第19話② corruption

↓つづきです


 たまに一秒ほど言葉がでてこないときがあるが、楽しそうな調子だった。悲惨ひさんな部分も軽い調子で話すせいで、拍子ぬけだった。激しいくらいの身振り手振りで感情を伝えるから、電灯はふらふらと揺れた。それが頭も掻き回して、目の前のものがすべて揺れて見えた。煙草の灰が机に落ちた。


「いつしかじじいにも恋人ができた。とても美しい人だった。長い髪で、しとやかな振舞いだったよ。とてもこのいじめられっ子だったじじいにはもったいない人だった。それでもこのじじいを、愛してくれていたのだよ。なんと、じじいと女は結婚まで考えていたよ。それはまったく夢ではなかった。でもひとつだけ問題があった。じじいはいままで真面目に生きてきたぶん、愛し方を知らなかったわけだ。人を愛するにはやり方を知らなくてはならない、数学のようにね。これは格好いい君ならわかることだろうね。そんなじじいは当然、高校生やらがよくやるように、むやみやたらに、感情の赴くまま愛したのだ。それがよくないことだなんて、学校じゃあ教わらなかった。じじいはそんなこと、知る由もなかった」


 どもりさえなければ、話し方は流暢で上手な抑揚のつけ方だたった。じいさんは立ったり座ったり、歩いたりをくりかえしていた。吃ったときはジャック・ダニエルというウイスキーをくっとあおった。


 一方、グラスを見つめて、錆びついた脳みそで考えた。もしやこの男は、当てこすりをいっているのではなかろうか。どうやったのか知らないが、このじじいはこちらの中身を見ぬいて、脚色きゃくしょくを加えている。この堕落だらくしたじぶんを嘲笑あざわらうために。


 くそ、忌々しい。そう思うだけで、身体はぴくりとも動かなかった。彼を憎悪の目でにらみつづけた。今度は杖で床をかつんと鳴らしてはじまった。


「そしてじじいは堕落していった。愛の吐きだす泥に溺れていったのだよ。愛は人の欲望をすすって泥を吐きだすものだ。まったく、この世で最も汚い泥だと、じじいは思う。それからは仕事も生活も、真面目さを欠いたのだよ。愛の欲望というものは、生活のすべてを賭してもまだ腹を膨らませないからな。でもね、じじいはその愚かさに気がつかなかった。泥のなかからじゃあ、世界は暗すぎてなにも見えなかったのだよ。それからはもうはやかった。副社長がそれを見かねたのだ。あまりにひどかったからすぐに解雇になったわけだ。気づくわけもなかったが、じじいは同僚からもうとまれていたのだよ 。仕事はミスばかりで遅い。話せば女のことばかり。そんな人間が歓迎されるはずもない。そして彼女もじじいを捨てた。捨てるときは手もなかったのだよ。あれだけ焼けつくような愛の言葉を吐いておきながら、むざむざとゴミのように。ああmon amiわが友、これだけは覚えておいてほしい」


 杖を打ち鳴らし、穏やかだった声を突如荒げた。これ以上話をつづけるな。皮肉をぶつけるのがそんなに楽しいか。憎たらしい。こんな話をしながら笑ってやがる。ああ、痛い。座っていられない。


「愛とは堕落なのだよ。彼女のせいでじじいの人生は潰えた。愛などなければ。彼女さえなければ。副社長さえなければじじいは、わたしはこんな人生を歩かなくて済んだ。すべてあいつらのせいなのだ。きっとわたしは真面目なまま、成功して金を得て、妻を得て、子を得て、なにもかもを手にいれていたはずだ。わたしは、こんなところで腐っているわけがなかった。そしてこの話にはつづきがある。簡単な話さ。副社長と女は愛しあっていた。きっとわたしを愛していながらも、副社長をも愛していたのだ。そこに天秤はなかったのかもしれないが、じじいはそれを聞いて戦慄せんりつした。憎悪したのだよ。許せるはずはないさ。愛する女が浮気していたのだから。何度も喉を掻きむしったのだよ。何度も、何度も何度も。死んでしまいたかった。消えてしまいたかった。死ぬまで血を流して、気道を突きやぶって、死んでしまいたかったのだ」


 杖を強く鳴らした。見覚えのない黒い外套がいとうを羽織り、それをひるがえした。ハットをひらひら振りながら、高笑いして去って行った、かと思うと入口手前で立ちどまった。また葉巻を切っていて、それに火をつけた。突っ伏したまま横目で見ていた。


「もっとも、それを聞いたのはずっとあとだったのだよ。もうじじいがこうなったあとだった。彼女たちがどうなったのか、じじいは知らない。それは聴衆の想像のまま。明確さは物語を飾りつけるけれど、観客が自由に飾る余白を奪ってしまう。これだけは忘れないでくれよ。いいか、愛とは堕落だ。これを忘れないようにな。Merci beaucoup本当に感謝するよ, monsieurムッシュー! Au voirまた会おう

 耳は塞ごうとしても塞がらない。手が動かない。突っ伏しているのに頭痛がよくならない。あいつの言葉が頭蓋で乱反射していた。


 扉が閉まった。まるでいままでの会話が幻だったかのように、戸外に消え去っていった。目の前には半分ほど残されたジャック・ダニエルと、葉巻の吸い殻たちが置かれていた。それらだけが、老人の存在を示していた。


 愛は堕落、たしかにそうかもしれない。思考を勝手に盗んで脚色したのは許せないが、たしかにじぶんの堕落は颯紀さきからはじまったはずだ。老人とおなじならば、あいつのような堕落をたどるのか。それもいい、似あいの人生だ。決められたレールのうえも悪くはないだろう。


 頭痛と煙にまどろんでいた。そこに、外の凍えた風が舞いこんだ。酒に体温を奪われた身体を、さらに冷たい空気が覆った。客がだれかを探している。このかすんだ目ではよく見えない。こちらに近づいてきた。


「ようやく見つけたわよ、祐。ああ疲れた」


 颯紀だ。金髪に染めた女が、目を異様な光によどませて立っていた。こいつの狂った目を見てようやくわかった。こいつのは欲情の目、桐嶋さんのは穢れない光だ、一心になにかを気高く求める目。


 こいつを嫌悪しながらも、なぜか安心するじぶんがいた。じいさんの置いていった葉巻は燃え尽きていた。


「ああ、あんたか」


「なんで連絡しても返事ひとつ寄こさないのよ、馬鹿たれ。何日も探していたけど、ようやくよ。まったく手をかけさせて。一吹に聞いてようやくわかったわよ。ちょっとだけ心配しちゃったわ。うわ、酒くさ。あんた酔っぱらってるの?」


「知らない。お前には関係ないだろ」


「関係ないことはない。あんたを連れもどしに来たんだもの」


「どこにも行きたくない」


 もう立ちたくない。頭が痛い。もう、眠ってしまいたい。あいつのシャネルの甘ったるい香りが漂ってくる。堕落なんかしたくない。それなのに。ここは、どこだ。ぬけることのない泥沼だ。


「現実から逃れようとしても意味はないのよ。現実はいつまでもあんたを追いかけるの。酒のなかに現実はないんだものね。さ、帰るわよ」


「どこへ帰るんだ」


「あんたの家によ」


「俺の家なんてない、死んだんだ」


 それでも颯紀はその小柄な身体を駆使して、引きずりだした。もう抵抗する気力も体力もない。いやだとも思えなかった。


 颯紀に支えられるまま、夜の街を歩いた。夜の町田は妖しい光に包まれている。酔っぱらったうえにかすんだ目には、なお退廃的たいはいてきに映った。だれもがじぶんとおなじように、狂いながら歩いている。星も花も、生を与えてくれるものはすべて枯れはてたようだった。唯一、歪に見える三日月だけを遠目にながめ、その光に酔った。

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