第36話 覚悟

 自転車で若葉を三津間の自宅まで送り届けた後、力太郎はフェリーターミナルの突堤に立ち寄った。本土行きの船はすでに出航した後で、穏やかな風にゆれる波が、岸壁に砕ける音だけが繰り返されていた。定期的に明滅する灯台の光が小さな炎のようにいくつも水面に煌めいている。

 数多の星を飲み込んでゆく海の遥かむこうは、東京まで繋がっているんだと思うと、いつもここで夢を語っていたあの桃華の嬉しそうな姿が脳裏に浮かぶ。

 東京への憧れを語る桃華は、いつだって宝石みたいにきらきらと瞳を輝かせていた。あんな、鈍くくすんだ眼をした桃華なんてあり得ないし、絶対にあってはならない。

 力太郎はスマートフォンを取り出すと、翔真の電話番号を呼び出した。まるで、電話を待ち構えていたかのように、コールが鳴る前に翔真が出た。


『もしもし、リキか? やっぱりおれ、勢子はリキと二人で……』


 前置きなしで勢いよくそう切り出した翔真に、力太郎は真剣な声でいった。


「次の大会の勢子は翔真にお願いしたい。この島にいれば闘牛の勢子はいつでもできる。でも、俺には次の大会で絶対にしくじれないことがある。百人分の署名を集めて、連盟の理事や学校に大見得を切ったんだ。その責任は俺にある。だから、翔真……虎徹に勝って、モモを……ワッキーを助けてやってくれ。それが、俺から翔真への一生分のお願いだ」


 たっぷりと数秒間、肌にまとわりつく生ぬるい潮風を感じながら、翔真の返事を待った。やがて、電話口で翔真が『わかった』と短く返事をして続けた。


『おれ、ハルを失ってからずっと、リキと桃華の背中ばかり見ていた気がするよ。でも、もう立ち止まらない。絶対に追い付く。全力でこの三年間を取り戻す。虎徹なんかに絶対負けない』


 決意表明のような固い意志を感じる声だった。


「ありがとう。それともうひとつだけきいてもらってもいいか?」

『ああ、いくらでもきくよ』

「さっきまでワッキーと一緒だったんだ。あの子、いつもまっすぐで、生物部のことにも一生懸命で……翔真。俺、ワッキーのことが好きだ。でも、おれはこの島に残ると決めた人間だし、あの子はいずれ島を出なきゃならないから、ってそう思っていた。だけど、それってあの子を離島留学生だと、俺自身が線引きしてるだけだって気付いて……それじゃダメだって思ってさ」

『馬鹿だな。若葉が生物部のために一生懸命になれるのは、少しでもリキと一緒にいられることを選んだからだよ。もしかして気づいてなかった?』


 電話口で翔真が笑った。途端に恥ずかしくなって、顔がのぼせそうなほど熱くなった。


「そんなこと……わかんねえよ」


 力太郎はさっきの若葉との会話を思い出す。彼女は、前の学校で、仲良しグループの入り方がわからなくて、いつの間にか孤立したといっていた。力太郎は若葉にたった一言「一緒に飯に行こうぜ」と誘っただけだ。だけど、その一言が、彼女から孤独を消し去った。


『じゃあ、おれからもひとつ話しておくよ。おれは、桃華が好きだ。悪いけど、リキよりも好きだ』

「なんで俺と比べるんだよ!」

『はは、そうだな。でも、おれもそれをいってしまったら、おれたちのバランスを壊してしまうんじゃないかって怖かったんだ。でも、リキが自分の気持ちに気づいてくれたのなら、もう隠す必要もないかなって』

「だったら、なおさら負けるわけにはいかねえぞ」

『ああ。お前もな、リキ』


 お互いの気持ちを確認しあった二人は、今度は声を揃えて笑った。

 力太郎は電話を切ってポケットにねじ込み、ターミナルの駐輪場に停めた自転車にまたがった。ぐるんと大きくターンをして、三津間港の交差点を南にむかってペダルを力いっぱい踏みこんだ。

 胸の中で巨大な風船のように膨らんだこの想いを、今すぐに若葉に届けたかった。


     ♉


 翌日から力太郎と翔真と若葉の三人はそれぞれが、それぞれの役割をこなすべく行動を開始した。

 テスト前、清正に大切な役割があると告げられていた若葉に課せられたのは、翔龍若力の毎日の体調や餌の管理。そして、トレーニング後のケアをすべて受け持つことだった。

 特に、清正は餌の管理については、ことこまかく若葉に指示をだした。糞の状態を見ながら、粗飼料と配合飼料の割合を変えたり、トレーニングの内容に合わせて飲ませる水の量をかえ、時には興奮させたり逆にリラックスをさせるために、茶や焼酎を飲ませることさえあった。

 そんなことをして大丈夫なの? ときく若葉に、清正はニヤリと笑い、

「もちろんだ。ワシはこれで何頭も全島一の牛を育てた。なんの問題もない。ただし、カフェインの取りすぎには注意しろ。一時的に闘争心は上がるが、かえって牛の歯止めがきかなくなるからな」

 と教えてくれた。

 一方、勢子を命じられた翔真は、授業が終わるとその足で清正の牛小屋まで赴き、彼から牛の調教や勢子の技術などを徹底的に叩き込まれた。

 相手の牛の動きに対して、自分はどう動くべきか。そして、思いのままに動かせるようにするのには何が必要なのか。それまで翔真がなんとなくでやってきたことを、清正はひとつひとつに理由をつけて教えてくれた。

 清正のトレーニングは翔真にとって過酷なものだった。

 炎天下で数時間も、巨大な牛を相手にリングの中を駆け回るのだ。何度も熱中症にかかりそうになりながら、そのたびに翔真はバケツに汲んだ水を、頭からかぶった。

 その頑張りに応えるように翔龍若力もめきめきと力をつけてくるのが翔真にはわかった。

 最初はスタミナについて心配されていた若力だったが、何度も実践トレーニングを重ねるうちに、十分しか持たなかった体力が、十五分になり、二十分戦えるようになった。

 なにより、若力の闘志がけた違いに上がっていた。「『オレは強い』という自信が現れてきた」と、清正もその成長ぶりに目を細めていた。


 そして、そんな二人以上に張り切っていたのは力太郎だった。

 あの決意の夜の翌日から、毎日、吹奏楽部の練習が終わるころを見計らって、友樹のもとに出向き、曲目や演出方法などの細部の打ち合わせを重ねていた。


「今回はせっかく円形のリングだ。全方位から見えるように、簡単なドリルをしてみようと思う。演奏しながら陣形を作っていくんだ」

「いいな、それ。でも大丈夫なのか? コンクールの練習もしながらなんだろ?」

「問題ないさ。むしろ、みんな今まで以上に張り切ってる。演奏することへの張り合いが出てきたのかもしれない。それも力太郎のおかげだよ」

「やめてくれよ。俺は逆に吹奏楽部をダシに使っちまったと思ってるんだ」

 力太郎は眉をハの字にして大げさに手を振った。

「奥乃島ポークも出すんだろ? そっちの打ち合わせはすすんでいるのか?」

「こっちはこっちで大変だよ。もともとは十月の文化祭にむけて出荷する予定だったのを、早めなきゃいけないからな。でも、なんとかなりそうだ。まあ、農芸科の先生には別の意味で問題児だって目をつけられてるけど。後はテント借りたりとか、調理器具借りたりとか、そのあたりは文化祭委員が手伝ってくれることになった。連盟との打ち合わせも今のところ順調だし……」

「力太郎」


 指を折りながら確認していると、友樹が呼びかてきて、ひょいと顔をあげる。


「お前ひとりで抱え込んで、無理をしたりしていないか? もし、おれが手助けできることがあるなら、何でもいえよ」

「ありがとう。でも、今のままでも十分すぎるくらい助けられてるから。それに、翔真もワッキーも、モモも……みんな、全力を尽くして頑張ってるのに、俺だけ泣き言なんていえねえよ。ちゃんとやりきってみせる」


 友樹はふっと短く嘆息すると、窓の外を見遣った。紺瑠璃と緋色のコントラストが美しい夏夕空を描きながら、三津間の海の水平線に真っ赤な太陽が吸い込まれていく。


「だったら、おれだってお前の世話になってばかりいられない。演奏は絶対に成功させるから、安心して任せてくれ」


 もし、自分に兄がいたならこんな風なのだろうか。友樹の自信と優しさに満ちた声に、そんなことを考えながら、ふと力太郎の脳裏をよぎったのは翔真の兄、稜真のことだった。

 ちょうど三年前、力太郎と同じ高校二年生のときに、鬼虎の攻撃から翔真を助けた稜真。片足を失う大怪我を負ったというのに、三津間町役場の観光振興課で、今も闘牛の広報に携わっている。

 よく力太郎のことを闘牛馬鹿だというやつがいるが、自分など稜真の足元にも及ばないだろう。とはいえ、力太郎にだって相応の矜持と覚悟くらいはある。

 それは、自分の大切な人を守り、大好きな闘牛を守り、そして、大切な仲間との絆を守るという覚悟。


「わかった。絶対に成功させようぜ、トモ兄」


 約束のかわりに拳をぶつけ、力太郎はぴっと眉を引き締めた。

 大会開催までの二週間は、瞬く間に過ぎていった。 

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