第4話 それぞれの闘牛

「すごい、大きい!」


 若葉は自分の背丈ほどもある巨体に目をキラキラさせながら興奮気味にいった。ももタロショーグンXは艶のある黒毛の牛で、眉間には白毛で逆さのハートマークが入っている。闘牛の象徴ともいえる立派な角は、鎌のように美しいカーブを描いている。


「これでも小さいほうだ。大きいやつは体重が一トンを超えるから」


 庭先の杭に牛を繋ぎとめると、力太郎は長靴に履き替えて、牛舎の糞の始末をし、ホースで床をきれいに洗い流す。

 掃除を終えると新しい敷き藁を入れ、ももタロを牛舎の中に引き入れる。文字通りの牛歩で柵の中に入ると、ももタロはその正面、六十センチほどの間隔で建てられた丸太の柱の間からぬっと首を突き出した。


「わたし、こんなに近くで牛を見たのって初めて」

「まあ、都会じゃ牛なんて、まず見ないわよね」

「この島じゃ普通だけどな。翔真、綱持っていてくれ」


 力太郎はももタロの鼻綱を翔真に渡す。翔真はそれを短く握り、ももタロが動かないようにする。


「これからどうするの?」

「角研ぎだよ」力太郎に代わって翔真が答えた。「角の先端を研いで、しっかりととがらせるんだ。闘牛は角を使って攻撃する。そのためには角で相手にダメージを与えなきゃだめだからね」


 力太郎はやすりを手にして、牛の正面にある四角い餌桶の上に立った。若葉が空っぽのままの餌桶を見て力太郎にたずねた。


「餌はあげないの?」

「明日は大会だからな。胃袋を軽くしておくんだ。翔真、ちゃんと綱握ってろよ」


 そういうと力太郎はももタロの角をやすりで丁寧に研いでいく。ももタロ自身も、明日が大会だと知っているかのように、落ち着いた表情で力太郎に角研ぎをされていた。

 左右の角を研ぎ終えると、その出来栄えを確認するために、力太郎は角の先端を人差し指で押さえ、「痛てぇ」と満足そうに笑った。

 仕上げに清めの酒と塩を角に刷り込んで角研ぎは終わった。


「凄い。ちゃんとした儀式って感じがする」

「そうだな。昔はもっと細かいしきたりもあったんだ。魔除けとして牛舎の周りをしめ縄で囲ったり、トベラっていうクサいにおいがする木を牛舎に置いたりな。あとは、家で針仕事をしちゃダメだとか、髭剃りもダメとか」

「どうして?」

「顔や指を怪我するのが、縁起悪いから。闘牛はこの島最大の娯楽だってよくいわれるけど、俺たちは闘牛を娯楽だと思ってやってるわけじゃない。確かに、どの牛が強いのか、どんな戦い方をするのか、そういうのは見ていてワクワクする。だけど、自分の牛が戦うときは、やっぱり緊張する。負けて、もし闘争本能を失ったら、それはそいつ自身の価値を失うことだから」


 力太郎は若葉におおらかに笑ってみせた。


「だからこそ、俺たちは精一杯、牛の世話をするんだ。絶対に負けないように。ちゃんと強い絆で結ばれてるって、そう思えるように」


 翔真の脳裏に、在りし日の春疾風の姿がよぎる。

 兄の稜真が中学生になったとき、念願の闘牛を飼えることになり、せっかくだからと沖縄のうるま市にある闘牛専門の生産農家に仔牛を見に行った。そこで翔真は生まれて間もない一頭の仔牛と出会った。その牛は他の牛と違って、凛とした鋭い視線を翔真に送っていた。翔真は一目でその牛が気に入ってしまい、檻の前から離れられなくなってしまった。

 しかし、今日は兄の闘牛を買いに来たのだ。

 おれはお前を飼ってやることはできないんだ。そう思いながら見つめ返していると、頭上から声がした。


「こいつにします」

 稜真だった。兄は翔真が一目惚れした牛を指名すると、翔真に微笑んだ。

「こいつは、翔真が育てるんだ。こいつもきっとそれを望んでる」

「でも、兄ちゃんの……」

「こんな相思相愛っぷりを見せつけられちゃあ、かなわんって。それに、こいつはきっと強くなるぞ」


 小学五年生だった翔真は仔牛に「春疾風」と名付け、毎日必死に世話をした。雨の日も、風の日も、一日も欠かさず畑の草を刈って餌をやり、朝と夕方は浜までの往復二キロの散歩にも連れて行った。ときには牛小屋で寝泊まりまでして、かけられる愛情のすべてを注いできた。

 それだけに、鬼虎との取り組みで春疾風を助けられなかったことが悔しくて、逆に兄に助けられて自分だけが無傷でいたことが情けなかった。


 処分が決まり、業者が手配したトラックに春疾風が乗せられるとき、モォー、モォーと、翔真を呼ぶ声が耳について離れなかった。これまで何度、あの場面を夢に見たことか。そのたびに翔真は、胸の奥が引き裂かれるような痛みを覚え、おれはもう闘牛をしちゃいけないんだと、そう思うようになってしまっていた。


     ♉


 角研ぎを終え、四人は庭先でしばらくおしゃべりをして過ごした。西の空が鮮やかな茜色に染まりはじめたころ、桃華と若葉を三津間行きのバス停まで見送って、翔真は自宅に戻った。


「おかえり、翔真」


 玄関前で、ちょうど仕事から帰宅した稜真と鉢合わせになった。三月に高校を卒業した稜真は隣町の三津間町役場に就職し、今は観光振興課で勤務していた。ワイシャツ姿の稜真は義足の左足を引きずるようにして、翔真に近寄った。


「力太郎の家にいっていたのか?」

「うん」

「そうか。明日はももタロの取り組みだもんな」


 稜真はにっこりと笑った。

 翔真にとって救いだったのは、兄のこの明るい性格だった。

 暴走した烈豪鬼虎に左足大腿部を角で突き刺され、一時は失血によって命の危険さえあった。下腿部切断という大きな手術で一命をとりとめたものの、左足を失った稜真は、闘牛の勢子はおろか、牛のトレーニングさえもできなくなってしまった。

 しかし、稜真は決して翔真や相手の勢子を責めたりしなかった。それどころか、


「牛は一族のために命懸けで戦っとる。左足一本で済んで、おれは運が良かった」


 と、手術後にはあっけらかんと笑っていた。

 だからといって、稜真に対する罪悪感が拭えたわけではない。

 表向きには稜真とそれまでと同じように接していたけれど、闘牛の話をすることも、一緒に観戦することも控えていたし、当然、翔真自身が牛を育てたり、誰かの牛の勢子につくこともしなかった。

 框に腰を下ろして靴を脱ぎながら、稜真は翔真の顔を見上げた。


「なあ、翔真。明日の大会、一緒に見に行かないか?」

 翔真は「え?」と意外そうに兄の顔を見る。三年前のあの取り組み中の事故以降、稜真から観戦の誘いを受けたのは初めてだった。

「でも、おれも学校の友達と一緒に見に行くから」

「そうか。だったらいいんだ」


 稜真はぶんぶんと手のひらを振った。そして、ほんの少しだけ恥ずかしそうに目許を緩めた。


「翔真、ずっと春疾風やおれのことを気にしていただろ。たしかに、ハルは負けて、廃牛になった。あの取り組みがなければ、おれも怪我することはなかったかもしれん。でも、今年で翔真もあのときのおれと同じ歳になった。翔真もあの日のおれと同じように、自分で考え、自分の意思で行動できるはずだろう。だから、もう気を遣うな。おれが左足を失ったのはおれの意思の結果だ。翔真が闘牛をやるのもやらないも、すべて翔真の自由だ。ただ、もし進学を希望するなら、翔真がこの島にいられるのはあと二年しかない。島を出るまでに、翔真が本当にやりたかったことをやらないと、きっと後悔することになると思うんだ」

「兄ちゃん……」

「それに、父ちゃんも母ちゃんも、おれがちゃんと就職できて、あの事故のことも今は昔の出来事くらいにしか思っとらん。おれはもう勢子はできんけど、観光課の仕事でたくさんの牛主たちと繋がりがある。翔真、大丈夫だ。おれは今も、ちゃんと闘牛をやっとる。おれが思う闘牛を、一生懸命」

 大丈夫、と稜真はもう一度繰り返し、優しく微笑んだ。

「だから、遠慮なく翔真の意思で、翔真の思う闘牛をやれ」


 兄は偉大だ。

 視界の真ん中でぐらぐらと歪む兄の笑顔があった。

 翔真は声を詰まらせながら、「うん、ありがとう」と一言だけ口にした。

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