第23話 交渉

 緩やかな山道を少し登るだけで、額に汗が滲み始めた。タオルで汗をぬぐいながら、若葉は手にした鎌で畔に生える草を手慣れた様子で刈り取っていく。どれも若力の餌になるイネ科の植物だった。隣で同じように草を刈る力太郎が、歯を見せて笑いかけてくる。


「ワッキーもこの一カ月で随分と牛の世話が板についてきたよな」

「そんな。まだ全然……せいぜいこうやって餌の草を刈り取るくらいで」

「俺も翔真もそうだったよ。最初はみんな掃除や餌やりから始めるんだ。身近に触れ合うことで、お互いの境界線が狭まっていく感じがあるし、若力だって、ワッキーが自分の世話をしてくれる人だってちゃんと理解してるさ」

「そうだといいな」

 若葉は刈り取った草を若力に与えながらいった。

「わたし、おじさんに自分たちの牛が全島大会で勝つのを見たいんだっていったの。繁田くんたちがそうしたいからっていうんじゃなくて、わたし自身が本当にそう思ってる」

「うん」

「東京にね、日本武道館ってあるんだ。武道館っていうくらいだから、武道のための施設なんだけど、そこってぐるりと観客席が取り囲むようになっていて、よくコンサートホールとしても使われるの。この前、初めてコロセウムにいったときに思ったんだ。ここって、まるで武道館みたいだって。大きさは比べ物にならないかもしれないけれど、あの熱気、興奮、感動。ものすごいエネルギーが溢れている場所だって思った。この島の人にとっての武道館が、コロセウムなんだなって。だから、あのリングに自分たちの牛を送り出したいっていう島の人の気持ち、わたしもわかる気がする」

「武道館……」


 若葉の言葉を反芻するようにもう一度「武道館か」と口にした力太郎が、はっとした表情で顔をあげる。

 すると突然、若葉の両手をそのごつい手で包み込むように握りしめて、胸の高さに持ち上げた。

 若葉の首筋から耳までが一気に熱を帯びて、暑さとは別の汗が吹き出した。


「そうだ! 武道館! それだよ、ワッキー!」

 握りしめた両手をぶんぶんと揺すって力太郎が興奮した声をあげる。

「し、繁田くん、どうしたの?」

「ワッキー、いきなりで悪いんだけど、今日、これから家に行ってもいいか!?」

「ええっ!?」


 若葉の顔が湯気をあげそうなほど熱くなった。力太郎が嬉しそうに何かをいっているけれど、若葉の耳を右から左に抜けていく。

 鳴りやまない蝉しぐれのど真ん中で手を取り合う二人を見つめながら、若力が暢気にしっぽを振って「ムォウ」と小さく鳴いた。


     ♉


 下校をすると、その足で力太郎と翔真は若葉が下宿している小林家までやってきた。午後六時をまわり、水平線近くに立ち込めた雲に隠れる太陽が、緋色に染まる空の片隅に、浅紫の影を映し出していた。


「先に、おじさんに事情を説明してくるからちょっと待ってて」


 若葉は力太郎たちにそういって自宅に入る。制服姿のまま居間を覗くと、いつものように、夕方のテレビを見て晩酌をしている清正の姿があった。

 若葉は「ただいま」と声をかける。清正がこちらをむいて「おかえり」と返事をした。機嫌は良さそうだ。若葉はそのまま、清正の前に座ると、深呼吸をひとつしていった。


「おじさん。今ね、部活動の友達が来てるの。それで、おじさんと少し話がしたいっていうんだけど、大丈夫かな?」

「ああ、例の闘牛の? 話ってどういう?」

「それは直接、繁田くんたちから聞いてほしいんだけど……だめ、かな?」


 今まで、自分のことを肯定してくれる人たちに出会う機会が少なかったせいで、言葉にするたびに自信がなくなっていく。もし、断られたらどうしようという悲観的な気持ちが首をもたげる。

 しかし、清正はゆっくりと顔をあげると、若葉をじっとみつめて、柔らかに目を細めた。


「若葉ちゃんが学校で世話になっておるんだろう。わしも挨拶しまい。上がってもらいなさい」


 若葉は目を輝かせて「うん!」と頷いた。

 居間に力太郎と翔真を招き入れると、若葉もその席に着いた。


「若葉ちゃんの養父をしている、小林清正だ。いつも彼女と仲良くしてくれているようで、ありがとう」

 清正は座ったまま会釈をする。翔真と力太郎もそれに倣って頭を下げた。

「君たち、学校で牛を飼い始めたんだって? 若葉ちゃんがやりがいがある部活だと話てくれたよ」

「はい。慣れないことが多い中で、ワッキーはとても頑張ってくれています。今日は突然すみません。清正オジにお願いがあって来ました」

「調教のことだったら、学校側からきちんと認められていると顧問に説明してもらいたい、とお願いしていたはずだ」

「それは近日中に予定を調整します。今日はそれとは別件で。これは、調教師としての清正オジではなく、闘牛連盟の理事としてのオジにお願いしたいことなんです」


 調教のことを頼みに来たのだとばかり思っていた清正の表情がわずかに引き締まる。


「いってみなさい」

「夏の町長杯争奪全島一闘牛大会で、企画イベントをやりたいんです」

「イベント? どういうことだ?」

「三津間高校にはいくつかクラブがある。彼らは本土の生徒たちに比べると、活動の地域も限定されるし、発表の場も少ない。俺の先輩が吹奏楽部なんですけど、夏のコンクールには出場するものの、人数が少ない時点でほかの高校とは差が歴然として勝負にならないといってました。けど、年に何回も本土に渡ってイベントに参加できるほど予算もないし、親に交通費の負担をお願いするのも難しい。結局、負けるとわかっていてもコンクールに出るしかなくて、他は、文化祭や校内のイベントくらいにしか出番がないんだ」

「それが、闘牛連盟とどう関係が?」

「全島大会で彼らが演奏できないだろうかと思ってる。もちろん、連盟がOKをしてくれればの話だけれど」

「……なるほど」


 清正は腕組みして目を閉じた。


「闘牛大会について、肯定的な意見ばかりじゃないことは知ってる。残酷だっていう人もいる。でも、数千人の観客が詰めかける舞台、普段この島の高校生たちがどんな活動をしてるのかを知るいい機会になると思うんだ」

「確かに一理ある。連盟としても、これまでと違うことをすれば、違う層の集客にも繋がるし、マンネリ化だという声にこたえることもできるだろう。しかし、学校は許可するのか? 連盟も勝手に生徒たちをかり出すわけにはいかんぞ」

「俺が、きちんと学校に説明します。だから、清正オジも連盟にこの話を打診してもらえないですか?」


 短い沈黙が居間に落ちる。柱時計の秒針がカチコチと静かに時を刻んでいた。

 ややあって、清正が腕組みを解いて、その手で胡坐をかいていたふとももをパンと打った。


「いいだろう。話し合う価値はある」

「ありがとうございます!」


 清正の向かいで三人が顔中に喜びを滲ませて、それぞれの手に作った角どうしをぶつけ合った。その姿を見て清正がたずねた。


「それはなんだ?」

「俺が考えた、闘牛の角をぶつける挨拶」


 清正が気持ちいい笑い声をあげた。


「なるほど、そいつはいいな。それも連盟の連中に紹介しておこう」

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