第37話② shedding
渚月さんがどうしても行きたいという場所はいくつかあったが、まずは七里ヶ浜駅の近くにある、オーシャンビューのカフェへ足を運んだ。席数は全部で十席ほどとすくなかった。席は選び放題だったから、テラス席に惹かれてそこへ座った。渚月さん曰くケーキが有名らしいから、彼女と俺は種類の違うケーキを頼んだ。
海は昨晩とも、朝とも違った顔を見せていた。生命の輝きにあふれ、波の音が生き生きと聞こえてきた。
渚月さんは輝く笑顔を見せた。その瞳にはかつての生命に燃える光ではなく、優しい月の光が灯っていた。話しているうちにケーキが来た。
「ああ、なにもいえないわ。わたし、きょうのためにアーモンドチョコをやめたってかまわない」
「じゃあ退院祝いのチョコはいらないな。返してくれ」
「もらったものはもらったものだわ。返すのは非礼よ。わたしの手垢で汚れたものなんて返せない」
演技めいてむっとした。それからすぐ、くすくすと笑いだした。
せっかくだからと渚月さんはスケッチブックを取りだして、風景を描きはじめた。その
「渚月さんの絵に出会わなかったら、俺は一生あのままだった」
「祐くんにはきっかけが必要だった。そのきっかけが偶然、わたしだっただけよ」
「その偶然が美しいんだ。大事なのはだれが、だれに、施したかだ。なあ、渚月さんはどうして絵を描くんだ」
「前までなら、祐くんのためじゃなくて、じぶんを表現するためだ、とか答えてたでしょうね」
「いまは違うのか」
ケーキを食べ、幸せそうな顔になっては筆をすすめていた。俺は俺で、カメラに瞬間を刻んでいた。絵を描く渚月さんを、こんな場所で撮れるのはこのうえない幸運なのだろう。
「颯紀さんに絵を破られてから気づいたの。わたしは絵にすがっていたんだって。自らの不完全さを埋めたかったから、蝶の絵を描いて魂を埋めようとしていた。でもそれは大きな間違い。わたしがすがっていたのはただの薄っぺらい紙切れ。いまはね、わたしはわたしの見る世界を表現したいの。わたしの見るこの不完全な世界こそが、わたしの世界そのもの。愛すべき、わたしの世界なの。そこにじぶんは介在しないのよ。ただ世界があるだけ。だからそれを、わたしのためなんかじゃなくて、わたしの愛する人に向けて描くの」
スケッチブックから顔をあげ、微笑んだ。俺はその瞳をじいっと見つめていた。奥まって、光に満ちていた。
「それがあなたの自由意志なんだな。俺もだれかの心を動かすような写真を、撮れるようになりたい」
完成した絵をスケッチブックからちぎって、俺に差しだした。
「この絵はあなたに贈るわ」
以前、スケッチブックで見た絵とは異なっていた。以前の絵は想像が多く、悪くいえば
「俺からも、この写真を贈る。いまは見せるだけだが」
海を背景に、渚月さんの手とスケッチブックを撮った写真だ。彼女は頬をほころばせて紅茶をそっと口に運んだ。
「またひとつ、思い出が増えたわね」
店をでたとき、日はまだ高く照っていた。わずかな眠気に包まれつつ長谷寺へと向かった。この寺のことはおぼろげに、
入館すると、そのいかにも日本風な庭園に深く感銘を受けた。これに似た庭園はいくつもあるのだろうが、葉のない木々と橋のかかった池が得もいえないわびしさを
境内のわきの方に、洞窟があった。ちょうどよかった。ある目的があって、渚月さんの腕を引っぱった。なかは暗かったが、ろうそくが灯っていたから問題なく歩けた。洞窟の壁には仏教のなにかであろう像が彫られていた。文字は見づらかったが、弁財天に関わるものらしい。
すこしすすんだところで、彼女が俺の手を握って足をとめた。
「祐くん、わたしが色盲だってこと忘れていない。目も弱いのよ」
「わかってるさ。俺の肩つかんで、行くよ」
「ちょっと待って、転ぶ、転んじゃう」
笑ってはいたが、渚月さんの手が肩に食いこんで、震えが伝わってきた。透明さのある香水の香りがただよう距離だった。出口が見えたところで横道があったから、そこにとまった。
「はい、ちょっと向こう向いてて」
どぎまぎして、声が震えそうだった。怖いといいながら、しぶしぶ彼女はうしろを向いた 。さっと手紙を鞄の、財布のうえに忍ばせた。すぐに見つけられてしまうのは恥ずかしいが、それ以上は仕込めない。
そしてカメラをとりだして、こっちを向くよういった。振り向いた彼女の瞳に、ろうそくの光が灯っていた。その彼女の横顔を写真におさめた。彼女はなにしているのと咎めたが、ふざけている様子だった。
彼女の目的地は、本殿の奥、階段の先だった。階段を登りはじめて数段で、彼女の息があがっていた。振り向いてみると、顔色がわずかに白かった。白。その白を目の前にして、またも恐怖を覚えた。
「大丈夫か、体調」
手を差しだしたが、彼女は大丈夫といって気丈に振舞った。
「先にすすみましょ。記憶があっているなら、すぐそこだから」
階段を登った先で、開けた場所へたどりついた。松の木がそぞろに並び、その間から海がのぞいていた。左手には鎌倉の街が広がっており、いくつもの生活が息づいている。
そこに立って、俺はしばらくなにもいえなかった。かすかな風が俺の頬に触れた。
俺はこんな風景画をどこかで見た気がするのに、この景色をいい表す言葉も作家も知らなかった。海は遠くまでかすんで、陸地に広がる街並みを際立たせていた。大枠で見れば静の絵だが、細部を見れば、どこもかしこもおなじではない動の絵だ。日の角度、人や車、さざ波。
「ここに連れてきたかった。いつのかな、ピアノの発表会のあと、お父さんに抱えられて、ここまで来たの。ずっとわたしの根っこにあった景色のひとつだから。いわば魂みたいなもの」
前後にどこへ行ったかも覚えていないらしい。つぶやく彼女は寂し気でもあり、決意めいてもいた。
しばらくまぶたを閉じて、脳裏に情景を焼きつけた。そして我にかえり、カメラを手にした。見るままの景色をフレームにおさめ、シャッターを切った。
いくつか撮って振りかえると、渚月さんは奥の方に立って鞄をいじっていた。どきりとして、腹の奥が熱くなった。きっとあの手紙を、見つけたに違いない。
目をこする彼女のうしろ姿を、すぐカメラにおさめようとした。風がひらり、舞っていく。光がきらり、反射している。
「答えはきょうの最後ね」
不意に彼女は振り向いた。カシャ、という音が、瞬間を切りとった。
光にかすんだ世界で、彼女だけがくっきりと浮かんでいた。涙は輝き、笑顔が咲いていた。風に吹かれそうになるハットを押さえ、こちらを向いている。丈の長いコートも風になびいて、このまま羽ばたいてしまいそうだった。ファインダーをとおした、一筋の涙を流す彼女は、海に痛ましいほど似あっていた。
「これが、あなたの魂」
小さくつぶやいた声は彼女には聞こえなかった。カメラを離し、まっすぐに彼女を見た。その景色を表す言葉を探して、ひとつだけ、はっきりと浮かんだ。
さなぎはいま、蝶になった。
「もう、こんな顔、撮らないでよ。恥ずかしいわ」
あともうすこしで、色を得られる気がする。悶えて、苦しんで、ようやく手にいれることができる気がする。かすんだ世界が明けていくような、不定形のもどかしさだ。
「最高級の笑顔が撮れた。さ、渚月さんがよければ帰ろう。人もたくさんきた」
渚月さんはその景色を、花火の一瞬を焼きつけるように見つめてから、近づいてきた。もういいんだな、と聞くと花の笑顔でええ、と答えた。
下りの階段も急な部分があった。だから先を行って手を支えながら降りるのを助けようとした。
「気をつけて。筋力がただでさえ落ちてる。降りるときは昇りより筋力がいるから」
「そんな御託をならべて、手をつなぎたいだけでしょう」
恥ずかしいながら示した優しさを笑われてむっとした。しかし彼女の顔はもう敬愛に満ち、俺の手をにぎった。
「ありがとう、祐くん」
寺の前の水墨画の庭園をすぎ、階段をおりていった。何度か渚月さんがふらつくのを支えて、入口までたどり着いた。
「写真、楽しみにしててくれ」
長谷寺駅に向かって歩きはじめた。きっとこれから、かすみのない人生をすすみはじめるのだ。いつかまた紅葉の時期に来たい。彼女とともに。
しかし渚月さんの返事はなかった。なにげなく振りかえると、全身の毛が逆立ったかのような、巡る血が泡立つような感覚を覚えた。
「渚月!」
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