたんですよ。知りあいなんです」
「
だれだか知らないが、親指をうしろに指した。真剣にこんな話をするのは珍妙だろう。
「たしかに美人ですね。興味ですよ。興味は人を活動的にさせるでしょう。一吹さんの彼女が、注目を集める人がどんな人格なのか、それが気になるんです。そしてその人がなにを見ているのかにも」
思わず振り向かされた。すでに演技の
「一吹さんに直接聞いたらいいだろう。やましいことがないのなら、それで十分だ」
「いまは忙しそうですから。あの人は前からそうなんです。忙しいときは返事がないんです。あなたを巻きこんでしまうのは申し訳ないと思います。お互いに知り尽くした仲でもないですし。でも頼れるのはあなたしかいません」
「最後の忠告だ。やめておけ。あいつと関わることもそうだが、そもそも人の女に手をだすのは危ないことだ。なにかしらの歯車がずれることになると思った方がいい。人は過ちを犯しているとき、じぶんでそれを気づけない」
された側はたまったものじゃない。颯紀と一吹さんの関係を知ったとき、精神がぐちゃぐちゃになっていた。どうして日陽くんはこれほどあいつに
「かまいません。僕はそうしなくてはならないんですから」
しばらく彼の顔を見つめたが、ついに笑ってしまった。あまりに真面目な顔でそう答えるからおかしかった。
「ああ、
日陽は、渚月さんに似た、しかしすこし異なった笑顔を咲かせた。それはどこか若葉を思わせる。この顔には信用を置いている。結局彼の考えは見えないし、理解もできなかった。
「どう使うかは
「もちろんですよ。それより、姉さんとうまくいってますか。好きなんですよね、祐さん」
なんの悪意もなく、こういう質問をするのが憎らしい。顔が熱くなって、コーヒーを飲みほした。咳きこみながらこういった。
「渚月さんには感謝してもしきれない。君からも礼を伝えておいてくれ」
「そんな
日陽くんはそっぽ向いてカフェオレを飲み干した。
「正直、答えるのは難しい。俺にもわからないからな」
「中途半端な関係をつづけるんですか。それは姉さんのためにも、あなたのためにもならないと思いますが」
「結論を急いてはすべてを台無しにしかねないだろ。俺には愛なんてわからないんだ」
肩をすくめた。彼はあきらめのいい、若葉の笑顔だった。
「僕の口出しすることではありませんね。すみませんでした。ひとついえるのは、きちんと姉さんと向きあって、それからきちんと考えてあげてください。僕からのお願いですよ」
「真面目に受け取っておくよ。でも、渚月さんがどう思っているのか読めないよ。あの人は性根から優しいから」
日陽くんは思いきりため息を吐いて、ガラスの向こうに流れる人をながめた。日を浴びる彼の横顔は、やはり気品があった。前髪のかかった瞳も透きとおって、彼の母によく似た琥珀のような穏やかな色だった。
「あなたほど、姉さんが親しくしたがるのも珍しいですけれど。祐さんのことを話す姉さんの目、全然違いますよ」
顔が熱い、暖房の効きすぎだ、まったく。人から聞くじぶんの評価なんて、母からの嫌味しかなかった。外の光が反射してきて、目に灯った。心地よい光だった。
「それじゃあ、はい。送っておいたから。あとは上手くやれよ」
「礼はいつか必ず。いまは最大の感謝を」
「ヴァイオリンでも聞かせてくれ。生で聞いたことがないんだ」
「そんなのでいいんですか。お安い御用ですよ」
日陽くんははありがとうございました、と立ちあがって礼をした。こういう場面でわかれ際を見失うのは嫌いだった。さっと支度して、心からの笑顔でわかれた。
帰るとはいったが、きょうは別の目的があった。自転車をとめてある、相模大野中央公園の方に歩いた。久しぶりでなまったこの腕を、リハビリしなくてはならない。公園は
なにを撮るかは決めていなかった。ぶらぶらと歩きながら探した。まず木々を撮ってみたが、これはしっくりこなかった。枯れた木は色がなくて暗すぎるし、殺風景だった。夏になればきっと、生命のあふれたいい絵が撮れる。次に遊具を撮ったがこれもだめだった。だれも映っていない遊具は
今度は階段を登って伊勢丹の方面に回って、公園全体を撮ってみた。しかしこれでは主題がはっきりせず、ぼやけた写真になった。どうしたものか。やはり腕が落ちているのは間違いない。腕といっても、ほとんどは構図を考える能力だとは思うけれど。ぼんやりと撮った写真をながめたが、やはりどれもいい出来とはいえなかった。風に吹かれながら、ぼうっと全体をながめた。こういう手持ち無沙汰のときに煙草があればおさまりがいいのだが、もう煙草はやらないことに決めた。
そして強い風が吹いて、水滴が顔に飛んできた。細かい水滴が煌めいて、思わず俺は微笑んだ。噴水を撮る角度はしばらく悩んだ。上、正面、近く、そのどれもしっくりこなかった。その末に、噴水の隣にある石段をいれて撮ることにした。噴水といっても一分に数回噴きでるだけで、それに人どおりが多かったからタイミングは難しかった。何度かタイミングを計って何度も撮ってみたが、どうも殺風景でもどかしくなった。動きのある水を撮るのは難しい。これ以上はきっと
しかしもう一度強い風が吹いた。また水滴が吹きあげられ、煌めいた。水面には、キラリと輝く光点が浮かんでいた。これだ。すぐにかまえ、シャッターを切った。わき目も振らず確認してみると、画面のなかのそれは、本物より劣っていた。
どうもうまくいかないものだ。笑って、カメラを仕舞った。優しい小指の冷たさは、まだ残っていた。
送ってほしいと説得されたから、帰宅するやいなや、噴水の写真を渚月さんに送った。彼女の返事ははやかった。
『これ、どこ? とても美しい写真。
写真に納得はできなかったが、彼女が喜んでくれるだけでその悩みはうすらいでしまった。他の写真も送ってみた。だがそれらは不評で、やはり最初に送った噴水の写真がもっともよいとのことだった。
渚月さんの絵もそうだし、はじめて写真を見せたときもそうだったが、彼女は鋭い
『今度は一緒に撮りに行こう』
送ったあと、恥ずかしさにスマートフォンを布団に投げつけた。通知音に冷静になって、確認した。
『本当。行ってもいいの。絶対行く。約束ね』
そのうれしそうな返事についほころびながらも、一層むずがゆくなった。
写真と久しぶりに向きあって、すこし疲れた。でも、今度は真っ向から向かえるかもしれない。だれかに跳ねのけられても、どれだけ
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