第8話 confused

 なんとなく熱っぽく、頭がぼやけている。あれほどみじめに濡れれば、だれだって狂う。どれだけ救いがないと思い知らされようと、現状は変えられない。苦しくたって堕落は去ってくれない。


 病室にじいちゃんの姿はなかった。金曜日が偶然だっただけだ。いつもは大抵、談話室で読書している。そちらに行ってみるとじいちゃんの、かすれた優しい声が聞こえてきた。だれかと会話しているのは珍しい。


「つまり人間はだれしも、大なり小なり劣等感を抱えている、ということですわね?」


 この声、先日の声だ。低く透きとおった、落ち着きのある声。話しぶりは普通だが、すこし身構えた。


「いや、人間という枠では大きすぎる。あくまでわたし個人の話だよ」


「すこし安心しましたわ、ありがとうございます。これでまた、まっすぐピアノに向かえますわ」


「ああ、祐が来た。ちょうどいい。この前話した女性のこと、覚えているか?」


 じいちゃんがこちらに呼びかけた。


 この人が桐嶋さん。瞳が一番印象的だ。すらりとして、この時代にはそぐわないくらい並みならぬ気品を漂わせていた。机に、実物よりも精巧せいこうな蝶が描かれたスケッチブックが置かれている。彼女のものだろう。ふたりの横に座って覚えていると返事をした。


 彼女の笑顔は、まるで白い椿の花のようだった。しかし、違和感があった。


「はじめまして、桐嶋渚月なつきと申します。お爺様にはお世話になっていますわ」


「いえ、こちらこそ。迷惑だったでしょう、読書中に祖父が邪魔をしたようで。いまだって、こんな老木が邪魔だったら断ってくれてかまわないんですよ」


 一目見てから、ずっと落ち着かない。変人だと疑うのもあるが、もっと感覚的なものだった。ささやかな敵意のような、不快なような。ただはっきりした理由はわからなかった。ただ、この人とはそりがあわない、そう直感した。


「とんでもないですわ、素敵な方ですもの。それにきょうはわたしから話しかけたんですわ」


 そんなことはまったく気にも留めず、桐嶋さんは微笑んだ。じぶんも軽く自己紹介を済ませた。言葉の足らないところはじいちゃんが埋めてくれた。


 彼女をうとましく思う理由を探すため、もう一度桐嶋さんを観察した。しかし、外見においておよそじいちゃんの言葉通り、髪はセミロングで、一本一本の細くつややかで生のあふれた髪だった。色はすこしうすく茶髪に近い黒髪。目は大きく二重で、目じりはまつ毛のせいですこしあがっているように見える。瞳はくすんだ茶色で、光を受けると鮮やかに輝く。眉毛はうすいが筋のとおった線だ。鼻はまっすぐで高くなめらかで、顔全体としての印象を決めている。そしてたしかに高身長で痩身そうしんだ。頬や手首に肉の足りなさを感じるものの、痩せすぎた印象はない。血色はよく、まるで白いレースのような肌だ。指もすらっと長く、ゆったりしたなめらかな動きをしている。


 こう見ても、違和感はぬぐえなかった。桐嶋さんは視線に気づいたのか、こちらを向いて、花のような微笑を浮かべた。彼女の顔を見ていると混乱しそうで、窓の外の木々をながめるふりをした。


「孫がもうひとり増えたみたいだ。まったくありがたいことだよ。寂しさも勝手に身をひそめてくれるってものだな」


 彼女との会話をさっさと切りあげたかった。そんなもののために、足を運んだわけではない。しかしじいちゃんの手前、丁重に扱わざるをえない。落ちつきたくて、時計のねじを巻いた。


「ああ、桐嶋さん、ですよね。失礼ですが学生ですか?」


「渚月で結構ですわ。堅苦しいのは苦手なんです。一応学生ですわ。休学してしまいましたけれど」


「どちらに?」


「学がないとお笑いにならないでくださいね。武蔵原大学って聞いたことあるでしょうか。そこで拙いながらピアノをやっておりますわ」


 隼とおなじ大学だ。あいつはピアノじゃないが、顔を見て話せる程度の親近感が湧いた。向けた顔は、仮面みたいな微笑だっただろう。


「聞いたことあります。友人もそこに通っていますから。素晴らしいじゃないですか、ピアノだなんて」


「そんなことはありませんわ。レベルも、まわりに比べたら大したことないんです。でも、お褒めいただいて光栄ですわ。それで、祐くんは北山大学ですよね」


「理学療法ですよ。医学部とか薬学部とかと比べると矮小な頭です」


「そんなことはないですわ。わたしだって、理学療法士の方にはお世話になっておりますから。素晴らしいお仕事だと思います」


 こんな他愛もない話をしているだけなのに、まるで大きな門の前で立ち尽くす旅人のように、彼女に圧倒されていた。それは彼女に常軌じょうきを逸した特徴があったからではない。そうしていたのは彼女の気品ある態度とその話ぶりだった。もう平静でいることができなかった。


「俺が来る前、なんの話をしてたんだ。ずいぶんと盛りあがってたけど」


「お前の話と、病院の飯がまずいって話だ」


 じいちゃんがそう誤魔化した。もっと重苦しい話をしていたから、それを隠している、そんな顔だ。


「そんな話と同列にしないでくれよ。俺がまずいみたいじゃないか」


「高校のときにこちらに来られたんですってね。ずいぶん大変だったんではなくて?」


「家にいるより、そっちの方がよかったんです」


 座っていられず席を立った。窓の方をうろうろしながら答えた。気品もある、容姿も美しいのに、どうしてこれほど苛立つのだろう。


「こら、そんなぶっきらぼうに話すものじゃない。面倒みてやったのはわたしだろう」


「それで、いまはひとり暮らしをしてらっしゃるんですよね」


「ああ、そうです。すぐ近くで。あなたは」


「はじめはひとり暮らしをしていたんですけれど、いまはもう実家におります。湘南の方ですわ。ひとり暮らしは苦労しますわよね。特にご飯なんて」


 じいちゃんがいたずらっぽい表情を浮かべながら、自炊なんてしていないだろうと野次を入れた。それにはコンビニよりは安あがりだからと皮肉な笑顔を浮かべいい訳した。ちらと桐嶋さんの方を見ると、楽しそうに、目を逸らさずこちらを向いていた。その生命に燃える瞳が恐ろしかった。どこか侵しがたく、じぶんとはかけ離れたものだった。まるで穢れをすべて見ぬいてしまうような、そんな気がした。


「さて、そろそろリハビリに行かなくちゃ。楽しかったですわ。またお話してくださるかしら」


 小さいイーゼルとスケッチブックを持って立ちあがった。すこしほっとして、思わず笑った。


「こちらこそ。その機会があれば」


 正直、もう会いたくはない。きっと彼女のまぶしさがうとましいのだろう。しかし彼女の奥底おくそこに秘めているものが見えなかったゆえに、好奇心は掻き立てられた。この混乱に、思考がまとまらなかった。彼女が行ってからも、しばらく背中をながめて放心した。彼女の歩き方は、痛ましいほど無駄がなく、流麗だった。角を曲がる前にこちらを振り向き、微笑みかけた。



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