第37話① shedding

 逗子駅から数駅のあいだ、紫苑さんについていくつかふたりで想像した。紫苑さんとじいちゃんの関係がどれほど深いものだったか、なぜ彼女のものは佐島にあったのか、俺すら知らないばあちゃんはどんな人だったのか、想像を膨らませるのは楽しくて、終わりがなかった。


「本当は昨日いうつもりだったことがあるの」


 突然の言葉にぞっとした。空気が温度を失っていく。


「お爺様、亡くなる前に、君に託すってわたしに話してくれたの。祐くんのお母さんと、お爺様のこと、たぶん祐くんの知らないことまで」


 思っていた話題とは違っていた。しかし俺にとってそれも重要な問題だ。冷たい空気のままだ。


「どうせ結衣奈ゆいなさんが悪いんだろ。あの人はじぶんの思いどおりにならなきゃなんでも非難する、さもしい人間」


「じゃないわ。すくなくとも、お爺様はそう思っていなかった。むかしから、祐くんのお母さんの教育に関しては、まったく関わらなかったって。うしろめたかったって。そしてお爺様の奥さんが先に亡くなった。それからこじれていくばかりだったそうよ」


 これは死ぬ前に聞いた話だ。


「祐くんのことでもね。お母さんは自らの教育方針を貫きたかったけれど、お爺様のところに行ったでしょう。お爺様、はじめは困ったらしいわ。本当はじぶんのところに来ない方がいいって。でも祐くんが、お爺様のために喧嘩したんでしょう? それがきっかけでお母さんはお爺様と関わりを絶った。だから、お爺様は引っ越した」


「でも俺はそれについていった。極度の反対を押しきって」


「そうね。きっとお母さんが見ているのは、祐くん自身じゃないのよ」


 驚くでもなく、喜ぶでもなく、俺はただ困惑した。


「いまさらそんなこといわれても、俺は結衣奈さんなんて。どうすればいいんだよ、じいちゃん」


「わたしから伝えられるのはそれだけよ。でも知らないのとは大違いだわ。最後に」


 渚月さんはふっと笑った。その顔はどこかじいちゃんに似て、思慮しりょ深かった。


「お前に任せたぞ、祐。だって」


「あのじじいは、人任せすぎんだよ」


 俺は笑った。両親のことを家族だと思っていたのは小学校までだった。その苦しさが、かすかな優しさに溶けていった。


「そんなこといっちゃだめよ。祐くんとお爺様のおかげでようやく、わたしはピアノとまっすぐ向きあえそうなんだもの」


「それ、俺はなにもしてない」


「ふふ、本当にそっくり」




 鎌倉駅に着いてから、渚月さんはさらに上機嫌になった。俺ははしゃぐ渚月さんのうしろにつきながら、駅の改札をでた。みっともないが、どこへ行くべきなのか、さっぱりわからなかった。すると渚月さんに手を引かれ、小町通りにはいった。いつ来たのかも覚えていないが、そのときの記憶そのままだった。大きい鳥居に、左右立ちならぶ店。まだ朝はやいせいか、人はちらほら行き交うだけで、店は全然開いておらず、彼女はしぶしぶ鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうの方へ向かった。


 八幡宮も人がすくなかった。大石段おおいしだんを休み休み登り、本宮をながめた。渚月さんはよくゴシック建築の話をして、絵も描いていた。日本建築に興味がないものと思っていたが、好奇の眼差しで見物していた。朝日を浴びる八幡宮は平和に輝いていた。


 脇道をすこし見回ってから、本殿と離れた奥まった参道で、休憩がてら座った。渚月さんの息があがっていた。階段のせいだろう。


「ごめんね、弱っちくて」


「きょうは謝るの禁止。傲慢ごうまんな面で休憩するわ、っていえばいいんだよ」


 ふたりで落ち着くまで座っていた。表とおなじように人どおりはすくなかった。


 葉のすき間から注ぐ光が心地よく揺れていた。次第に日が強くなってきたせいか日陰ひかげの暗さが際立きわだち、眠くなってきた。このまどろみの幸福を表す言葉を、俺は知らなかった。目を閉じ、木々のざわめきを聞いていた。


「どこ、お母さん、どこ」


 その声で目を覚ました。俺は下を向いていた。目の前には渚月さんが、膝のうえに丸まって眠っていた。眠る彼女は昨日も見れなかった。寝息をたて、無防備むぼうびな彼女が愛おしかった。相変わらずまつ毛が長くて、レースのような肌だ。それが日を浴びて、生き生きと輝いていた。時計を見ると驚きだ、二時間も寝ていた。


「渚月さん、起きて」


「んん」


 寝ぼけた声で反応した。目を開けてすぐに察したのか、真っ赤に頬を染めて身体を起こし、ごめんと謝った。


「禁止だって。ちょっとごめん。君、どうした」


 女の子にゆっくり近づいた。いまにも泣きそうな顔で、俺の声にびくっとした。


「お母さん、お母さん。いないの」


 見たところ三歳か四歳くらいだろう。だぼだぼの服を着て、まだのりのぴしっとした帽子をかぶっている。周りに人はいない、俺たちだけだ。荷物も持ってない。手がかりなしだ。


「わかった。お兄ちゃんが探してやる。泣くな」


「迷子? リサちゃん」


 寄ってきた渚月さんに、なぜわかるんだと疑いの目を向けていたら、彼女がくすくす笑った。


「靴にあるわよ。探さなきゃ」


「とりあえず、事務所があればそこに」


 いいかけた俺を制し、渚月さんは不敵な笑みを浮かべて立ちあがった。考えがあるようだ。


「いいえ、祐くん。ねえ、リサちゃん。肩車好き?」


「え、うん。大好きだよ。高いの大好き」


 戸惑いながらリサちゃんはそう答えた。


「ってことだから、背の高さが役に立つときよ。リサちゃん、とっておきの肩車」


「なんだって?」


 渚月さんのなすがまま、リサちゃんは俺の肩にちょこんと乗った。そのまま本道の方へ歩いていった。リサちゃんは黄色い声をあげ、アトラクションでも乗っているみたいだった。もしこの先、メリーゴーランドに乗ることがあれば、もうすこし丁重に乗ろうと心に決めた。渚月さんが横で声をあげていた。


「リサちゃんのお母さあん。迷子です。リサちゃんはここにいまあす」


 恥ずかしくて仕方ない。視線はすべてじぶんに注がれている。朝より人が増えた。思わずうつむかずにはいられなかった。渚月さんは堂々たる姿で横を歩いていた。リサちゃんは楽しそうに声をあげながら俺の頭をつかんでいた。およそ手網を握った騎手といった気分だろう。


 まもなく、もっと小さい男の子をかかえた、ふくよかな母親が寄ってきた。俺たちの姿を見て、不安な顔から一転、笑顔になった。安堵して抱きしめる親子の姿に、渚月さんとほころんだ顔を見あわせた。あの夕焼けのときの俺は、もしかしたらこうだったのかもしれない。


 リサちゃんは潤んだ瞳になりながらも、お兄ちゃんとお姉ちゃんが助けてくれたの、と息も絶え絶えに話した。子供を見る渚月さんの姿は慈しみにあふれ、椿さんそっくりだった。ふくよかな母は涙ぐみながら礼をいった。


「ありがとうございました。すみません、デート中に。きっとおしどり夫婦になるわね」


 照れてなにもいえず、下を向いた。渚月さんもなにもいわないからそちらを向くと、彼女もおなじようにうつむいていた。これほど感謝されるのなら、あの羞恥しゅうちはなんでもない。じゃあと、いって去ろうとした俺たちに、リサちゃんがだぼだぼの服をめいっぱい振りながら礼をいった。


「ありがとう、お姉ちゃん、お兄ちゃん」




 それから小町通りで海鮮丼を食べたり、抹茶アイスを食べたりと、ふたりの散策を楽しんだ。抹茶アイスの粉末で咳きこんだので顔が熱くなった。


 人にあふれていたが、嫌だという感覚は忘れてしまっていた。彼女の隣なら、うしろ指は感じない。楽しそうな彼女がいて、俺も楽しんでいる。堕落の色なんてどこにもない。


つづきます↓

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