第26話① mirror

 冷静に思い返すと、愚行ぐこうだった。感情的になりすぎた。颯紀さきとの喧嘩から一週間が経っていた。渚月さんと話したときの特別な、穢れのない心地をあいつの堕落だらくおとしめられた気がして、いつも以上に腹が立った。でも俺はこうやって、不器用にすすんでいくしかない。いつか会って、謝ろう。


 担任の先生との二者面談を前に、心臓がいやに跳ねていた。先生という存在がむかしから苦手だった。加えてこの堕落、それにうしろ指指される感覚だ。大学での担任は会う頻度がすくない。まともに顔なんて見れない。ようやくなおった時計のねじを巻きなおして、時間をあわせた。前の人がでていった。息をひとつ飲みこんで、扉を開いた。


「さ、座って。最近はどうですか。学校生活で困っていることは」


 背筋がいやでも伸びた。声もややうわずった。


「最近は、そうですね。いままでより気力のある人間になろうとしています。どうなるかはわかりませんが」


 そうですか、と先生は興味がなさそうに答えた。そうだろう、俺に興味を持つはずがない。


「それはいいことです。祐くんはいつも気怠けだるそうだからね。それで、勉強の方は、っと。再試が三つね。やばいじゃない、取れそう?」


「いい訳になりますが、じいちゃんのことで色々ありましたから。取れると思います、じゃないと困りますし」


「じゃあ、頑張ってください。さて、進路はどうするつもり? 就職? 進学?」


 あくまで事務的な感覚だった。


「ああ、まだ決めてないですね。就職すると思いますけど」


 なるほど、とメモしながら相槌を打った。この圧迫的な時間が苦手だ。そして顔をあげ、こちらをじっと見た。眼鏡の奥の先生の瞳は曇りなく、まっすぐだった。


「三年間見てきたけれど、祐くんって、みたいな人だよね。よくも悪くも、他人にあわせているでしょう」


 面食らった。はじめはなにをいっているのか呑みこめなかった。いわれてみればそのとおりだ。じぶんが恥ずかしくなった。でもしっくりくる。俺は、だれかを映しているだけの鏡。


「どうしてわかるんです。それなりに気の利いた言葉を口にしているつもりですが」


「ずっと人間と関わる仕事をしてきたのよ。人を見る目をなめてもらっちゃ困るわよ」


 まったく親しくない人間にこれほど見透かされるとは思っていなかった。俺は鏡だ。俺の実体とは、一体なんなのだろう。答えがでそうで、意識のなかでかすんだ。他の事務連絡をされ、二者面談は終わった。先生は書類を片づけながら立ちあがった。


「どうもありがとうございました」


「お爺さんのことで大変だと思うけれど、整理つけて実習頑張ってね。お疲れさま」


 その言葉は、他人行儀でありながら、俺に寄り添っていた。気をつけて帰ってね、といって先生は俺を見送った。


 個人はどうも好きになれない。たぶんだれだって、先生や友人に対して、なにかしら不満を抱えている。俺はそればかり見てしまっていた。きっとそのままでいい。俺のことなど他人にとってはどうでもいい。そこに壁を作っているのは彼らじゃなくて、俺自身だった。鏡として彼らを反射して、逃げていただけだ。うしろ指を指されやしないか恐怖しながら生きるのはもうたくさんだ。関わろうとしないから、他人が怖いのだ。


――――――――――――――


 学部の建物を出た。爽やかな空模様で、空気が澄んでいた。きょう学校に来たのは二者面談のためだけではない。すべてを清算するために、一吹さんにすべてを吐露とろし、赦しを乞うために来た。


 一吹さんはいつも山岳部の部室にいる。部室なのに冷蔵庫れいぞうこと電子レンジが完備されていて、住み心地がいいらしい。よく彼に遊びへ連れて行ってもらったときは、部室にもたまに行くことがあった。


 はたしていまの俺が、一吹さんに打ち明けることができるだろうか。そうしなくてはならないことはわかる。だが、それに耐えるだけの精神力があるだろうか。鏡でしかない俺に、方位磁石の狂った俺に。


 部室棟までの道は二分もないのに、ずいぶん長くて苦しかった。そして部室棟はやけに大きく見え、こちらを見下ろしてきた。部室の扉も、開かないかと思えるほど重かった。


「おお、珍客だね。まあ座ってくれ」


 一吹さんは心底嬉しそうな表情を浮かべ、俺に席を勧めた。俺が座ってから、彼ともじいちゃんに関する定型会話を繰り広げた。相変わらず彼はこちらのことを気遣って、変に先輩面しない、優しい、どこか高慢こうまんさを感じさせる先輩だ。だからこそ、なおさら気が滅入った。


「聡明で気さくだった。実習生の僕にも優しく話しかけてくれて、本当にうれしかったよ」


「話し好きでしたからね。きっと一吹さんと話すのを楽しんでいたと思いますよ。祖父はじぶんの知らないことを知れるのが一番の喜びだといっていましたから」


「何人もおのが富には満足せざれども、おのが知恵には満足するものなり。といったところかな。知恵が増えればそれだけ幸福なものだ。もう精神的には大丈夫なのかい」


「まだ本調子ではないですが、満足です。そも本調子のときなんてありませんでしたから」


「それはよかった。身体も大丈夫なんだね?」


「ええ。どこも悪いところはないです。そんなに気にかけて頂いてうれしいですよ」


「そんな。当たり前じゃないか。それに君だから気にかけるんだよ。大事な後輩であり、友だからね。ずっと息災でいてくれよ」


「ええ、身に沁みますね。人の死は恐ろしいものですね、本当に。残るものまで飲みこもうとする。思い知りましたよ」


「原初の恐怖だと思う。実習していてもね、人の死に立ち会うのは恐ろしい。それに僕自身も、死ぬのは怖いな。いま死んだらなにも残せないままだ、それはいやだよ」


 空気が冷たくなった気がした。じいちゃんのことをまったく克服できたわけじゃない。まだ空虚さは残るし、あの白い朝や白い顔、あの夜のことを思いだして飛び起きるときもある。それを察してくれたのだろう、一吹さんはバッグを指さした。


「おや、いつものマルボロはどうしたんだ。横にはいってないけれど」


「煙草はやめました。もう俺にはいらないんです」


「とてもいいことだ。医者の卵としては喜ばしい。ただ友としては、すこし寂しいところではあるけれど。君の前なら気兼ねなく吸えたから。それの理由は、その」


 笑顔だったが、そこでいい淀んだ。じいちゃんのことをいおうとしたのだろう。


「いえ。別の理由です。まあ好転したことがあったんですよ」


「ほう」


 彼の瞳が一瞬鋭くなったのを、見逃さなかった。


「うれしいことだ。またむかしのように飲みに行こうじゃないか」


 たまにこういうことがあるから、この人は底が知れない。さっきの鋭さはなくなって、いつもよりも高笑いが響いた。


 今度は山岳部についていくつか質問した。まだ話を切りだせるタイミングではない気がした。今度来るか、といわれて断ることができなかった。


「考えておきます。もし都合がついたら、久しぶりに行ってみようかと」


「本当かい? それはめでたい。ぜひ行こうじゃないか。君がいれば写真の話ができる。最近はじめてみたんだ。やっぱり美しい景色を撮りたいと思ってね。ちょっと話してみたんだけれど、まわりの人はつけ焼き刃の知識か興味がないかだから。ゲームの話ばかりだよ、みんな。やっぱり祐が一番頼りになるからね。また教えてくれよ」


「いいですよ。僕に教えられることがあるならですが」


「それは卑下かい」


「いいえ、畏敬ですよ」


 だれかがそうやって写真に興味を持ってくれるのはうれしい。しかし一吹さんがじぶんで学んだ方が効率がいいに決まっている。


 そんな明るい話ばかりだと、颯紀のことを話せなくなる。そろそろ切りださなくてはならない。腹をくくろう。


「ところで、颯紀とはうまくいっていますか」


「昨日泣いて家にあがってきたんだ。理由を聞いてもいまいち要領を得なくて。だからひたすら慰めていたんだ。彼女も彼女で不安定だからね。そうしてあげるのが一番なんだ」


「流石ですね」


 やはり颯紀にはこの人しかいないのだ。もう喉まででかかっていた。だが、先に一吹さんが口を開いた。


「あまり聞いてこなかったことだが、君はたくさんの問題を抱えているんだろう。どうだい」


 その言葉に戦慄した。もしや、この人にはなにもかも見透かされているのではないか。いや、一吹さんはそういうことにうといはずだ。落ち着いてこう答えた。


「そうですね、人並みには。祖父のこともありますし」


「そういう顔しているからね。気苦労の絶えなさそうな顔。いいかい、僕の考え方を君に教えよう。きっと役に立つはずだ。それを使うかどうかも君次第だからね。さて。まず思い浮かべるんだ。問題とはなにがある? ああ、言葉にしなくて大丈夫だよ」


 いわれるがまま、いま抱えている問題を思い浮かべた。かすむ世界、颯紀のこと、渚月さんのこと、じいちゃんのこと。


「そうしたら、その問題ひとつひとつに真正面からぶつかるのさ。じぶんの限界まで考え抜くんだ。そこで重要なのは、本当に限界まで考えぬくことだ。それがじぶんにどういった不利益をもたらすのか、どのような困難の元になるのかをね」


 たしかに、そんなこと考えたことはない。だがいまはそんなことより、颯紀のことが頭から離れない。


 とりあえず考えてみた。颯紀のことで不利益になるのは自明だ。それに、困難の元も、目の前にいる。渚月さんのこと、じいちゃんのこと。


「そうしたうえで、その問題がじぶんの障害になりえないということを見いだすのさ。そんな些細な障害はじぶんをとめるものではない、とね。それで肩の荷は軽くなる。ようやくじぶんの幸福が見えてくるんだ」


 考えこんでしまった。どう立ち向かっていいのかわからなかった。


「どうだい。まだよくわからないか。ま、そこまで即時効果があるものではないから」


 問題がどうだとか、いま考えられなかった。とにかく、いまできるのはひとつしかないのだ。


「写真を、もっと追い求めようと思います。俺にできるのは、それしかないから」


 一吹さんは興味深そうにうなずいていた。


「いいね。それが、幸福へのひとつの道だから。君はきっと大成する」


 そうして、颯紀のことは結局いえなかった。彼と別れを告げ、部屋をでようとした。来たときとおなじように重かった。最後のチャンスだ、ここでいえなければ、もう機会はない。息がつまった。いよいよとなると、どうしても喉が開かなかった。ようやくでたのはこれだった。


「あの」


 一吹さんはやさしく微笑んでいた。それだけに、なおさら緊張した。つたう汗が止まらなかった。


 苦しい沈黙がつづいた。彼はずっとこちらを待って微笑んでいた。すると、部室の扉が開かれ、俺はぶつかった。何人か部員が入ってきた。


「一吹さん、聞いてください、ってあれ、祐?」


「いえ、ごめんなさい。颯紀と、これからも仲よくいてください」


 外にでると、雲が信じられない速さで流されていた。風にマフラーがたなびいて、ばさばさと音を立てた。惨めな犬のように、とぼとぼ歩いて家に帰った。

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