第41話 past

 渚月が退院したあと、旅行に行く前だ。電話でこんなことを尋ねてみた。夜闇に染まり、静まりかえった時間だった。




「なあ、渚月さん。はじめて俺に話しかけたとき、なぜあんなことをいったんだ。あれ、ただの変人」


 電話の向こうで笑っていた。この笑い声が、質のいい生地に触れているようで心地いい。


「祐くんがあんまりぬけだからよ」


「ひど。旅行に行くのやめようかな」


「冗談よ。まあ、これも変人よ。あなたが世界から切りはなされていた気がした、そうやって生きているあなたに問いたくなったのよ、魂はあるのかって。あのあと、恥ずかしくてあなたの方向けなかったわ」


「あなたの目は他人とは違うもんな、俺のことよく見てるよ。鏡みたいなやつは、そりゃ浮いてるよな。でも踏みこみすぎたくないとか、気にしないのか」


「お爺様の言葉でしょう、それ。たしかにそれは大事でしょうね。あなたじゃなければ気にしたかも」


「なんで俺だけ。貧相だからか」


「内緒」


 俺は天井を見あげていた。いままでのみじめな感覚はなく、なにも考えず、彼女のことを考えるためにながめていた。まるで真っ白なキャンバスになにかを描きだすように。


「あと、どうして夕焼けだったんだ」


「え?」


「いや、あの絵だよ。あの絵、俺の最近よく見る夢にそっくり。びっくりしたなんてもんじゃない。死ぬかと思った」


「ああ、別に夕焼けのつもりで描いたわけじゃないって、わかるでしょう。焼けてるかなんてわからないんだもの。知ってるかしら、モネの睡蓮よ、あれは。あなたの印象がそんな風だったからあれを描いたの。いまだったら、別の絵を描くかもしれないわね」


 胸を打たれた。あれは大好きな絵のひとつなのに、まったく忘れてしまっていた。あの景色に固執こしつしてしまっていた。たしかにそうだ、あの睡蓮に柳、太鼓橋。気づかなかったじぶんが恥ずかしい。仮にも絵画好きの端くれなのに。


「いってなかったっけ、俺画家が好きなんだ」


「月と六ペンスが好きって時点で、わかっていたわよ」


 渚月さんはくすくす笑った。きっとあの花のような笑顔だ。俺が死のうとしていたときのことを思いだす。いまなら、そんなこときっと考えつかない。


「魂があるかって、答えなかったよな。俺はそんな存在、あんまり信じてない。けれどもしあると仮定するなら、景色がかすんだのはそういうことだと思う。鏡みたいだっていわれたのも、きっと。もう他人から逃げるのはやめる。ちゃんと関わって、知って、それでも嫌いならつきあいを断つさ。写真もそう。あれは一時期、俺のすべてだった。抑圧したせいで、世界がかすんだんじゃないかって。だからもう逃げない。幸せを、魂を追い求めなくちゃ」


 電話の向こうで、かすかに波の音が聞こえた。静かな波が目に浮かぶ。そこに立つ彼女は儚かった。


「魂って、なんなのかしらね」


「さあ。あなたといれば、わかる気がする」


「買いかぶりすぎよ」


「渚月さんは、俺のことどう思ってる」


「情熱はあるけど気力のない写真家兼、理学療法士の卵。あなたは?」


「劣等感の塊なのに腕のいいピアニスト兼、独創的なグリザイユを描く画家」


 一拍おいて、お互いに笑ってしまった。


「祐くん、笑い方がお爺様そっくりになってきた。くつくつ笑うの」


「ようやく整理がついたんだろ。どこかのだれかさんが、死に逃げるなってどやすもんだから。結局、死を拒むだけじゃすすめない。いまでもじいちゃんは俺の先導者だから」


「来週の旅行、楽しみにしてるわね」


「じゃあな、渚月さん。おやすみ」


「おやすみなさい」


 心に揺れるさざ波が心地よかった。その晩、俺はまた夕焼けの夢を見た。いままでと違って、一瞬だけだ。燃えている世界のなか、橋のうえで、俺じゃないふたりの男女が語らっている。そんなかすかな夢だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る