第29話② heart


つづき↓


「遅いね、ふたり」


 日陽はすこしむっとした顔で時計を見ていた。


「ええ。でもわたしたちが首を突っこんじゃだめよ。きっとそんな簡単な話じゃないもの」


「黙れば聞こえるよ。ほら」


 声は聞かれないようにひそめているらしく、わずかに聞こえる。日陽もわたしも、耳は人一倍鋭い。日陽は眉間にしわを寄せ、目を瞑っていた。


「ありがとうね、勇くん」


「そんな言葉はいらない。どうして突き放さない」


「気にかけてくれる人を突き放すなんて無理よ。それくらい受けとめる度量がなくて、なにが二児の母か、ってこと」


「本当に、変わったな。椿」


「わたしに連なる人のおかげよ」




 きっとほんのわずか、火がくすぶっていた。そんな灯し火がぱっと燃えて、静かに、風に揺られて消えていったのだろう。


 ふたりの足音が戻ってきた。なにもなかったように日陽との話を蒸しかえした。弟の顔はどこか釈然としなかった。


「おまたせ、ごめんなさいね。退院について詳しく話していたの。はやい方がいいかと思って、三日後に退院でいいかしら」


 想像の倍もはやかったせいで、ふたつ返事では答えられなかった。祐くんとのつながりは、ここで結ばれた。ここから離れれば、それが途絶えてしまうこととおなじだ。


 しかし、これ以上ここにいてはいけない。胸がきゅっとしまった。そして、了承の返事を、かすれた声で口にした。


「それで戻ってきてすぐで申し訳ないけれど、ちょっと渚月とふたりで話をさせてくださいませんか。それほどかかりませんから。日陽もすこしだけ、ごめんなさいね」


「いえ、わたしはもうおおむね話し終わりましたので失礼しますよ。どうぞごゆっくり。では失礼します。渚月さん、ごめんね」


 先生の口は一文字にむすばれ、眉はすこし寄っていた。病室からでる彼の顔は氷のようだった。日陽は先生をにらみながら、仏頂面で外にでていった。


 お母さんが背を正した。退院のことだろうか。すこし身がまえてしまった。お母さんは再び席について、わたしを温かく見つめた。


「ねえ、渚月。最近なにか困っていることはない?」


 家族に気をつかったことはないが、癖なのだろう。人と話すときは気丈の殻をかぶってしまう。


「気持ちはうれしいけれど、ないわよ。おかげさまで退院だし、むしろ幸せなくらいよ」


「母親に嘘つく必要なんてないわ。いつもあなたはつらさを隠そうとするけれど、親にはだいたいわかるのよ。あなたはじぶんの思ったより、顔や態度に感情が見えてるの。それがあなたのいいところでもあると思うけれど」


 笑いがこみあげた。こうもあっさりと見ぬかれる、お母さんの鋭さが羨ましい。


「隠したって無駄ね。後輩にもそんなこといわれたわ」


 わたしはお母さんに一吹のことをかいつまんで話した。高校のときに相談したことはなかったから、彼の話をするのははじめてだった。


「そっか、そうだったのね。なんだか久しぶり、渚月から悩みらしい悩みを聞くの。小学校以来でしょ」


 たしかにそうかもしれない、といって過去を思いだした。おそらく父の亡くなったあの頃から、悩みを話すことはなくなっていたのだろう。


「それも、些細ささいなことだったでしょう。たしか色盲のこと。あのときはありがとうね」


「わたしはあなたの親だもの、当然じゃない」


 じぶんを見ているようでくすぐったかった。それで、と真剣な瞳になった。


「お父さんのこと話せるのはいましかないと思って、こうしてふたりになったのよ。なにも話してこなかったからね」


 一気に空気が冷たくなった。目が泳いで、布団をにぎった。お父さんの空白はいまもまだ胸に沈んでいる。


「お父さんが死んじゃったのは突然だったわね。でもあなたの将来のこと、だれよりも考えていたわ。あなたに色々な試練があること、つらく苦しいことがあるだろうこと。それこそ、色盲だとか、病気のことだとかね。でも同時に後悔もあった。あなたの身体のことじゃなくて、あなたを理解しきってあげられないことが悔しかったみたい。あの人はそういう人なの。じぶんより、他人のために胸を痛めるの。そう、幸雄さんは心の底からあなたを愛していた。渚月が渚月という人間を愛するんだ、あなたが悩むことがあるのなら、それに寄り添って支えてやらなくちゃ、なんていっていたわ。大雑把すぎてじぶんでできないくせにね」


 お母さんは楽しそうに笑っていた。お父さんはそういう人だった。小さいころの話でおぼろげだが、愚直ぐちょくなほどまっすぐだった。


「お父さんは強情で負けず嫌いだった。俺が一番いやなのは、ここが負けることなんだって、よくいってたわね」


 胸に手を当てていた、大切そうに、優しく。


「身体や周りの人間は負けてしまうかもしれない。それでも、魂だけは負けてはならないって。だから渚月、じぶんが正しいと思ったことは突きとおしなさい。うしろ指差されようと、くじけそうになろうと、答えはその先にしかない。お父さんの言葉はそれだけ。あとはちゃらんぽらんで唯我独尊ゆいがどくそんの、馬鹿だったわ。でも覚えてるでしょ、あなたのはじめての発表会。かちかちになってたあなたを励ましてた。むかしあんたが佐島さじまから持って帰ってきちゃった蝶の置物を渡してね、ああ、これよ。頼りになる男でしょ」


 思いだした。あのとき支えてくれたのはお母さんじゃない。わたしに失敗してもいいといってくれたのは、あの優しいお父さんだ。そしてこれはお父さんの優しさで、強さだ。


「これ、佐島にあったのね」


「ピアノがだめならこっちを持って帰るって」


「馬鹿ね、わたし」


 温かい時間が流れた。お母さんが手をにぎると、その熱が染みた。


「お母さん、お金、ないんでしょう」


 面食らっていた。そんなことは予想できている。片親で、病気ばかりのわたし。潤沢なわけがない。微笑を浮かべ、わたしの手をなでた。


「わたしには、家族が一番大事なのよ。渚月も、日陽もね。もし今後、もっと悪化するようなら、人工心臓を視野にいれなくちゃいけない。お金ならなんとかなるから」


「そんな処置はしなくていいわ。氷山先生と、その話をしていたんでしょう。きっと断ったんでしょうけど、そうまでして、這いつくばって生きるのはもうたくさんだわ」


「そのときがくるとは限らない。よく考えなさい。その答えがそうだとしたら、突きとおしなさい」


 にこっと笑い、お母さんは席を立った。はいってきた日陽はぎょっとしていた。


「姉さん、大丈夫」


 目が腫れてしまっていたようだ。弟の温かい手を払いながら笑って大丈夫と答えた。お母さんが帰る支度をはじめた。


「もう帰るの。じゃあ、姉さん。僕たちが姉さんの居場所のひとつだから、困ったら僕にも相談してくれよ」


 その言葉にはどこかお父さんの面影を感じる。


「ありがとう、日陽。いい男ね」


 魂だけは負けてはならない。以前のように、一吹にはずかしめられるとしても、わたしは彼を、深く愛しているのだ。お父さんの言葉がこれを指し示すか、それはわからない。不幸に落ちるかもしれない。でも、わたしの望んだことだ。


 思えば、祐くんには気をつかうことはなかった。彼の前で絵を描けるし、じぶんの話もできる。きっとわたしの思っているより深く、深く、彼を愛している。だからこそ、彼の前に、もう二度と現れてはならない。

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