第49話 envy

 仏壇は窓から注ぐ日をあびていた。部屋はうす暗い。畳の乾いた感触が心地よい。ここの部屋も、すこしだけ香水の香りが漂っている。グッチのエンヴィーだ。


 うちの畳の部屋は客間で、用がないとはいれなかったから、ここに来るたび新鮮な感覚だ。線香をそなえると、どこかおごそかな雰囲気になった。


 仏壇の横には、古めかしいが、綺麗なデザインの腕時計が置かれている。裏には、信じられないくらい精巧な蝶が刻まれていた。


 目を閉じると、波の音がすぐそこに聞こえてくる。引いては寄って、規則正しい波音だった。


「これからどうするのよ」


「さあ。しばらくはホテルをさまようことになるだろうな。でもな、不思議と大丈夫なんだ。颯紀も、椿もいる」


「別にわたしはなにもしないわ。あなたたちの集う場所になるだけよ。また来るんでしょう」


「墓参りだよ。そろそろ行く」


「颯紀ちゃんはまだ奥にいるみたいよ」


「ああ、わかってる。俺も用があるんだ」


 かすかに父さんと椿さんの会話がもれていた。そろそろ支度をしなくてはいけないらしいが、もうすこしだけここにいたい。この心地よくて、どこか整然とした気品のある空間に。


 重い足音が近づいてきた。そしてふすまががらりと開いて、低く静かな声が聞こえた。


「済んだか」


 父さんはまだどこかよそよそしい。さっきの会話を聞かれたと思っていないのだろう。心のなかで、わたしはにやついていた。


「もうちょっと」


 彼はわたしの横に座って、手をあわせていた。波だけが空気を揺らしていた。しばらくすると彼は立ちあがり、カフェへ向かう階段とは反対の方へ向かった。


「わたしもすこし、会わなきゃいけないやつがいるんだ。数十年来、会ってないから」


「行ってらっしゃい」


 すこし仏壇の前で考えを整理し、わたしは階段を降りた。ここはカフェと花屋、そして二階に居住スペースがある。席は多くないが、客と店員の距離が近く、温かい雰囲気のカフェだ。スーツ姿の椿さんがにこやかに迎えてくれた。きょうもてきぱきとして、カフェのマスターとしての風格があった。でもそれじゃ、椿じゃなくて牡丹ぼたんか。


「もういいの?」


「ええ、ありがとうございます。父さんはたぶん、幸雄さんのところに。突然押しかけたのにすみません」


「祐くんがいなくて残念ね。昨日はいたのに、みんなばらばらに来るんだもの」


 たしかにここに来ると、日陽くんと椿さんしか見ない。日陽くんとはなんでも話せるから、それはそれで楽しいけれど。椿さんはカップを拭きながら、あきれて笑っていた。優雅な笑顔だ、繁盛する理由もうかがえる。


「いいんです。あいつはもうひとりじゃないから。なにしてました?」


「あなたもいるものね。慎一さんとけど話してた、わからないか。わたしのお父さん、渚月のおじいちゃん、その人とね。紫苑さんって人の日記のこと、話してたかな。写真も見せてた。今度一緒に聞きましょ」


「連絡してくれれば、いつだって飛んできますよ」


 一吹もたまにここに来ているようだ。話すのは渚月さんのことではなくて、世間話だけみたいだ。祐なんかよりよっぽど落ちこんでいたのは内緒だ。とがめるのもわたしの仕事じゃなかったから、あと腐れない。受けとめきれているかというと、嫉妬めいた感情がないでもないが、わたしだって渚月さんの人柄そのものが愛おしいから。


「あなたが来たあと、うれしそうだったわよ、渚月」


 わたしはまた笑った。スタッフ用の扉から日陽くんがでてきた。


「あれ、颯紀さん。来てたんですか。なんだあ、いってくれればよかったのに」


「いいえ。すぐ帰るの。またバイオリンを聞かせてね。この前聴いたの、すっごく素敵だった」


「姉さんもきっとうれしいでしょうね。また来てください。祐さんも連れてきてくださいよ。あの人いっつも僕のいないときに来るもんだから」


「ええ」


「待たせた。行くぞ、颯紀」


 階段から声が聞こえてきた。どこか包みこむようで、大きかった。


「じゃあまた来ます、椿さん。日陽くん」


 父さんはわたしと椿さんにキャラメルを渡し、じぶんも食べるとさっさとでてしまった。手を振ると、椿さんもにこやかに振り返してくれた。強くて、優しい笑顔だった。この家族はなんて温かいのだろう。小さいころのじぶんをまたも思いだし、胸がいっぱいになった。


「いい医者になるのよ。お願いね」


 店をでる前の椿さんは、気丈に隠れてはいるものの、いつも寂しげだ。カフェをでて、花をしばらく見ていた。まだどれも区別はつかないが、新しい趣味も悪くない。わたしは鞄からデジタルカメラを取りだして、名も知らない花をおさめた。今度暇を見つけて、椿さんに教えてもらおう。


 駐車場から海を一望する。日を浴びてきらきら光る波が、ひとつの道を作っていた。穏やかな煌めき、この海はあのふたりのものだ。朝も夜も、ふたりの魂を映すためのキャンバスになる。昼に浮かんでいる月が、手も届かないくらい遠くに浮かんでいた。


 わたしはちくっと嫉妬を感じながら、カフェに飾ってある写真を思いだした。わたしはそれを心にしまってある。生涯忘れず、道に迷わないように。それは月光のなかピアノを弾く彼女、そして海を背に、笑顔で泣いている彼女のポートレートだ。まったく、わたしも負けてられない。


「じゃあね、渚月さん。祐を幸せにしなさいよ」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る