第35話 その手に託されるもの
窓の外には幕を引いたような静かな宵闇が広がっていた。
力太郎は部屋の電気もつけず、自分の布団の上に突っ伏していた。
全島大会で勝ちたいという力太郎に、清正が下した裁定は、翔龍若力の勢子を翔真に任せるということだった。力太郎も交代要員としてバックアップにはまわるが、試合までの実戦の稽古はすべて翔真がするという。
なぜ、勝つために勢子をするのが、自分ではなく翔真なのか、力太郎は清正に見解を求めた。
「それは、力太郎自身が一番よく知っているはずだ」
清正はそれ以上の答えをくれなかった。
たしかに、中学生から勢子をしている翔真は、力太郎と比べてそつなく勢子をできるだろう。けれど、この三年間、一度も闘牛大会には出ていなかった。その間に力太郎だって、ももタロを全島大会に出場させている。力太郎の勢子としての技術が翔真に劣っているとは思えなかった。なのに清正は翔真を選んだ。
翔真に電話してみようか。
もしかしたら、翔真は清正から何かをきいているかもしれない。
けれど、それをきいたところなんの意味があるというのだ。
思考が同じ場所で渦を巻いて前に進んでいかない。大きなため息をついて手にしたスマートフォンのディスプレイを見つめたとき、ぱっとバックライトが点灯して、画面に新着メールを知らせる通知が浮かび上がった。
『外、出てこれる?』
メールは若葉からだった。
思わず画面に表示されている時計を見ると、午後九時をとっくに過ぎていた。まさか、こんな時間に若葉が家まで来たのだろうか?
上着を羽織り、開け放っていた縁側からサンダルをつっかけて、自宅の前の道路まで出てみると、防風林にしてある大きなガジュマルの下に、自転車に乗った若葉がいた。手にしたスマホの光で、上半身だけが青白く照らされている。
「ワッキー? どうしたんだよ」
「おばさんに自転車借りてきちゃった」
若葉から控えめな笑みが返ってきた。
「それはいいけど、大丈夫なのか、こんな時間に家を出て……」
「うん。平気。おじさんにも繁田くんの家に行くっていってあるから……」
「そうか? とりあえず、あがっていくか?」
若葉が小さく横に首を振った。
「星がすごくきれいだから、外で話したいな」
力太郎は「ちょっと待ってて」と家に取って返す。
台所でテレビを見ていたカツ子に「ちょっと出てくる」とだけ告げて、取って返し「この前の港までおりよう」と、家の前の道を、学校とは反対方向へと下っていった。
♉
二見灘漁港そばにある広場のステージの上で、ごろんと上を向いて寝ころんだ。いつだったか翔真と桃華と若葉の四人で、同じようにここで空を見上げたことを思い出す。
月が早い時間に沈んだせいか、今日はいつにもまして星がきれいで、まるでこのステージが、エレベータのように宇宙空間へと昇っていくような感覚さえあった。
しばらくの間、粉砂糖を振り撒いたような夜空を見つめていた若葉が、静かに口を開いた。
「繁田くん。わたし、ずっと謝らなきゃって思ってて……」
「何を?」
「今回、生物部がこんな風になったのって、多分わたしのせいだから」
「何いってるんだよ。なんで、ワッキーのせいで虎徹にからまれたり、桃華が巻き込まれたりするんだよ。離島留学生だからなんていうなら、二年前にそういう事件はあったかもしれない。でも、ワッキーは無関係だし、今回の問題とも関連があるとは思えねえよ」
力太郎は腕をついて上半身を起こした。暗闇のなかでも、若葉が沈んだ表情をしているのがわかった。
「……もしかしたら、繁田君も噂をきいたことがあるかもしれないけれど、私、東京ではシェルターっていう民間の児童養護施設にいたの」
「ずっと気になっていたんだけど、ワッキーの両親って亡くなったのか?」
「ううん……」
若葉は黙り込んだ。
力太郎はしばらくそのままの姿勢で若葉を見つめていたけれど、結局、またごろんと仰向けになって、夜空を見上げた。
遠くで繰り返される波の音に呼応するように、森のどこかで、コノハズクが「コホッ、コホッ」とできそこないの尺八のような声で鳴いた
「わたしね、お母さんに育児放棄されて、それで施設に入ることになったの」
「……ごめん、そんなことになってたって、俺、知らなくて……」
力太郎はどう気持ちを表現すればいいのかわからず、謝罪の言葉を口にした。しかし、若葉はゆっくり首を横に振って、大丈夫といって続けた。
「物心がついたときから、父親はいなくて、ずっと母子家庭だったの。でも、小さなときは裕福じゃなかったけれど、それなりに幸せだったし、お母さんもよく笑っていたと思う。ただ、わたしのお母さんはすごく男性への依存心が強い人で、家にはいつもわたしが知らない男の人が来ていたの。わたしが中学生になったころから、お母さんはご飯もほとんど作らなくなったし、夜家に帰らない日も多くなっていった。でも、家にはお金も、食べ物もなくて……それで、とうとう空腹に耐えかねて、万引きしたところを見つかって……なぜ万引きなんてしたのかと聞かれて、三日間何も口にしていなかったって答えた。それからいくつか質問をされて、その日のうちに一時保護されたの……」
「それがシェルター?」
「ううん、保護されたのは区の児童相談所だった。一時保護所っていって、虐待やネグレクト以外にも、非行行為で保護された子たちなんかもいた。ただ、わたしの場合は、危険性が低いと判断されたこともあって、数日保護されたあと、また家に戻ったの。
だけど、お母さんのネグレクトは続いた。それどころか、お母さんがよく連れてくる男の人が、わたしに暴力をふるうようになって、お母さんもそれを止めることはなかった。結局、わたしはまた区の児童相談所に逃げ込んだの。さすがに親の元に戻るのは危険だと判断されて、今度はシェルターに入所することになったの。シェルターは一時保護所と違ってNPOが運営していて、通学が認められていたから、わたしは中学も卒業できたし、高校にも通えるようになったんだ……でも、わたし、自分を表現するのが苦手だし、みんながやってるみたいに仲良しグループに入るとか、そういうのもどうしたらいいのか、よくわからなくて……」
若葉はまた言葉を探すように黙り込んだ。
「話したくないことなら、話さなくていいんだぞ。それに、ワッキーは俺の大事な仲間だ。俺は絶対に、ワッキーの味方だって約束する」
「ありがとう、繁田くん。でも、大丈夫だから、話させて。わたし、クラスでも孤立しちゃってて、そうしたらそのうちに、わたしが施設から通ってるって噂になって、そのせいで、いじめの標的にされてたの。それで、いちど施設の人に学校をやめたいって相談したの。そうしたら、学校をやめるのであれば、施設を退所して自立した生活をしなさいっていわれちゃって。児相やシェルターってどこも定員オーバーの状態なんだ。日本ってほんとどうなってるのかって思う」
自虐的な笑いをこぼして、若葉は続ける。
「NPOは弁護士の先生が代表だったんだけど、その先生が離島留学制度を教えてくれたの。ちゃんと高校の単位も取れるし、留学先での里親も探してくれるからって。国からの援助もあるちゃんとした制度だから、今の高校をやめるぐらいなら、思い切ってそういう方法もあるんだって教えてくれた。でも、施設利用者のわたしを受け入れてくれる自治体はなかなか見つからなかった。そんな中、唯一、わたしを受け入れてくれたのが、三津間町だったの」
「それが、ワッキーがこの島に来た理由ってことか……でも、どうしてそれが、虎徹が俺たちにつっかかったり、桃華を懐柔しようとしたりする原因になるんだ?」
「これはただの憶測でしかないけど……わたしが生まれたのは東京にある奥島会病院だったの。そして、わたしには父親がいない……もしかすると、肥後くんはどこかから、わたしの出生に関する秘密を知ったのかもしれない。それが桃華ちゃんや、繁田くんたちと関係することだったんじゃないかって思ってる」
星空を二つに割るように流れ星が走った。けれど、今は星に願いごとをこめる気分にならず、視線が光の消えた先を追っただけだった。
「わたし、ときどき思うことがあるの。もし、わたしが離島中学生じゃなくて、この島で生まれ育っていたら、繁田君や桃華ちゃんをこんな面倒なことにならなかったんじゃないかって……どうして、同じ奥島会病院なのに、わたしは東京の病院で生まれちゃったんだろうって」
「そんなこと……考えても仕方ねえよ。この島にやってきて、俺たちと闘牛やっている今のワッキーが、どこで生まれようが、誰の子どもだろうが、そんなこと、関係ねえ。それを理由に排除するなんて、ユイの精神じゃねえよ」
よく雑誌なんかではユイのことを、人と人との繋がりや縁を大切にする心だと紹介されている。でも、本当はそうじゃないと力太郎は思っている。
遥か昔から、この島の住民たちはことあるごとに虐げられてきた過去がある。
琉球や薩摩による支配、戦後のアメリカ統治。その後も本土と隔絶され、長く貧しい時代が続いたうえに、台風や大雨といった自然災害も多い。自分たちの生活を蹂躙しようとする、あらゆる外的要因から身を守るためには、島民たちは助け合うしかなかったのだ。
いまでこそ、人々の暮らしは昔に比べてはるかに豊かになった。それでも、首相の不用意な発言に一致団結して、翻意させるぐらいのことは容易くやってしまう。そういう、生きるための自己犠牲みたいなものが、脈々と受け継がれてきている。
島民たちは、たった一人で生きていくことなんてできないと知っている。誰かを助けることが、やがて自分を助けることになると知っている。
だからこそ、人との縁を大切にできるのだ。
「繁田くん」
その呼び声は柔らかで上質な絹織物で包まれたような優しさをまとっていた。
「わたしは闘牛のことなんてまるで分らないから、おじさんがどうして鶴野くんに勢子をしろっていったのか、本当のことはわからない。だけど、おじさんが繁田くんに何を期待しているのかくらいはわかるよ」
「え?」
「いつも家で嬉しそうにいうんだよ? いつか繁田くんを闘牛連盟の理事にしたいって。おじさん、次の大会で繁田くんがいろんな企画をしてくれるのを楽しみにしてるんだよ。繁田くんが勢子として一生懸命トレーニングをつんだとしても、試合に勝てるかどうかはわからない。でも、大会の運営を成功させるためには繁田くんの力が不可欠なの」
隣に寝そべっていた若葉がそっと力太郎の手を握った。小さくて、柔らかくて、すこしだけ緊張して震える手。隣にいる若葉の表情すらはっきりと見えない暗闇の中でも、彼女が表情を緩めたのがわかった。
「だって、繁田くんのこの手の中には、百人分の想いが託されてるもの」
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