第47話 panorama

 隼を乗せ、瀧原のところへと急いだ。夜の街の生活はもう静まっていて、どこも灯りが消えていた。その街を走るじぶんの居場所がなかった。夜の街には、じぶんの生きる場所はもうなかった。


 東京の光はどうも苦手だった。町田も、新宿も、卑しい光と喧騒に包まれている。いま客観的にこの光を見て、ようやく好き好まない理由が理解できた。自己嫌悪だったのだ。あの街は俺の身体の居場所そのもので、誘蛾灯ゆうがとうだった。


 そこで過ごした日々も、ひとつの俺だ。郷愁きょうしゅうの気持ちで、俺はアクセルをさらに踏んだ。


 高速道路を走る最中、スマートフォンに日陽くんから連絡が来た。隼に投げて読みあげさせた。


「ねえ、まじかよ。渚月さんの容態が危ないって」


 それを聞いてからというものの、焦る精神だけが先走っていた。はてしなくつづく高速道路に、俺はついハンドルを叩いた。


「もっとスピードでないのかよ、くそ」


 夜も更けきった頃、ようやく瀧原のところへ到着した。俺はどうにもならない焦燥感で疲弊していた。彼の自宅は東京のど真んなかにあった。俺なら、車の音がうるさくて落ち着かないだろう。庭がなく、質素な外観だった。印刷所は家の隣に建っていて、明かりがついていた。隼が連絡すると瀧原が玄関から飛びだしてきた。


 瀧原は小柄だが太っていて、黙っていればコミカルに見える。最初の印象からすればもっと荒々しい気性だと思っていたが、着いたときにはしおらしくなっていた。彼は膝をついて隼の手を握りしめ、真剣な目で見つめていた。


「これ、頼まれたもの。なあ頼む。どうか渚月さんの願いを叶えてやってくれ」


 家の玄関の突きあたりに、見覚えのあるグリザイユが飾られている。綺麗な額縁だ。おそらく、この男の抱えている感情は執着でもなく、愛情でもない。尊敬だ。渚月の啓蒙けいもう的な魂は、ここにも息づいている。この男とは友人になれそうにないが、彼女の話だったら俺はいくらでも時間を設けるだろう。


 隼は彼の手を握って、引っぱりあげた。


「もっとしゃんとしろよ、お前らしくない。お前はもっと偉ぶってるのが似あってるぞ。たしかに受け取った。お前も来るか?」


 俺は思わず隼の顔を見た。眼鏡の奥は、生真面目で真剣な顔だった。あれほどこっぴどくいっていたのに、どこまでもお人よしな男だ。


 迷っていたが、瀧原は決意した。隼は彼の肩を叩き、しがらみのない笑い声をあげた。


「渚月さんに感謝しろよ、俺は高いんだ。それをただでこき使えるんだから」


 意気ごんで俺が運転席に乗りこもうとしたとき、急に膝の力がぬけ、その場にへたりこんでしまった。突然のことに俺は理解できなかった。足が綿になったようだ。どうやっても力がはいらず、つねったり叩いたりした。感覚はたしかにあるが、動かない。


「なんだよこれ。いま機能しなくて、いつ役に立つつもりだ。この使えん足が」


 どうやってもだめだ。こんなところで立ちどまっている場合じゃない。焦れば焦るほどに気が動転した。


 そのとき、声がうしろから聞こえた。


「ハンドルは任せておけ」


 隼が俺を助手席まで引っぱった。意外な力に、俺は思わず声をあげた。


「痛い痛い、おい、隼?」


 そして彼がハンドルを握って、アクセルを踏んだ瞬間俺は震えた。恐ろしいほど荒々しい運転で、このうえなく速かった。あっという間に高速に乗り、相模原へと急いでいた。


「ああもう、もっと急がないと」


 優しい声とは裏腹に、その顔は嬉々としていた。こんな恐ろしい一面があるとは、十数年来のつきあいでも知らなかった。


 そのとんでもない速度にも慣れ、窓の外をながめた。わずかな生活たちが、俺たちとは関係なしに背後へ流れていった。すべて、過ぎ去っていく。ずっとつづく過去が流れていく。途切れることなく、連続性を保ったままの記憶たちが、白、橙、赤、そんな光となって消えていく。いま俺が立つのは、夕焼けの睡蓮でも、じいちゃんの墓の前でもない。いま、この場所だ。


 結局のところ、俺はストリックランドという男にあこがれていたのではない。彼にすら嫉妬していたのだ。彼はブルドーザーみたく、人生の障壁という障壁をなぎ倒してすすんでいった。その強さは俺にはなかった。それが絶対手にはいらないものだと、馬鹿正直に信じこんでいた。


 そうではない。そうやって生きるからこそ、強さが得られるわけだ。なくて当然だ。俺はもう彼にあこがれない。この写真で彼をなぎ倒していくのだ。


 助手席で日陽くんに電話をかけた。彼はまた外にいるようで、風と車の音が聞こえた。声もどことなく疲れがうかがえた。


「パノラマの印刷ができた。いまから相模原に戻る。そこで、君たちに協力してほしいんだ。渚月の夢を叶える」


「母さんにも伝えておきますよ。なるべく人は多い方がいいでしょう。姉さんはまだICUです。間にあわないなんて、許しませんからね」


 姉思いな彼なりの忠言なのだろう。いまでも彼は俺の理想だ。彼ならではの穏やかな若葉の声が、待ってますからといって電話が切れた。


「隼、もっと飛ばせるだろ」


「任せとけよ、こんないい車なんてめったに運転できないからな」


 もっと速く、俺のかつての人生を追い越してしまうくらい、速く。 


―――――――――――――――


 病室に息を切らして入ったとき、渚月はすでにICUから例の病室に移っていた。もう足は動くようになっていた。タイトスーツの椿さんは渚月の隣で手を握っていて、日陽くんは壁に寄りかかって立っていた。ふたりとも、俺を見て安堵の表情を浮かべていた。ずっと待っていてくれたようだ。日陽くんは申し訳なさそうに殴ったことを謝罪してくれた。


「あそこで殴られてなかったら、いまここにいないかもしれないだろ。ありがとな」


 隼は俺よりも息を荒げ、遅れて病室にはいってきた。さらに遅れて、瀧原が来た。


「すみません、こんな夜分に。持ってきました。手伝って、いただけますか」


「待っていたわよ。さ、やりましょう。日陽」


 椿さんは俺の肩に手を置いた。その琥珀のような強い瞳は微笑んで、俺を突き動かした。目は口ほどに物をいう、彼女の魂はそれを体現している。


「祐さん、心から姉さんのこと思ってくれて、本当に、うれしいです」


「日陽くんの言葉と、グーパンのおかげだ。感謝すんのはこっちだって」


 まずは一面だけの写真を広げて、壁に沿って貼りつけはじめた。ただ、写真の端と端をあわせるのに繊細な集中力が必要で、試行錯誤しながら貼りつけてはがしてを繰り返していたから、一面を終わらせるのにずいぶんと時間がかかった。


 一同も疲労の色が見えていて、特に椿さんの顔色が優れなかった。ずっと寝ていないのだろう。俺は椿さんに寄って、肩を叩いた。


「休んでください。ずっと張りつめていては身体が持たない」


「それはあなたもおなじでしょう。わたしが娘の夢を支えてやらないで、どうするの」


 そしてもう一面に取りかかった。皆要領を得たのかはじめよりはてきぱきしていたが、疲労もあってか重い沈黙が流れていた。渚月はまだ、眠ったままだった。じいちゃんの顔とは重ならない、そこには生者の色があった。俺は彼女の頬に触れ、冷たい彼女の頬の温度を奪った。


 振り向くと、颯紀が写真を持って壁に向かっていた。


「ねえ、祐。これはここでいいんでしょ。ぼさっとしてないでさっさとやるわよ」


 開いた口が塞がらなかった。ぼうっと彼女の笑顔をながめていた。彼女は動かない俺を見て怪訝けげんそうな顔をしたが、俺が笑うのを見て、彼女も果実のような笑顔を浮かべた。ふわりと。嗅いだことのある香りがした。颯紀のシャネルの香りではなかった。


「はやくしなよ、恩返しするんでしょ。間ぬけな顔してないでさ」


 ああ、そうだ。渚月。はじめて嗅いだのは俺が葬式から帰ったときのブランケットだ。


「いままでのツケは、これで全部チャラだからな」


「こんなんじゃ返し切れるわけないでしょ、馬鹿」


「ありがとな」


 颯紀は意外そうに目を見開いたあと、果実みたいに豊かな笑顔を見せた。


 そのあとに一吹さんもはいってきた。部屋の中央に立って、完成している一面をながめた。


「これがしたかったわけだね。はは、完敗だ。くそったれだな、祐は」


「くそったれはあなただ、一吹さん。手伝ってくださいよ。渚月のためなんですから」


「わかっているよ、まったく、悔しいな」


 そのすぐあと、東病院の看護師が深夜なのにも関わらずやってきた。一吹さんと親しげに話しているところを見ると、彼が連れてきてくれたようだ。なかには私服の人もいた。この出来事に皆が活気づいて、一気に完成させた。


 俺はへたりこんで、一息ついた。やり遂げたのだ、この大仕事を。俺はもう、くだらない俗物には戻らないで、生きていける。


 皆が代わる代わる部屋の中央に立って、各々パノラマをながめていた。


「ありがとうね、祐くん。渚月のためにこんなに」


「椿さん、俺、渚月を幸せにできますよね」


「なに頼りないこといってるのよ、自信持ちなさい。かっこいいんだから」


 椿さんの琥珀の瞳は穏やかな微笑を浮かべていた。


「うわあ、綺麗。これどこの山? すごいわ、祐くん」


 看護師のひとりがそういった。どうやらうしろの方に鬼看護師の多田さんもいるみたいだ。俺はその言葉とは別のレイヤーに立っていたように、言葉が遠くに聞こえた。ここは本当に俺のいた世界なのだろうか。隼が俺を揺さぶって、ようやく現実に戻った。


「おい、祐。なんとかいえよ。うわ、すごい顔。大丈夫か?」


 俺は、朝焼けの山頂に立っていた。はるか遠くまでうすくつづく雲、白銀に飾られたアルプスの稜線。はてなくぬける空。風が強く吹きぬけるような気がした。


「みんな、手伝ってくれてありがとうございました。これは槍ヶ岳の頂上の朝焼けです。これが、渚月の夢です。そして俺の悲願でも」


 俺の作品とストリックランドのそれは、根本的に違っている。ストリックランドは自己を追求しつづけた。俺は、他者の夢を追求した。そこには決定的な違いがある。でもなぜだろうか。彼の思っていたことがすこしだけわかるような気がした。このかすれた世界に、意味をつけることができた。俺の居場所は、ここだよ、渚月。


 俺は渚月のベッドの横に置いてあった椅子に座り、倒れこんだ。渚月の冷たい手だけが、俺の高揚を優しく包んだ。




「やあ。わたしは感動に震えたよ。君はようやく、成し遂げたわけだ。わかっただろう、君の心の底から湧きでる思いじゃないと意味がないのだよ。ただ単に思いの強さの問題だ、と君はいうかもしれないが、ただのうのうと願ったってだめだ。湧きでる思いとそれでは、わけが違う。浮かぶ月と、六ペンス硬貨くらい違う。君は君を削ってきた。幸福になる価値すらないと自らを騙してきた。そうして残っていたのは、搾りかすのような君だけだ。『俺』を『じぶん』と認識できなくなってしまうくらいにね。結局君は、一貫性がなかったわけだ。どんな感情も、どんな記憶も、ある一地点のものだった。朝令暮改ちょうれいぼかいの思いつきさ。明日に意見が変わってたって、別に知ったことじゃなかったろう。それはひとつの信念がなかったからだ。堕落のぬかるみはもうぬけた。夕焼けは沈んだ。そして、夜は明け、雲間から太陽がのぞいている。きっとそれは美しい朝焼けに違いない。さ、君はもうわたしに会うことはないだろうね。しかしまたいつか、わたしのところへ来ることがあれば、そのときはまたよろしく頼むよ。mon ami我が友


 俺は夕に燃える、目の前の池に身を投げた。とぷりと沈む。そして、夕焼けが終わっていった。


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