第21話 refrain

 この牢獄からぬけだした日から数日。ここはいつもどおり閉鎖的へいさてきで不変だった。年越しをともにすごせなかった家族たちが、新年を祝いに来ている。どこの病室もにぎやかだ。隣の満江さんも家族と談笑している。そろそろ足がよくなったから、退院が決まったらしい会話が聞こえてきた。夫は仏頂面だったが、娘さんは彼女によく似て人のよい笑顔だった。


 隼くんも、もちろん祐くんも、あれから顔を見せていない。わたしはまた、ひとりぼっちだ。


 きょうは家族が来る予定だったが、先に氷山先生の診察があった。柔和な顔ではいってきて、軽快に体調を聞いてきた。その調子はわたしを安心させてくれる。聴診器やらカルテを見て、軽く問診してから口を開いた。


「順調ですね。ただ、また倒れる可能性はゼロだといい切れません。現に二度目ですから、まだ退院は先ですかね」


 先日医者の担当が代わって、この氷山勇ひやまいさみ先生になった。数年前までは氷山先生だったことがあるが、今回で戻ったということだ。先生は北山大学病院の院長だ。それなのにこうやって現場で仕事している。功績こうせきも素晴らしいが、それよりわたしは先生の人柄を尊敬している。


「ありがとうございますわ。きょうはずいぶん顔色がよろしいんですね、先生」


「渚月さんが順調だからですよ。患者さんの元気がわたしの元気ですから」


本多ほんださんがいなくなってしまって、寂しいですね」


 氷山先生はお爺様も担当していた。ふたりの話しているところを見るのは好きだった。知性にあふれ、落ちついた大人の心地よさがあった。


「つらいですわ。本当に。立派な方でしたもの。安らかな眠りを祈るばかりですわ」


 わたしは目を伏せた。手元に置いた蝶の置物を手でいじった。


「先生は、どんな死を望みますか」


 彼は書く手をとめて、わたしの方を見た。不安そうな顔だった。


「渚月さん、順調だといったじゃないですか」


「そういう意味じゃありませんわ」


 彼は真剣に考えいった。


「望む死なんてありませんよ。ただ死ぬべきときに死ぬだけです。渚月さんは」


「わたしは、わたしの愛する人に囲まれて。それが理想ですわ」


 そこに母さんと日陽ひなたが入ってきた。日陽はバイオリンのケースを抱えていたから、帰りにそのまま来たのだろう。笑顔で横に座って来た。


 一方母さんの方は、面食らった顔をしていた。おぼろげな記憶だが、以前にも見たことがあるような、ないような。なにに対してかはわからないが、座らずに日陽の後ろに立っていた。


「では、失礼しますよ」


 氷山先生が一礼して、でていった。すると母が先生を追った。


「ちょっと待っててね」


 ふたり残されたが、日陽は日陽で話したいことがあったようだ。不思議そうな顔をしながらも話しはじめた。


「今更になっちゃうかな、紫苑しおんって人について。色々探してみたけどわからなかったから、慎一のじいちゃんに電話してみたんだ。あんまり詳しく教えてくれなかったけれど」


 わたしはお爺様になにも恩返しできなかったから、こうした形で恩を返すしかない。わたしは高揚して日陽の肩をつかんだ。感謝をいって、つづきを促した。日陽はくすぐったそうに笑って手を払った。


「ちょっと、近いって。親戚にいるって。なんならじいちゃんの妹だけど、もう死んじゃってるって。そんな人がいたなんて全然知らなかった。それだけだったよ」


 そんなに近縁だったのか。それなのにだれも知らなかったのはなぜだろうか。


「十分よ、ありがとう。退院したらじぶんでも情報を探してみるわ。これは本多のお爺様と約束したことですもの。恩返しは必ずしなくちゃいけないわ。探したら、お爺様のお墓に報告しにいかなくちゃだめね」


「尊敬するよ、姉さんには。僕はそこまで他人に尽くすことはできない。恩返しの精神はないからなあ」


「日陽だって、他人には無理でも、わたしたちには思いやりと助力をくれるでしょう。わたしはそれがすごくありがたいもの。いつもありがとうね」


 また、くすぐったそうに笑った。若草のような笑顔だ。


「当然だよ、家族なんだから」


 ぽんぽんとベッドを叩いた。


「あなたって、人を憎むことがあるのかしら」


「それ、わかってて聞いてるでしょ」


 なかなか見ない、皮肉な笑みだった。かつての出来事を思いだし、わたしは無神経さにもすこし胸が痛んだ。日陽は母さんが気になるのか、そわそわしはじめた。


「ちょっと飲み物を買ってくる。姉さんはここで待っていてくれ」


 廊下から、氷山先生と母さんの話し声が聞こえてくる。どちらも落ち着きのある声だ。


「待って。様子を見ましょ」


 日陽の手をつかんで、病室からちらとのぞく形をとった。


「なんだって? 幸雄ゆきおがもう。馬鹿な。いや、ああ。そうだったのか」


 氷山先生は壁に手をつき、細い声でそういった。お父さんの話をしているようだ。


「ふたりでいつも競いあっていたものね。懐かしいわ。あなたを見ると思いだしてくる、むかしのこと」


「いや、すまない。申し訳ないことを聞いてしまったようだ」


 日陽の方を見ると、ものすごい形相で先生をにらんでいる。


『姉さん、あれどういうこと』


『わからないわ。でも踏みこめる雰囲気じゃないでしょう』


「さっきもいったけれど、もうずっと前のことよ。気にしないで。もうむかしのわたしじゃない、克服したから」


「幸雄がいなければ、いまのわたしはいなかった。あいつだけが俺の」


 首を振って、身体を横に向けた。すこし思いつめた表情だった。後悔こうかいか、自責に見えなくもない。


「いや、そうか。娘さんのこともあって、大変だろう」


「そんなこともないわ。人間、本気をだせば意外となんとかなるものなのよ。もちろんはじめはどうやりくりしていこうかと思ったけれど。力を借りたり、切りつめたりすればね」


 先生は戸惑っていた。口が開いたまま、言葉がでてこなかった。


「すごいな、椿は。むかしから尊敬していたよ、君のそういうところ」


「ありがとう。相変わらずお世辞が上手ね、勇くんは」


「世辞などではないよ。君の魅力はいまでも変わらない」


「そんなこといっては奥さんに失礼でしょう?」


 たしかに、先生の左手薬指には指輪がはまっている。そのよく目立つ、派手なデザインの指輪は、小さい頃にはじめて見たときから覚えていた。


「いや。実は妻にも娘にも嫌われているんだ。別にいいんだよ」


 先生は苦く笑った。軽そうに話したが、表情は固まってしまっていた。


「君の家族が羨ましいよ。あんなにいい子がふたりもいて。まだ事務の仕事をつづけているのか?」


「いいえ。いまは花屋をやっているの。それと一緒にカフェも経営してるから、暇があったら。でも、そんな暇ないか」


「どおりで手が荒れているわけだ」


 先生は母さんの手を取ってじいと見つめた。懐かしむような、悲しむような顔だった。廊下の突き当りから注ぐ日差しが、影をなおさら際立たせた。わたしは困惑した。ふたりの関係性が見えてこない。母さんも手を引かない。表情は変わっていなかった。


『ごめん、姉さん』


 日陽が立ちあがって、早足で歩きはじめた。その横顔は真に迫っていた。伸ばした手は届かなかった。ふたりの方に向かっていった。


 先生はすぐに手を離し、笑顔に戻った。大した動揺もなかった。わたしは思わず顔をひっこめた。


「やあ、日陽くん、だったかな。どうしたのかな」


「飲み物が欲しかったんです。さ、そろそろ帰ろう、母さん」


 声からすると、笑ってすらない真顔になっている。さきほどの激昂した表情が思い浮かんだ。日陽がこれほど激昂しているのを見たのははじめてかもしれない。


「飲み物を買うのに帰るのかい。面白い子だ。では椿さん、また」


 声は笑っていた。しかし早足で病室の前を通り過ぎた先生の顔は、無表情で冷徹だった。


 日陽と母さんは戻ってきたが、母さんは何事もなかったかのように別のことを話しはじめた。外は騒がしい風が吹き、雨でも降りそうだった。


―――――――――――――――――――


「渚月ちゃん、いままでありがとうね」


 夜、満江さんが仕切りのカーテンをほんのすこし開けた。どうやら退院するのは明日のことらしい。


「それはこちらですわ。あのとき、満江さんが手伝ってくれなかったら、きっと一生後悔していましたから」


 彼女は慈愛じあいの表情を見せた。立ちあがって眼鏡をかけ、ピンクのはんてんを羽織った。そしてため息をつきながらベッド端に座った。


「ねえ、渚月ちゃんはまだ若いから、わからないかもしれないけれど。人に尽くすなんてことが、幸せとは限らない。その生き方はじぶんを殺していくだけだよ。老婆心からいうわね。そんな生き方はやめなさい。可愛いのに、早死にしちゃいやだよ」


「ありがとうございますわ。でも、それは無理です。わたしの人生は最初からそういうためのものだったんです。献身的な生き方は身を滅ぼします、そんなことは知っていますわ。わたしは、そうすることでしか生きられませんから」


 わたしは椅子に座って本を読んでいたが、それを置いて眼鏡を外した。わたしはそうやって生きてきた。お母さんを支えるために築いたその心を、いまさらどうこうすることはできない。恩は必ず返す。決めた人の支えになる。


「美人薄命とはいうけれど、なるほどこんなことかい。心まで美人だと身を殺すなんて、いやな皮肉だよ」


 彼女は感傷にひたって、涙を浮かべているようにも見えた。わたしに同情しているのか、それとも自らの境遇に照らしあわせているのだろうか。この病院にいる時間は、親密になるには短すぎる。その関係にしかなれないのは酷でもあり、幸せでもあるかもしれない。


 わたしはスケッチブックの一ページを切り離し、テーブル越しに満江さんへ渡した。


「満江さん、この絵を持っていって。退院祝いですわ」


 ベッドに座り、外をながめる満江さんの絵だこっそりと描いていたのだ。その隣には人ひとりぶん空けてある。受けとってすぐはにこやかにその絵を見つめていた。彼女は弱視だが、わずかに見えているらしい。


「あれまあ。こりゃじいさんには見せられないよ」


 次第に首を垂れ、絵を抱きしめ肩を震わせた。その声は悲しくて、若かった。目が悪いだけに、見えないものまで見えてしまうのだろう。


「ありがとうね、渚月ちゃん」


「おやすみなさい、満江さん。今夜はよく休んで、夜は怖いですから」


 思い返してみれば、先生とお母さんは、たしかに面識がない。小さいころ、入院中に氷山先生になって、また戻ってしまった。詳しくはわからないが、ふたり体制でわたしについていたらしい。どこかで蝶が羽ばたいて、わたしの知らないところで、なにかが動きはじめている。そんな予感がする。がさがさと揺れる外の木々が、ずいぶんと騒がしかった。

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