第20話① prison break
年越しを前に、病室の外の木々はさらに寒々しくなった。お爺様はわたしに欠かせなかった。わたしの相談事に、
あのマルグリットの話をしたのは、自らの死期を悟っていたからだろうか。なぜわたしだったのだろう。迫る死に不安を感じたのだろうか。
外は風が強そうだったから、きょうは病室の窓に向かってイーゼルとキャンバスを広げていた。およそ構図のイメージは固まった。あとはキャンバスに起こすだけだ。
見すえる蝶の置物が、日に当たって輝いている。この完成された
「渚月ちゃん、また絵を描いているのかい」
「ええ、満江さん。邪魔だったかしら」
「あんまり根をつめすぎじゃないのかい?絵を描くのが好きなのはいいんだけれど、ここ二週間ずっとかかりっきりじゃあないかい。寝てないでしょう。死んじゃうわ、渚月ちゃん」
「いいんです、わたしがやりたいんですわ」
「ちょっとごめんなさいね」
そういって満江さんはわたしの病室にあったスケッチブックを見た。たしか満江さんは視力が悪いはずだが、全盲じゃない。わたしは描きつづけた。どうせスケッチブックだ、なにもない。 しかし突然、満江さんは腕をがしとつかんできた。
「渚月ちゃん、こりゃなんだい。もうやめな。休みな。身体に障るよ」
彼女の顔は、おぞましい恐怖の顔だった。ばさりと乱雑に置かれたページにはわたしの描いた蝶が並んでいる。
もっと美しい蝶を描きたかったが、どうしても納得できるものは描けなかった。どれほど描いたかわからないが、そのどれもが不完全だ。すべて細部がゆがんでいる。それではだめだ。完璧を求めなきゃいけないのだ。でないとわたしは、またひとりに戻ってしまう。
恩人の言葉なら仕方ない。引っ張られるがまま、ベッドについた。そういえば、いつぶりに横になって寝るのだろう。横になった瞬間、満江さんが重なって見えた。
入院してすぐも、こうやってだれかにとめられた。あれはだれだったか。
「ほら寝な、寝な。こんな気違いみたいな絵ばかり描いてたら、本当に狂ってしまうよ」
そういって満江さんが布団をかけてくれた。言葉はこんなに荒くなかった。そう、そうだ。お爺様だ。なぜ忘れてしまっていたのだろう。あのときの記憶が
ああ、祐くん。わたしの魂はどこにあるの。これだけ蝶を描いたって、わたしにはそんなものがないの。こんなわたしには、そんな権利がないの。
目が覚めるともう夕方だった。昼ごはんは食べていないが、空腹感はない。絵を描かなきゃ、という切迫感は消えていた。
そうだ、祐くん。お爺様が亡くなってからもう二週間近くも経っている。顔を見ていない。彼は牢獄を忘れさせてくれる恩人なのに、わたしは馬鹿だ。
すぐにアプリの方で電話をかけた。しかし何度かけても繋がらない。電話番号でかけてみてもおなじだった。心の底がぐらりと揺れた。
今度は隼くんに連絡した。親友の彼ならなにか聞いているかもしれない。彼はすぐにでた。
「僕も心配なんです。居酒屋、とだけよこしたんですけど、わからないんです。それからもう返事がなくて。何度連絡してもだめです」
「心配になってわたしも連絡してみたの。でもでなくて。きっとずっとひとりだわ。だれかが心の支えになってあげないと。いつも行きつけのとこがあるのかしら?」
「あいつの腰は重いですから。せいぜい町田か相模大野でしょうね」
死に迫られたとき、人は素直に首を差しだしてしまう。それが生者であっても、魂をぬき去ってしまう。それを知っているわたしが支えにならなくてはいけない。へこたれている場合じゃないのだ。わたしが、動かなくては。
「わかった、ありがとう」
「探すつもりなら一緒に。もうあいつを助けられないのはいやだし、あいつは僕の親友ですから。あと、この前相談に乗ってもらった恩返し」
そして、わたしは相模大野、隼くんは町田駅にわかれて探すことに取り決めた。
服はスキニーと白いシャツと、ロングカーディガンだけしかない。薄めのものしかないが、どうせ動き回るのだ。ここからでる最大の難点は、看護師の目をどうやって逃れるかだ。
大した策は思いつかないが、ナースステーションは見つからないように四つ這いでくぐりぬけよう。ベッドには子供だましのスケープゴートを、衣類をまるめて作っておこう。あとは、祈るだけだ。
看護師が夜勤と交代するのは七時くらい、そろそろだ。病室でカーテンを閉め、音を立てないようこっそりと着替えた。すると着終わる前に、廊下を歩く人の音が聞こえた。息がとまった。きっと看護師だ、どこかの部屋で呼ばれたのだろう。
静まったなかで息をひそめ、中途半端な姿勢で動きをとめた。片足立ちが妙にきつい。足音が行ってしまうと着替えを終わらせて、外にでる支度をした。ちらと病室からナースステーションを見ると、ひとりだけ座って記録物にかかっているみたいだ。あの視線を突破しないことには、先にすすめない。
「渚月ちゃん。こんな時間にどうしたんだい。また絵かい」
声が聞こえた瞬間ぞっとしたが、すぐに安心した。ただその声には心配の色が混ざっている。
「ええと、いえ。違います、なんでもないですわ。ありがとうございます」
「どこかへ行くのかい。そんなにおめかしして」
「どうしてわかるんですの」
「これだけ生きているとね、色んな音がわかるようになるのよ。ほら、こんな目だから。あら、あら。なにやらばあさんは体調が悪くなってきたよ。看護師さんはひとりしかいないのかい」
「ええ、そうみたいですけれど」
「ひとりしかいないのに呼びだすのは申し訳ないわね。でも体調が悪いんだもの。仕方ないさね」
ナースコールの音がして、遠くから椅子を引く音が聞こえた。
「後悔しちゃだめよ、こんなばあさんみたいに」
すぐに看護師が来て、どうしましたかと尋ねた。わたしは心の奥で感謝の言葉をくりかえした。
靴はヒールだったから、階段を降りるまでは裸足だ。でもこれくらいなんともない。階段の重い扉を静かに開け、小走りで階段を降りた。久しぶりの階段はかなり体力を消耗した。下まで来ると荒くなった息を整えた。これほど体力が落ちているとは。
準備していたマスクを着け、ヒールを履いた。これできっと警備はごまかせる、はずだ。自信はある。子供のときからよく大人に間違われた。落ち着いて、そっと扉を開いた。暗さでほとんど前は見えない。普通の人なら、それなりには見えるのだろうか。かすかな視界と壁を頼りにすすんでいった。
正面玄関は当然のごとく施錠されていた。それなら夜間出口があるはずだ、と回ってみるとやはりあった。鍵は番号式だった。幸運だ。これなら手段はある。楽観的になっていい。ここに完璧はいらない。わたしはつてに連絡した。
鍵をゆっくりと開け、近くのバス停に向かった。病院の周りに植わった木々が、夜の街灯にうっすら照らされていた。葉のない
ひとりで待つバス停は不安で心細かったが、幸いバスはすぐに来た。バスに乗って外をながめた。ささやかな街灯が道を照らし、家のどれもに人々の生活が息づいている。帰宅する社会人や大学生が自転車を漕いでバスといたちごっこしていた。世間から離れてしばらく経ったせいか、それがじぶんにとって遠く、羨ましい。じぶんもそこで息づいていたはずなのに、あの生活という
階段の疲れか空調か、ぼやっとした感覚で外をながめていると、もう相模大野駅に着いた。パチンコ屋の
片っ端から居酒屋を探し回ったが、そのどれもが外れだった。
いったいどこにいるのだろう。きょうは間違いなく動きすぎた。息が苦しい。高いマンションたちが威圧的に見おろして、じぶんの情けなさをあざ笑っている。だめだ、あきらめるな。きっとどこかにいる。一度駅に戻って、行っていない居酒屋がないか調べることにした。だがもう行っていないところはない、小さい店も行きつくした。
「こっちはどこもいないわ」
「こっちもです。もうおおむね探し尽しましたよ」
万策尽きた。膝から崩れそうだったが、改札の向こうから、正面から肩を組んだふたりが歩いてきていた。女が男を支えていた。近くに来るまでわからなかったが、祐くんだ。もうひとりは背の低い女だ。明るい髪で、ルーズな服を着ている。崩れかけた意識が引きしまった。
「どうしました。渚月さん」
「見つけた。女の人に抱えられてる」
「もしかして、背の低い金髪の人ですか」
「心当たりがあるのかしら?」
「不審者ではありません、ひとまず安心です。よかった、死んでなくて。いや、いいのかな」
それなら彼女はどんな名前で、どんな人間なのか。
「ありがとう。ねえ、あの人の名前を聞かせてくれないかしら」
「颯紀さん。今度見舞いに行きますから、聞きたいのならそのときすべて。きょうはもう帰りましょう。渚月さんの身体に障りますから」
もう一度感謝し、電話を切った。
颯紀さんもこちらを見た。彼女の目は嫌悪によどんでいた。きっとわたしとおなじことを考えているからだろう。この女にだけは、祐くんを任せていられない。根底からこの女を肯定できない。あなたの腕にいる人は、あなたにふさわしくない。
いつまで交わっていたかわからない。一瞬か、一時間かわからない。ただ異質な時間が流れていた。すれ違ったときその感情は、紙が燃えるように一気に強くなった。
つづきます↓
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