第19話 牛歩も一歩

 土曜日の朝。

 翔真が力太郎の家に到着したときにはすでに、ももタロショーグンXの譲渡式をカメラに収めるために、テレビ局のスタッフがスタンバイしていた。

 簡単な打ち合わせの後、ディレクターは最後の牛の世話をする力太郎をレンズに収めながら、簡単なインタビューをする。


「どうして力太郎君は闘牛を飼おうと思ったの?」

「この島に住む人間なら、誰しも一度は自分の牛を持ちたいって思ってる。俺みたいに仔牛から育てる人もいるし、すでに闘牛をやってる強い牛を譲渡してもらう人もいる。それに、こうやって毎日欠かさず、自分で世話する人もれば、お金を払って調教を別の人にお願いする牛主もいるし、いろいろ」

「え? 自分の牛の世話を別の人にお願いするの?」

「この島では闘牛で勝つことは名誉なことで、強い牛を持つことが、一族の誇りなんだ。そのために、より強く育てられる人にお願いするのはあたり前なんだ。だからといって愛情がないわけじゃない。闘牛で勝つために何百万ってお金をかける。犬猫とはわけが違う」


 力太郎の話にディレクターも、この島独特の文化の片鱗を垣間見て、「へぇー」と感心したように何度もうなずいていた。

 力太郎はももタロの全身をブラッシングして、最後にトレードマークともいえる眉間の逆さのハート模様を優しく撫でる。ももタロは、今日が力太郎との最後の日だとは理解していないだろう。けれど、普段とはどこか違うと感じていたのかもしれない。

 やがて、桃華と若葉が連れ立ってやってきた。桃華はテレビ撮影を意識したのか、後頭部に小さなカボチャでも乗せたようなお団子ヘアと、白をベースにした花柄のワンピースでいつもより大人っぽい印象だった。若葉はいつものようにシンプルなプリントシャツとデニム姿だ。


「おはよう」


 手短な挨拶をかわすと、桃華は手にしていたペーパーバッグの中から、丁寧に折りたたまれた布地を取り出し、力太郎の腕の中に押し付けた。

「これ、本当は前の大会で勝ったら渡したかったんだけれど、もう使う機会がなくなっちゃうと思うと、もったいなくて」


 それだけいうと、桃華はぷいとそっぽをむく。力太郎は渡された布地を丁寧に広げる。一畳ほどもありそうな布地には、カラフルな原色のアクリル絵の具をつかい、ポップなタッチで描かれた海とサトウキビ畑、そして、風に舞う鮮やかな桃色のハート形の花びらの絵柄が上下対称になるようにペイントされていた。その真ん中には流麗なデザインの文字で『ももタロショーグンX』と書き込まれていて、四辺はきらびやかな金のフリンジがあしらってあった。


「このガウン、もしかして桃華が作ってくれたのか?」


 島で牛ガウンと呼ばれる闘牛の背中にかける布地は、力士でいう化粧まわしのようなもので、旗幕店で注文すれば安いものでも五、六万円はする。大会の勝利や昇進を祝って贈られることもあり、豪奢な刺繍の施されたガウンもまた、牛主の財力の証明ともいえた。


「ありがとう、桃華。これ、ももタロにかけてやってもいいか」

「まあ、そのために作ったから……」


 力太郎は翔真と二人で丁寧に桃華が作ったガウンをももタロの背にかけた。


「すごい。素敵!」


 若葉が頬の横で手のひらを組んだ。

 金糸の織り込まれた刺繍のようなきらびやかさはなかったけれど、梅雨の晴れ間の青空に映える桃華の手作りガウンは、目にするだけで心が晴ればれとする不思議な魔法がかけられているようだった。

 どう、似合う? とでもいいたげに、つんと鼻先を突き上げるももタロを見て、力太郎は腕で乱暴に顔を拭った。


「最高に似合うぜ。ももタロ」


 力太郎はそれが最後の抱擁とばかりに、ももタロの引き締まった首筋をゆっくりと抱きしめた。


 座間と知念は時間通りにやってきた。座間は結婚の挨拶にでも来たかのように、ぱりっとしたスーツを着ていた。それほどまでに、このももタロに惚れこんで、我が牛にしたいと思ってくれていたのだろう。それはそれで、元の牛主としては幸せなことでもあった。

 座間たちも手作りガウンを羽織るももタロの姿を見て「最高にイケてる」と笑顔で絶賛してくれた。最初はちょっと恥ずかしそうにしていた桃華も、赤の他人からそう評してもらって満更でもなさそうだった。


「座間さん、ももタロのことよろしくお願いします」

「ああ。僕が必ず、彼を島一番の、いや。日本一の横綱にしてみせるよ」


 力太郎と座間はがっちりと握手を交わし、お互いの肩を抱き合った。

 ももタロは知念に綱を引かれながら、抵抗もせず彼の用意した運搬車の荷台に乗り込んだ。むしろ、今から闘牛場に連れて行ってもらえるのか、と幸せな勘違いでもしているかのように、陽気にしっぽを振っていた。

 トラックには知念と座間の他に、撮影班のディレクターがハンディカメラを持って同乗した。道中、二人のインタビューを撮るらしい。

 すべての段取りを滞りなく済ませ、トラックのエンジンがブルンと唸りをあげ、ゆっくりと動き始める。

 遠ざかるトラックを追いかけるように駆け出した桃華が、防風林のガジュマルに囲まれた道の真ん中で、声の限りに叫んだ。


「ももーっ! 元気でねーっ!」


 翔真はその横顔に小さな光の粒を見た。けれど、涙を浮かべる桃華の口角はきゅっと上がっていて、悲しそうな雰囲気はこれっぽっちもなかった。

 力太郎も同じだった。ももタロを手放したくて手放したわけではない。けれど、本当に信頼できる牛主に出会った。そして、必ずチャンピオンにしてみせるといった座間の約束を楽しみにしている、そんなふうに思える、すっきりとしたいい顔をしていた。

 力太郎も桃華も、すでに次の一歩を踏み出している。何年も呪縛にかかったまま歩き出せないでいた翔真よりも、はるか前を歩いている。その姿に、翔真は自分の中でくすぶり続けていた迷いに、はっきりと答えを出した。

 たとえ牛歩でも一歩足を出せば、今よりひとつ前に進める。もう、こんなところで足踏みしていたくない。一刻も早く二人の場所まで追い付きたい。追い付かなきゃならない。闘牛士としてではなく、ひとりの人間として。 


「放送日が決まればまたお知らせしますので、楽しみにしていてください」


 残っていたアシスタントディレクターは、手際よく機材を撤収して、次の闘牛大会の取材のために、ワゴン車で三津間コロセウムへとむかった。

 湿度を帯びた風が力太郎の家の周りを囲むガジュマルの枝葉をさっと揺らす。遠くで鳴くアカショウビンのさえずりが、風に乗って届いた。


「無事、終わったな」


 安堵するように力太郎が呟く。ほんのわずか足元に視線を落とした力太郎は、すぐに顔をあげてニカッと笑いかけた。


「モモ、翔真、それとワッキー。三人ともありがとうな。ももタロも、もっとビッグになってやるぜって顔してやがったし、きっと心配ないな。それよりも、これからは翔龍若力をしっかりトレーニングしなきゃ。ももタロに負けないビッグな牛に育てる、それが俺たち生物部の目標だ!」


 翔真と若葉がうなずく。その隣で桃華が小さく首を振る。


「まあ、私は部員じゃないけど」

「それでもいいさ。今まで通りに俺たちといてくれれば」


 翔真はちらりと桃華の横顔を見る。仕方ないわね、といつも通りの勝ち気な瞳が、太陽の光を映して宝石のように輝いていた。

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